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「さて──お名前は何ていうのかな?」
雑踏から離れて、少年を連れて広場の隅に寄り、その顔をのぞき込むようにして尋ねる。
少年は観念したようで、懐から革袋を取り出す。それは、私から掏り取った財布である。普段から金貨はフィーリに預けており、財布には小銭しか入れていないため、そう警戒していなかったとはいえ、私の懐から掏ったのである。そんな芸当、今までに出会ったどんな武人にもできやしない。
「返せばいいんだろ、返せば」
言って、少年は押しつけるように財布を返す。
「返せば、それで許されるというわけでもあるまい」
ふてくされる少年に、黒鉄が凄んでみせるのであるが、彼は怯むことなくにらみ返してみせて──黒鉄の威圧に屈しないとは、なかなかの胆力であるなあ、と私は重ねて感心する。
「それで、名前は?」
再び尋ねる私に、少年は溜息をついて、渋々といった様子で答える。
「──鼠」
「本名は?」
ぶっきらぼうに答える少年に、私はさらに問いかける。鼠なんて呼び名、本名ということはあるまい。
「本名なんてねえ。鼠としか呼ばれてねえよ」
しかし、少年──鼠は、吐き捨てるように返す。彼に親はなく、その名は貧民街の酔っ払いがつけたものなのだという。
なるほど、そうした境遇であるから、掏摸に身を落としたのであろうが──私から財布を掏り取るほどの才を持ちながら、掏摸なんぞにあまんずるとは、もったいないにもほどがある。
「ねえ、街を案内してよ」
「──ああん?」
私の提案に、鼠はいぶかしげに返す。
「掏摸のことは水に流すし、駄賃ははずむからさ」
「──先払いだ」
言って、鼠は手を差し出す。掏摸として官憲に突き出されることもなく、さらには報酬までもらえるとなれば、彼にも否やはないのであろう。私は財布から銀貨を取り出して。
「交渉成立」
と、彼の手のひらにのせる。
鼠は、街を案内する前に寄るところがあると告げて──広場で食料を買い込んで、東の城郭に向かう。街外れに近づくにつれて、通りはうらぶれた路地となり、建ち並ぶ家々も次第にみすぼらしいものとなる。カルヴェロとは異なり、クラウディレにはあたりまえのように貧民街があるようで──乞食王の手腕は大したものであったのだなあ、と今さらながらに感心する。
やがて、鼠は一際小さなあばら家の前で足を止めて。
「ただいま」
と、扉を開く。
「おかえり──って、こんなにどうしたの、お兄」
鼠を出迎えた少女は──妹であろう──彼の抱えた食料を目にして、驚きの声をあげる。
「世間知らずの旅人が、駄賃をはずんでくれたんだよ」
鼠は年季の入ったテーブルに食料を載せながら答えて──その段になって、少女は来客に気づいたようで、慌てて私たちに駆け寄る。
「はじめまして、妹のシオンです」
少女──シオンは名乗って、私たちに微笑みかける。
「花の名前だね」
ロレッタはその笑顔に、慈しむように目を細めて──確かに、こちらも思わず微笑んでしまうような、愛らしい少女であるなあ、と思う。
「お兄が名づけてくれたんです。いい名前でしょ」
言って、シオンはその名のとおり、野に咲く花のようにやわらかくほころぶ。
捨て子たる鼠の妹というからには、おそらく彼女も捨て子なのであろうに、その笑顔には一切の曇りがないのであるからして──きっと、よい兄妹なのであろうな、と思う。
私たちはそれぞれに名乗りを返して、抱えていた食料を──私たちも持ち運びを手伝わされていたのである──鼠の指示に従って、床におろしていく。
「こんなにもらって、大丈夫なんですか?」
「彼の技量に敬意を表してね」
不安そうに尋ねるシオンに、私は素直な賛辞を返すのであるが──どうやらそれに触れてはならなかったようで。
「──技量?」
「俺が街のことをあれこれ知ってるから、案内人としての腕を買ったってことだろ」
妹の疑問に、鼠は言い訳のように早口でまくしたてて──私に向けて、余計なことを言うな、と小声でささやく。その様からするに、妹は掏摸のことを知らぬのであろう、と思う。
「そう、今からお兄ちゃんに街を案内してもらうんだ」
私は鼠の意を汲んで、話をあわせる。
「マリオンさん、よかったね。お兄なら、街のこと何でも知ってるよ」
妹の無垢なる称賛に、鼠は嘘をついている心苦しさゆえか、苦い顔で溜息をつく。
シオンに見送られて、私たちは城郭の側防塔を訪れる。塔の入口には、見張りであろうか、ずいぶんと気の抜けた衛兵が詰めているのであるが、そのあくびを噛み殺す様からするに、見張りの用はなしていないであろうな、と思う。
「よう、鼠」
衛兵は鼠に気づくと親しげに声をかけて。
「そいつら、金づるか?」
と、私たちをぞんざいに顎で指す。
「そんなところだ。ちょいと城郭からの景色を見せてやりたくてよ」
「お前がそんなに気を遣うなんてなあ。よほどの金づるとみえる」
鼠の返答に、今度奢れよ、と軽口を叩いて、衛兵は私たちを側防塔に通す。
城郭に円形に突き出した側防塔は、守りの要である。そんなところによそものを入れてもよいのであろうか、とよそものながらに不安になりつつも、私たちは案内されるままに梯子をのぼる。塔の階層ごとに設置されたいくつかの梯子をのぼり詰めると──眼前には、荒れ果てた大地が広がる。
クラウディレの近郊は、かろうじて農地としての体裁をたもっているのであるが、それより先の土地は打ち捨てられているようで──よい景色、と言えなくもないのであるが、在りし日の沃地を思うと、いくらか寂しさも覚える。
「このあたりは、昔は村々が点在していたらしいんだけどな──」
鼠の語るところによると、かつてこの地に城郭はなく、のどかな農地だけが広がっていたのだという。どこまでも続く黄金色の小麦畑は、それは見事な光景であったというのであるが、あくまで酒場の飲んだくれ老爺の言葉であるというから、本当のところはわからない。
契機となったのは、覇王の進軍であった。近隣を治める領主が打ち滅ぼされるに至り、村々は覇王に恭順の意を示し、兵站の一部を担うなど、協力的に振るまったという。
「ま、略奪されるよりは、ましだろうからな」
鼠の言うとおり、それは心からの服従ではなかったのかもしれない。覇王亡き後、その支配から脱するように、村々は自治を取り戻した。軍に接収されていた小麦は、再び民のものとなり、彼らは豊かさをも取り戻したのである。
しかし、その平穏も、それほど長くは続かなかった。覇王の腹心の一人──クレウディレが、その配下の騎士を率いて攻め入り、この地を治めると宣言したのである。
「抵抗するものもいたらしい」
鼠は続ける。覇王の支配は食料の収奪のみ──しかし、クラウディレのそれは、まさしく圧政だったのである。苦しんだ民は立ちあがる。覇王軍が相手では敵うべくもないのであるが、一将の私兵であればあるいは、と彼らは一縷の望みをかけて抵抗を決意したのである。
「でも、クラウディレの配下には、覇王軍でも随一の騎士がいた。逆らったやつらは皆殺しさ」
言って、鼠は荒れ果てた大地を見下ろす。その灰色の瞳は、かつての血に染まりし大地を映しているのであろうか、あわれみの色を浮かべる。
「クラウディレの歴史ってのは──ま、こんなもんだな」
鼠は荒野から目を背けるようにして、私たちに向き直る。
「質問がなければ、次は街を案内するよ」
ま、大したものはないんだけどな、と自嘲するように笑う鼠に、ロレッタが挙手で応える。
「ねえ、何でクラウディレは異人の入国に厳しいの?」
「それは──」
ロレッタの問いに、鼠が答えようとした──そのときだった。
街の中心──おそらく、先に行商たちが市を開いていた広場の鐘塔からであろう、鐘の音が響く。
「嫌なもん聞いちまった」
言って、鼠は顔をしかめる。
「何の鐘?」
「──処刑の合図だよ」
尋ねる私に、鼠は吐き捨てるように答える。




