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「ロレッタ──」
いかな半神といえども、神代より生きる古竜の業火に呑まれては、ひとたまりもなかったのであろうか。かつてロレッタであったものを呑み込んだ炎は、天高く渦巻き、まるで生きているかのように蠢いている。
私は絶望のあまり、旅神の弓を取り落としそうになる。ロレッタの笑顔が浮かんで、膝から崩れ落ちそうになる。しかし──炎渦の中に揺らめく人影が見えたような気がして、何とか踏みとどまる。
次の瞬間──炎渦を斬り裂いて、ロレッタの姿が現れる。
「ロレッタ!」
私は歓喜の声をあげる。ロレッタの身に着けているものは、そのほとんどが業火に焼かれているというのに──さすがに竜革の装備はそのかぎりではない──彼女自身には傷一つなく、私は安堵の胸をなでおろす。さすがは半神!
と、安心したのもつかの間──私はすぐに、当のロレッタが尋常の様ではない、と気づく。どうやら意識を失っているようで、彼女は虚ろな瞳で立ち尽くしてる。ゆらりと揺れる彼女の立ち姿は、一見すると危うく映るのであるが、その印象とは裏腹に、赤剣を正眼に構える姿に隙はない。
ロレッタはおもむろに足を踏み出して、水が流れるごとく、緩やかに赤剣を振るう。それだけで──たったそれだけで、渦巻く炎は赤剣に吸い込まれるように消えて、剣はその紅き輝きを増す。そして、呼応するように、彼女の燃えるような赤毛も、さらに紅く輝く。
『我が炎を──喰らっただと!?』
赤竜は驚愕の声をあげて──その視線は、吸い寄せられるように、ロレッタの握る赤剣に向かう。
『その剣は──火神の神具!?』
赤竜は、伝説に謳われる赤剣を認めて、ようやくロレッタの正体に気づく。
『貴様、まさか──まさか、勇者か!』
「──おおお!」
赤竜の絶望の叫びに応えるように吠えて、ロレッタは赤剣を構えて駆ける。
『来るなあああ!』
赤竜は、先までの威厳が嘘のように、みじめに後ずさりしながら炎を吐く。しかし、さしもの神代の業火も、今のロレッタを焼くことあたわず──彼女が赤剣を振るうと、炎は先と同じく喰われて、剣はさらに紅き輝きを増す。
赤竜は、自らの炎が通じないことを、ようやく悟ったのであろう。どうにかして逃げようと羽ばたこうとして──そして、いつのまにやらその巨体が縛められていることに気づく。見れば、奴を縛るのは巨木のごとく太き縄──ロレッタの紡ぎ出したであろう糸をよりあわせた縄である。
「力ある言葉を──唱えてない」
私は呆然とつぶやいて──ロレッタが神代の魔法を操っているのだと理解して、ぶるり、と震える。
「おおお!」
再び吠えて、ロレッタは飛ぶ。それは、疾風のごとく駆けた私の跳躍を彷彿とさせるほどで──彼女は赤竜の頭に降り立って、着地の勢いのまま赤剣を突きたてる。
『──!』
赤竜は言葉にならぬ絶叫をあげて、激痛にのたうちまわらんともがくのであるが、ロレッタの糸がそれを許さない。
ロレッタは赤剣をさらに深く押し込んで──そこに天から雷が落ちる。雷は赤剣の柄に落ちたかと思うと、そのまま赤竜の鱗を伝うように、巨竜の全身に広がる。その様は、まさに轟雷である。
しかし──と、私は言葉を失う。それは、私の知る轟雷ではない。雷は、その一つひとつが赤竜の鱗を穿ち、その身を焦がすほどに焼き尽くしているのである。赤竜の絶叫すらもかき消すほどの轟雷が鳴り響いて──あまりの轟音に、私の耳は一時的に聴力を失う。
「──!」
無音の中──見れば、ロレッタが私に向けて何かを叫んでいる。彼女の目には力が戻っており、私に身振りで何かを伝えようとじたばたしている様からするに、正気に戻ったのであろうが──残念ながら、彼女の言葉は私の耳には届かない。
「──!」
私は目を凝らして、ロレッタの唇を読む。
「──弓を!」
彼女の唇がそう動いたのを認めて──私は我に返る。いつのまにやら弓の封印は解けている。私は、いまだ縛められて動けぬ赤竜に向けて、弓を構える。
『弓よ! すべてを穿つ弓よ!』
封印の解けた弓に向かって、私は命ずる。
『古の盟約にもとづき、我が力となりて、天外を穿て!』
放たれた矢は──光だった。私は矢を放った反動で後方に吹き飛びながらも、その光の軌道を目で追う。光は赤竜を貫き、山を貫き、そして彼方の大雲をも貫いて、どこまでも直進して──次の瞬間、光の貫いたものすべてが、轟音とともに爆ぜる。
光の爆ぜた痕は、無だった。そこには、最初から何も存在していなかったかのように、虚無の大穴があいており──赤竜はその身体の大半を失って、どう、と倒れる。
しばらくの間、誰も動くものはなかった。私は吹き飛ばされた先で再び弓を構えて、赤竜に狙いをさだめている。黒鉄は魔鋼の盾を構えて、その上部から顔を出して、赤竜の様子をうかがっている。ロレッタは──今度こそ本当に意識を失ったようで、赤竜の頭の上で伸びている。
おもむろに黒鉄が歩み出て、赤竜に近づき、斧頭でその身体を突く。黒鉄の剛力で突かれた赤竜は、その身体をわずかに揺らす。赤竜の身体が揺れた拍子に、ロレッタがその頭から転げ落ちたのであるが──まあ、神代の業火に焼かれても死なないのであるからして、今さらあの程度の高さから落ちたとて、死にはすまい──それでも、赤竜は伏したまま動かない。
黒鉄は大きく息を吐いて、石突を地に突く。私も緊張を解いて、弓をおろして、その場にへたり込む。ロレッタは頭から地に落ちたまま動かないのであるが──ま、それはよい。
黒鉄はゆるりと歩いて私のもとまでたどりつき、その大きな手を差し伸べる。
「ありがと」
言って、私はその手をつかんで立ちあがり、二度と動くことのないであろう赤竜を見やる。
神代より生きる古竜──赤竜ルベル・イグニ・ドゥルクは、死んだのである。
「のう」
黒鉄が神妙な顔で声をあげる。
「さっきのあれ──」
と、言いながら、横たわるロレッタを顎で指すところを見るに、先の彼女の獅子奮迅の戦いぶりのことを言っているのであろう、と思う。
「──見たか?」
「見た」
黒鉄の問いに、頷きながら答える。
「あやつだけは怒らせんようにしよう」
「同感」
そのような陰口を叩かれているとも知らず、当の本人は、私たちの視線の先で、すやすやと寝息をたてている。よだれまでたらしたそのだらしない様を見るかぎり、とても先の戦いで目覚ましい活躍を見せたものと同一の人物とは思えない。
ロレッタの寝息は次第に大きくなり、ついにはいびきとなって──彼女はそれから一昼夜、眠り続けたのであった。




