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アスティナの私室は、調薬に関するものであろうか、床に積みあがった膨大な本に埋もれており、足の踏み場もない。あきれながら、本を避けるようにして奥をのぞくと、入口に背を向けて、椅子に腰かけているアスティナの後ろ姿がある。
「お客人──真夜中に余所様の家をうろつくなんて、褒められたもんじゃないねえ」
アスティナは後ろを向いたまま、責めるように口を開く。
「ちょっと、人を探していてね」
「誰か迷子にでもなったのかい」
私の言い訳に、アスティナはあきれるように返して。
「まったく、これだから子どもは」
と、ぼやくように続ける。それは、まるで自らが、私たちのうちの誰よりも年かさであると確信しているかのような言いぶりで──私は、アスティナが見た目どおりの年齢ではないことを確信する。薬で若返り、美貌を維持しているのであろうが、実際には相当に年を経ているのであろう。
「迷子になったのは、私の仲間じゃないよ」
言って、私はアスティナを警戒しながら、足で床の本を散らす。彼女の言動次第では一触即発なのであるからして、足の踏み場もないというのは困る。
「シレーナの姉弟子が、迷子なったって聞いてね」
「姉弟子? あの子に姉弟子なんていないさね」
おかしなことを言うもんだねえ、とアスティナはとぼける。それは、事前にシレーナから話を聞かされていたからこそ、嘘だとわかるのであるが──そうでなければ、彼女の言うとおり姉弟子などいないのであろうと騙されてしまうほどの、大した演技である。
「ま、何にしてもちょうどいい。私もあんたに話があってね」
アスティナはおもむろに立ちあがって──しかし、やはり私に背を向けたまま、その顔を見せようとはしない。
「あんた──あんたの血、なかなかよかったよ」
言って、アスティナは、くつくつと笑う。それは、私の血を調薬に用いて飲んだからこその感想であり──私は自らの血を吸われたかのようなおぞましさを覚える。
「そう? 黒鉄の血の方が、生命力にあふれてそうだけど」
私はその怯みを気取られぬよう、軽口を返す。
「もらった手前、こんなことを言うのは、どうにもはばかられるけどねえ──ドワーフの血なんざ、飲めたもんじゃないさね」
はばかられるなどと殊勝なことを言う割には、嘲るような口ぶりである。
「あんたの血はよいものだったけど──ま、効能としては誤差の範囲さね」
アスティナは、結局のところ、私の血にもけちをつけて。
「でもねえ──あんた、あの帽子の娘とエルフのことを、やたらとかばっていたじゃないか」
わざとらしく、そう続けて──その発言で、私は自らの懸念が的中していたことを悟る。アスティナに、ロレッタとルジェンの血を渡すべきではない。だからこそ、私と黒鉄のものだけならば、という条件を出したのであるが──そうすることで、彼女は、なぜ、と疑ったのであろう。
「それがどうにも気になってねえ」
そして、疑えば──その血がほしくなる。
「──何をした?」
アスティナの口ぶりに不穏なものを感じとって詰問する。私が館を探索している間に、二人の血を奪ったとでもいうのであろうか。黒鉄が不覚をとった、と──いや、そんなはずはない。
「──唾液だよ」
言って、アスティナは酒杯を掲げる。それは、先に私たちが用いた──いや、おそらくはロレッタが用いた酒杯である。彼女の酒杯に残るわずかな唾液を採取して、アスティナはそれを調薬に用いたのである、と悟る。
「すばらしい効能だったよ」
ようやく振り向いたアスティナは、先よりも妖艶──どころではない。神々しいほどに美しく、どこか魔性さえ宿しているようにも思える。私はそのあまりの美しさに言葉もなく──ロレッタの唾液を混ぜることによって、若返りの薬の効能がこれほどまでに強くなったということに驚嘆する。
「あのエルフ──いったい何ものなんだい?」
アスティナの問いに、しかし私は答えない。ロレッタの正体を軽々に明かすわけにいかないというのももちろんなのであるが、それだけではない──彼女の全身から立ちのぼる異様な気配が、私の口を堅く閉ざす。
「あのエルフの血がほしい」
言って、アスティナは私に向けて一歩踏み出して──私はそれにあわせて後ずさる。
「殺しはしないよ──ただ、一生ここで私に血を捧げてもらうだけさね」
平然と告げる彼女の瞳には、明らかな狂気が宿っている。
「──狂っていますね」
私の見立てを裏づけるように、フィーリが断言する。
「半神の体液を混ぜた薬の効能の強さに、精神が耐えきれなかったのでしょう。放っておいても、ほどなく死にますよ」
フィーリは淡々と告げるのであるが、私は旅具のように割り切ることができない。
「私たちが館に立ち寄らなければ、死ぬことはなかった」
「マリオンのせいではありませんよ」
わかっている。アスティナは、勝手にロレッタの血を欲して、勝手に彼女の唾液を薬に混ぜて、それを飲んで狂気におちいっているのであるからして、自業自得というものであり、私たちに責はない。しかし、それでも私は、そのめぐりあわせに、自分なりのけじめをつけなければならないと思っているのである。
「それに、ほら──向こうは私を放っておく気はないみたい」
そう言い終えるや否や。
「血を寄こせ!」
もはや、私とロレッタの区別もついていないのであろう、アスティナは吠えて、私に襲いかかる。それは思わぬ速さであり、私は彼女の突進を、慌てて避ける。まさか、半神の唾液には、美しさのみならず、身体までも強化するような効能があるというのであろうか。
「ちょこまかと」
アスティナは振り向いて、爛々とした目で私をねめつける。その顔に、先までの美しさは、もうない。彼女は筋肉を肥大させて、鉤爪のごとく鋭い爪で床をかき、まるで獣のように獰猛に、四つ足で構える。長衣からあらわになった脚には血管が浮きあがり──なるほど、この脚力があれば、先のような突進も可能となろう、と納得する。
アスティナは、私に狙いをさだめると、山と積まれた本を蹴倒しながら、四つ足の獣ごとく俊敏に襲いくる。
「──速い!」
アスティナは縦横無尽に部屋を駆けめぐり──私は負けじと疾風のごとく駆けて、その突進から逃れる。私に身をかわされた彼女は、しかし壁を蹴って反転し、私の背後にまわる。
「私の血を寄こせ!」
アスティナは吠えて、私の背をめがけて鉤爪を振るう──が、これはお前の血ではないし、それは私の本体でもない。分身を切り裂いたアスティナに、私は背後から透しを放たんとして──そして、その異様な光景に、思わず足を止める。
「血が──暴れてる」
私は呆然とつぶやく。アスティナの肌に浮きあがった血管の中で、まるで生き物のように血が蠢いている──どころか、その血管という束縛から解き放たれんとするかのように、どんどんと膨張していくのである。
「やはり変異しましたか。あまりもちませんでしたね」
フィーリが淡々と告げる。
旅具の語るところによると、神のもの──血にかぎらず、神の身体に属するものは、一時的であれば人に強い力を与え得るのであるが、それは決して人の身に取り込まれることはなく、いずれ人を拒絶するかのように、その身から離れるのだという。
「こうなっては、もうどうしようもありません。苦しんだ挙句に死にます」
フィーリはそう結ぶのであるが──それは、自業自得とはいえ、むごいようにも思えて。
「──さよなら」
せめてもの情けである。こうすれば、おそらくはそれほど苦しまずに死ねるであろう──そう直感して、私は竜鱗の短剣で、アスティナの頸動脈を神速で斬る。そして、アスティナ──であったものは、部屋中に血と臓物を撒き散らして、破裂して絶える。




