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歓談に花が咲いて、緩やかに時間が流れる。
知らぬうちに夜も更けたようで、幼い少女はうつらうつらと舟を漕ぎ始める。真祖にうながされて、老執事が少女を抱きかかえて、客室へと運ぶ。興味なさげにそれを眺めるグラムに、お前も抱っこされたのだぞ、と教えてやりたい。
「真祖様は──」
真祖という単語に慣れないせいか、真祖様というのも何とも呼びにくい。呼びやすいように、よかれと思って、続けて問う。
「真祖様は、お名前は何とおっしゃるんですか?」
「おおお」
私の質問に、まるで頭でも抱えるように、フィーリがうめく。
『吸血鬼は名を教えぬ。真名は吸血鬼を滅ぼす力を持つ故な』
苦笑しながら、真祖が返す。どうやら、大変失礼なことを聞いたらしい。
『気にせずともよい』
言って、真祖は思案するように、ふむ、とつぶやく。
『リムステッラは、まだ滅びてはおらぬのかな?』
リムステッラ──世情に疎い私でも、さすがに知っている。私の暮らす国の名である。
「滅びてないと思いますけど……」
寡聞にして、国が滅びたという話は聞いたこともない。
『ならば、余のことは「伯爵」と呼ぶがよい』
真祖──伯爵は、よいことを思いついたという顔で──威厳あるものとしては、ずいぶんと幼い、かわいらしいとさえ思える顔で──いたずらっぽく告げる。
『リムステッラ建国の折に、何とかと名乗る王が訪ねてきて、叙爵されてな。余の騎士は、伯爵では爵位が低すぎると憤慨しておったが、呼び名としてはよいかもしれん』
自らの発案を、たいそう気に入ったようで、伯爵は何度か頷きながら続ける。
『時の為政者は、代替わりすると、余のところに機嫌をうかがいにくるのだ。国なんぞ、誰が治めようと干渉などしないというのに、ご苦労なことよ』
伯爵は笑い話のように語るが、私が王であったとして、自らの治める国に伯爵のような得体の知れないもの──その気になれば国を滅ぼせるようなもの──が存在するとなると、やはりその動向は気にはなることであろう。
「古の王に同情しますね」
素直に述べると、余のことなど気にしなくてよいのにな、と伯爵は釈然としない様子で首を傾げる。その仕草が、どうにも人間くさくて、親しみがわいてくる。
『それにしても、本当にエルディナに似ておるな』
「そんなに似てるんですか?」
尋ねてみると。
『容姿だけはな』
「中身は似てないですね」
二人そろって、意味深に答える。
「どういうことよ?」
「エルディナ様の容姿は、端的に言えば、髪の長いマリオンです。ただ、中身はまったく異なります。エルディナ様は、知性にあふれており、思慮深いお方でした。その反面、高すぎる知性故に、世間に対して斜に構えるような皮肉屋なところもありました」
フィーリの答えに、はて、と思い至る。
「私に知性があふれてないみたいに言うね」
「自分に知性があふれているみたいに言いますね」
ふてぶてしく返す旅具を指で弾く。
いつものようにやりあう私たちを見て──伯爵は声をあげて笑う。微笑はあれども、笑い声を聞いたのは初めてで、いささか面食らう。フィーリに至っては唖然としているようだから、よほどめずらしいことではあるのだろう。
ひとしきり笑ったところで、伯爵が問いかける。
『そなた、エルディナのように旅を続けるつもりか?』
伯爵に問われて頷く。少なくとも王都までは旅を続けるつもりである。
『そうか。では、そこな旧友に免じて、そなたにかつてエルディナに贈ったものと同じものを贈ろう』
伯爵が指を鳴らすと、老執事が木箱を運んできて、中から取り出した外套──真紅の外套を、うやうやしく私に捧げる。
『余の血で染めた布を用いて仕立てた外套だ』
手渡された外套は、文字どおり、血のように赤い。血で染めたと聞いてしまうと、鮮やかな赤は、むしろ禍々しく感じられて、正直な思いが口をついて出る。
「……呪われない?」
『無礼なやつよ』
言葉とは裏腹に、伯爵は心から楽しそうに笑う。
『旅には役立つ。古竜の炎を浴びても燃えることはあるまい』
「吸血鬼の血って、そんなにすごいの?」
「伯爵様の血が特別なのです」
真祖と古竜であれば、真祖の方が格上ということだろうか。かねてより、伝承や物語に登場する竜という存在に憧れを抱いており、いつかは狩人としても手合わせを願いたいと思っていたのだが──まだ見ぬ竜に申し訳なく思いながら、その格を一段下げる。
「でも、赤は目立つなあ」
外套を広げて、つぶやく。
鮮烈なほどの赤は、いかにも貴族然としていて、美しいとは思うのだが、身にまとうとなると、どうにも気が引ける。
『念ずれば色くらい変わる』
試してみよ、と言われて、外套を手に念ずる──と、外套は、まるで染め直したように、真紅から深緑へと色を変える。
「おお」
好みの色になってみると、よい外套に思えてくるから不思議である。着古した外套を脱いで、フィーリに渡し──捨てておきますよ、と旅具──深緑の外套をはおる。外套は、あつらえたように身に合って、思わずその場で、くるりとまわってしまう。
『気に入ってもらえたようで何より』
伯爵は満足そうに頷く。
『フィーリも、旅を続けるにあたって、必要なものがあれば言うがよい』
何でも補充してよいからな、と続ける。
「いえ、幸いにして、在庫で足りております。お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」
伯爵とフィーリのやりとりを聞いて、はっと思い出す。
「本!」
書斎にあった本。必ず戻ってくると誓った本。旅に必要なものを補充してよいというのであれば、本を補充すべきではないだろうか。
「外套よりも本の方がうれしいです!」
「本の方が、とか言わないでください」
罰当たりですよ、とフィーリに諫められるが、興奮する私には聞こえない。
『書斎にあるものでよければ、好きなものを持っていくがよい。ただし、本の蒐集は余の趣味でもあるのでな。必ず返すように』
伯爵は、私の失礼な物言いに頓着することなく、鷹揚に応じる。さすがは伯爵。どこぞの旅具とは度量が違う。
『目当ての本はあるのか?』
「赤毛の勇者の冒険譚!」
間髪を入れずに答える私に、伯爵は懐かしそうに目を細める。
『あやつか。愉快な男であったな。騒々しいのが玉に瑕であったが』
「会ったことがあるんですか!?」
知り合いのように語る伯爵に、勢い込んで尋ねる。
『城を訪れる友の一人であった。あやつから冒険譚を聞いて、余が本にしたのだ』
世に出まわっているのは余の本の写しである、と誇らしげに続ける。古代語の本が原本で、公用語の本は写本らしい。私が読んだのは、写本の写本のそのまた写本くらいだろうか。どういう経緯かは知らないが、たまたま本を持っていてくれた村長に感謝する。
しばし待つと、老執事が十数冊の本を持ってくる。
「ありがとう!」
受け取って──今すぐ読みたいのを我慢して──フィーリに本を渡す。旅具に保管しておけば、大切な本を失くすこともあるまい。
『本を返しにくるときは、そなたの旅の話も聞かせてくれ』
場合によっては本にすることも考えよう、と伯爵は恥ずかしいことを言う。
『エルディナは、余の友であった。マリオンよ、そなたも余の友であってくれるとうれしい』
少女にそうしたように微笑む。心とろかすような微笑を向けられては、断れるはずもない。
そう、断じて本に篭絡されたわけではないのだ。
『さて』
伯爵は、会話に加わらず、テーブルの隅でふてくされたように腕を組んでいるグラムに視線を向ける。
『余は、そなたの嫌う吸血鬼であるが、殺さなくてよいのか?』
「恩を受けた相手に手を出すほど獣じゃねえ」
ふん、と鼻を鳴らす。
しかし、言葉とは裏腹に、グラムは針のような殺気を放っている。何のことはない。襲いかかるのを我慢しているだけの獣である。狂犬だ。
グラムの殺気をそよ風のように受け流して、伯爵は続ける。
『余の部下が迷惑をかけた詫びだ。望みのものがあればくれてやろう』
「……情報がほしい」
グラムにしてはめずらしく、懇願するように続ける。
「西の国の外れに、スヴェルという村がある。その村を襲った吸血鬼の情報がほしい」
『仇討ちか』
「お前には関係ねえ」
そう言ってのけるグラムの胆力に、伯爵は微笑で返す。
伯爵が指を鳴らすと、老執事がテーブルの上に地図を広げる。
『スヴェルとはどこだ?』
伯爵がグラムに問う。
グラムは、地図上に視線を這わせて、やがて奥深い山の麓に目を留める。
「このあたりだ」
『……なるほど』
伯爵は、グラムの示した一画をみつめて、不快そうに眉をひそめる。
『まず、言っておく。余は無理やり血を吸うことはない。余の威厳、魅力の前に、人は進んで自らの首を差し出す。余は、相手から請われて血を吸うのだ。誰彼かまわず喰い散らかすような真似はせん』
確かに、初めて相対したときの威圧をもってすれば、人間を意のままに操る──もとい、伯爵に心酔する人間が現れるのも不思議なことではないだろう。
『だが、嫌がるものをいたぶって、無理やりに血を吸うことを至上とする血族があるというのは知っている。その血族が、そなたの言うスヴェルを含む一帯を根城にしておる』
言って、伯爵は地図上に指を置き、円を描く。
『吸血鬼は根城を動かぬ。余の知るその血族も、西の山脈を動くことはなかろうよ』
円の中心──山脈の一点に、とん、と指を置いて告げる。
伯爵の指先──地図上の一点をにらみつけて、グラムは微動だにしなかった。




