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「この彫像──見たことがあるような気がする」
彫像を見あげながら、ルジェンがどこか懐かしそうにつぶやく。
私は彼女につられるようにして、その彫像をつぶさに見る。岩肌をくり抜くようにして彫られた像は、見目麗しき乙女である。乙女は、すべてを包み込むように両手を広げており、そのやわらかな曲線からは、何とも言い様のない慈愛を感じる。
「これは──おそらく、冥神を模したものであろうと思います」
「──冥神?」
聞き慣れぬフィーリの言葉に、思わず問い返す。
「はい、頭に特徴的な角があるので、おそらく間違いないかと」
フィーリの言葉に見あげれば──確かに、彫像の頭には、乙女には似つかわしくない、鹿のごとき角が生えている。
「冥神は、旧神のうちの一柱であり──そして、旧神として、唯一現世に残った神でもあります」
フィーリの語るところによると、原初の神をはじめとする旧神たちが、世界を形づくるために消えた後──ただ一人、死者をなぐさめるために現世に残ったのが、この冥神であるのだという。
古代人は、彼らが生きる時代になお顕現し続けた冥神の慈愛に、畏敬の念を抱いた。それゆえに、冥神を信仰の対象とするものも、少なくなかったようである。
「そのため、古代においては、冥神の彫像はそれほどめずらしいものではありませんでした。空中都市ナタンシュラでも、それは同じであったのでしょう」
と、フィーリは結ぶ。
「確かに、ナタンシュラの宮殿で、見たことがあるような気がする」
ルジェンは懐かしむように目を細めて、そう続ける。
「フィーリ先生、ちょっと疑問なんだけど──」
と、ロレッタが律儀に手をあげて、フィーリに問いかける。
「──冥神は、死者をなぐさめるのに、現世に残ったの?」
言って、ロレッタが首を傾げる。確かに、死者をなぐさめるためならば、現世ではなく、あの世に顕現しそうなものである。
「あなた方の言うあの世は、この世にあるんですよ」
「はあ?」
フィーリの思わぬ回答に、私は間の抜けた声をあげる。
「あの世──つまり幽世は、厳密に言えば、確かに現世と異なるものではありますが、そこに至る道は、この世と地続きとなっているのです。それこそ、この東方にそびえる火山の奥深くに、冥府へと続く大穴があるのです。その火山の麓には、冥神を信仰する拝死教徒の国もあるはずですよ」
フィーリの言葉に、まさか現世から幽世に続く道などというものがあろうとは思ってもおらず、私は驚きとともに、再び冥神の彫像を見あげる。つまるところ、この彫像は神を想像してつくりあげたものではなく──実際の神の姿を模したものなのである、と気づいて、その荘厳なる威容に、ぶるり、と震える。
私たちは冥神の彫像に旅の無事を祈って──現世に顕現している神ともなれば、結構なご利益がありそうではないか──谷間を歩き始める。
谷は緩やかに折れながら続き、先までを見通すことはできない。幾度か道を折れたところで、再び目の前に彫像が現れる。それは先の冥神とは異なり、老爺の彫像で──見れば、似たようなものが、ずらりと谷の奥まで並んでいる。
「これらも神々を模した彫像なの?」
ロレッタは、手前の老爺の彫像を見あげながら、フィーリに尋ねる。
「いいえ、これらは──おそらくは、山岳都市カルトゥルスの歴代の王を模したものでしょう。皆、その手に王笏を持っておりますから」
フィーリの言に彫像を見あげれば、確かに老爺たちは皆、同じ笏を持っている。笏の先端には紋様の描かれた宝珠があり、その宝珠を支えるようにして竜の姿が彫られており──なるほど、王の権威は竜を従えるほどである、ということなのであろう、と思う。
「でも、その歴代の王の彫像、途切れてるように見えるんだけど──」
言いよどむロレッタに、確かに、と頷く。見あげる彫像は、遥か先より私たちの前まで続いているのであるが──そこで途切れている。見れば、来し方には、さらなる王の立つはずだったであろう台座が続いているのであるが、そこに王はいないのである。やはり、カルトゥルスはすでに滅んでいるのではないか──口をついて出そうになった言葉を、かろうじて呑み込む。
「とりあえず──奥に進みましょう」
皆が押し黙る中、重くなった空気を払拭するようにフィーリが言って──私たちは再び歩き出す。
王の並ぶ谷を行くと、やがて谷をふさぐようにそびえる門が現れる。それは、今までにも何度か目にしたことのあるような巨大な門で、巨人の力か、さもなければ魔法の力でもないと開かぬであろうと思わせるほどの威容である。
「これは──さすがに黒鉄でも無理でしょ」
「決めつけるでない」
私がぽろりと本音をこぼすと、黒鉄はむっとした顔で返す。巨人の斧をフィーリに預けて、門の前に歩み出て、その扉に両手をあてる。
「ぬうん!」
吠えて、黒鉄は渾身の力を込めるのであるが──扉は微動だにしない。
「ただ重いだけなら、黒鉄の剛力で少しくらい動くかもしれないけどさ──」
動く気配のない扉を、なおも渾身の力で押し続ける黒鉄に、なぐさめるように声をかける。門扉には、何やら得体の知れぬ紋様が描かれており、どう考えてもただ重いだけの扉であろうはずもない。力では開かぬ扉なのである。
「どうするの? 斬る?」
言って、ロレッタは腰の赤剣に手をかける。以前であれば、どうしよう、とおろおろしていたように思うのであるが、ここのところ、一頃よりも勇ましくなった気がしないでもない。
「いいえ、こちらには純血の古代人がおりますから、そのような物騒な手段をとる必要はございません」
ロレッタの提案を遮るように、フィーリが声をあげる。
「──え? 私?」
ルジェンは、まさか自らが指名されるとは思ってもいなかったようで、驚きの声をあげる。
「さあ、扉に手をあててください」
フィーリにうながされて、ルジェンはおそるおそる扉に手を伸ばす。
そして、その手が扉に触れた──瞬間だった。ルジェンの手のひらから、青い光がほとばしる。光の奔流は、扉の紋様をなぞるように広がって──そして、扉は地鳴りのような音をたてて、ゆっくりと開き始める。




