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私たちは夜更けまで語らい、そのまま鼠のあばら家に泊まり──さらなる銀貨を要求されたことは言うまでもない──明くる朝、東の門から街を発つ。
入国とは打って変わって、出国の手続きは緩い。衛兵は眠そうにあくびをもらしながら、おざなりな手続きを終えて、さっさと出ていけと言わんばかりに、私たちを手で払う。
「世話になったね」
門を出たところで、私は鼠に礼を述べる。本当ならば、シオンにも礼を伝えたかったのであるが、残念ながら彼女はこの場にはいない。鼠としては、妹と異人が親しげに話しているところを、衛兵に見られたくはなかったのであろう。私たちは彼に乞われて、眠るシオンを起こさぬよう、静かに家を出たのである。
「これ、お礼」
私は鼠の手を取って、衛兵に見えぬように礼を手渡す。
「礼なら、もう──」
もらっただろ、と言いかけて──鼠は、自らの手のひらにのせられた金貨に気づいて、目を丸くする。
「この国、ちょっと危ないと思う。国を出るって決めたら、役立てて」
鼠は、この国を牢獄と言った。しかし、私の懐から財布を掏り取るほどの才をもってすれば、たとえ牢獄からであろうとも、抜け出すことはできよう。
「──助かる」
鼠はめずらしく殊勝に返して──私たちは彼に手を振って、クラウディレを後にする。
私たちは、街を出て東に──灰色山脈に向けて、歩き始める。山際が明るみ、曙光に薄く照らされた朝の道行は心地よく──自然、私の足は軽くなる。
「ちょっと、マリオン、速いよう」
いくらも行かぬうちに、ロレッタが声をあげる。見れば、黒鉄はともかくも、ルジェンもロレッタと同じく遅れ気味になっており──仕方ないなあ、と歩調を緩める。
「──うん?」
そんな折であった。やわらかな風に乗って、かすかな音が届いたような気がして、私は足を止める。耳を澄まして──確信する。間違いない。来し方から、鐘の音が響いている。
「まさか──」
嫌な予感を覚えて──そして、その予感が当たらぬことを祈って、私たちは慌てて踵を返す。
最初に広場にたどりついたのは私だった。広場には、先と同じく人だかりができており、かきわけて前に出ることもできぬと判断して──私は疾風のごとく駆けて、飛ぶ。人だかりを飛び越えて、転がるように着地した先には──泣きじゃくるシオンが鎖につながれている。
「てめえら! シオンに何しやがる!」
吠えているのは鼠である。彼はシオンを救わんと彼女に駆け寄ろうとして、今まさに衛兵によって鎖につながれる。先にシオンが捕らわれて、それを救い出さんとした鼠も──というところであろう。鼠を捕らえて、下卑た笑みを浮かべているのは誰あろう、側防塔で見かけた衛兵である。奴は鼠の懐から何やら取り出すと、それをうやうやしく仮面卿に奉ずる。
「このものらは盗みを働いた!」
昨日と同じく、仮面卿は高らかに手を掲げる。その手に握られているのは、陽光にまばゆくきらめく金貨であり──それだけで、私はすべてを悟る。
側防塔の衛兵は、異人の案内をする鼠に目をつけていたのであろう。鼠は後日、衛兵に賄賂でも渡すつもりだったのであろうが──奴の方はそれ以上を望んだ。
衛兵は鼠の留守にシオンを捕らえて、私たちが案内の駄賃として渡した銀貨の一切を奪い──そして今、別れ際に渡した金貨までも奪った上で、それを罪として裁こうとしているのである。
「鼠!」
呼びかけて、私は兄妹に駆け寄らんとして。
「来るな!」
私の姿を認めて、鼠は叫ぶ──が、今度ばかりは、それを受け入れることはできない。私の軽挙で兄妹を危険にさらしてしまったのである。自らの浅慮に唇を噛みながら、私は二人に駆け寄る。
「何だ、貴様は?」
と──私の前に立ちはだかった衛兵が、誰何の声をあげる。
「異人だよ」
答えて──私は疾風のごとく大地を踏み込む。大地を穿つほどの衝撃を、身体をねじりながら手のひらにまで伝えて、衛兵の鎧にそっと触れるような掌打を放つ。それは、いくらかは手加減した踏み込みだったのであるが、それでも衛兵は吹き飛んで、鐘塔の壁でしたたかに身を打ちつけて、その場に崩れ落ちる。
闖入者の一撃に、広場の皆の視線が、いっせいに私に集まる。
「貴様! あのときの──」
側防塔の衛兵が私の顔に気づいたようで、仮面卿に何やら耳打ちをする。
「貴様、この貧民と通じているのか──ならば、貴様も罪に問われることになろう」
「通じてるって──何?」
仮面卿の詰問に、私は真っ向から立ち向かう。
「彼らは私の友だち、通じてるなんて言わないで」
言い放って、私は仮面卿に向けて怒気を放つ。眼前の小娘から放たれた意外な武威に、衛兵は脅えるように後ずさるのであるが──仮面卿は微塵の痛痒もなく、泰然と私を見下ろしている。
「その金貨は、私が彼にあげたの。仕事の報酬に」
私は、仮面卿の掲げる金貨を指して、そう告げる。
「──仕事の報酬だと?」
しかし、返ってきたのは嘲笑であった。
「戯言を。この貧民の仕事に、金貨一枚の価値などあろうはずもない」
仮面卿は侮蔑もあらわに言い切って──それに追従するように、周囲の衛兵も嘲りの声をあげる。
そうして、私は悟る。仮面卿をはじめとするクラウディレの騎士は、鼠を──ひいては民を、同じ人であるとも思っていないのである。奴らの嘲笑にわきあがる怒りが、視界を赤く塗り潰していく。
「マリオン!」
と──私の名を呼ぶのは、黒鉄の声である。見れば、遅れていた仲間たちも、ようやく広場にたどりついたようで──人だかりを剛腕で無理やりにかきわけて、黒鉄が私のもとにたどりつく。その手には、一触即発の状況に備えてであろう、フィーリから取り出した巨人の斧が握られている。
「──マリオン」
「止めないで」
再び私の名を呼ぶ黒鉄に、短く返す。たとえ国のしきたりといえども、許せぬこともある。
「──止めはせん。何せ儂も我慢の限界じゃからのう」
言って、黒鉄は巨人の斧を構えて、獰猛に笑う。私たちは顔を見あわせて、どちらからともなく頷く。
そうして、仮面卿の前に飛び出たのは──しかし、私でも黒鉄でもなかった。
「やめろ!」
ロレッタは赤剣を抜き放ち、仮面卿に相対する。
「それ以上、その子たちを傷つけることは許さない!」
そう告げる彼女の剣先は、やはり震えているのであるが──その気迫は本物であり、兄妹の傍らの衛兵が気圧されるほどで、彼女の剣士としての成長を思わせる。いや、魔法使いなのであるが。
「許さない、だと? 傷つけたならば、どうするというのだ?」
しかし、やはり仮面卿だけは怯まない。嘲るように笑って、兄妹を踏みつぶさん、とその足を高くあげる。鼠はシオンをかばうようにその身に覆いかぶさって──私はロレッタの脇を疾風のごとく駆け抜ける。
仮面卿の足は──文字どおり、大地を穿つ。間一髪のところで、私が兄妹を突き飛ばし、難は逃れているのであるが、その脚力の凄まじさたるや、もしもあと一歩遅れていたらと思うとぞっとする。
「──小癪な」
仮面卿は、兄妹ではなく、私に向き直り、不快そうにつぶやく。そうだ──もっと私を見ろ。それは、すでに私の本体ではない。私は、分身をねめつける仮面卿の、その背後にまわり込み、疾風のごとく大地を踏み込む。大地を穿つほどの衝撃を、身体をねじりながら手のひらにまで伝えて、奴の背にそっと触れるような掌打を放つ。いくら聖鋼の鎧といえども、透しの前には意味をなさない。仮面卿は吹き飛んで、頭から鐘塔の壁に突っ込む。
「──大丈夫?」
私は兄妹に駆け寄り、二人を抱き起こす。
「来るなって言ったのによ」
言って、鼠はわずらわしそうに私の手を振り払って──思ったよりも大丈夫そうである、と安堵の胸をなでおろす。
「シオンは大丈夫?」
呼びかける私に──いや、私の背後に何かを見て、彼女は目を見開く。
「マリオンさん!」
シオンが叫ぶのと同時に、背後から刺すような殺気を感じて、私は慌てて振り向く。
「──嘘でしょ」
そこには、仮面卿が立っている。間違いなく透したというのに、奴は平然と立っており、私たちに向けて冷たく宣告する。
「貴様らを死罪とする」




