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私は気配を殺して、廊下を歩く。
廊下には、ところどころにガラス製の窓があり、そこから月明りが射し込んでいる。どうやら夫婦月には先と変わらず雲がかかっているようで、月光は薄らいでいるのであるが、それでも私の目には十分な明りである。時折、窓が風に揺れる。それ以外に音はなく、草木も眠るような静寂が、夜を支配している。
廊下を少し行くと、壁に絵画が飾られていることに気づく。よく見れば、それはアスティナを描いたであろう当世風の肖像画で、これ見よがしに客間の近くに飾るものとしては、少々趣味がわるいような気がしないでもない──とはいえ、胸もとのフィーリは、ほう、と感心の声をもらしているのであるからして、高価なものには違いないのであろう。豪奢な客間に豪奢な調度──惜しみなく散財している様を見るに、アスティナの薬は貴族も買い求めるほどであるという評に嘘はないのであろう、と思う。
結局、二階には人の気配はなく──私は廊下の突きあたりまでたどりついて、そのまま階段を下りる。階下の灯りは、いつのまにやら消えていて、二階よりもさらに暗い。どうやら、館を覆うように茂る木々に遮られて、月明りも届きにくいようで、私はさらなる闇の中を行く。
「お──っと」
私は、先に通された応接室の前で、足を止める。部屋に人の気配はないのであるが──確かめたいことはある。音をたてぬよう、そっと扉を開いて、するりと応接室に潜り込む。
「フィーリ、灯り──小さくね」
告げると、私の注文どおりの小さな灯りが、部屋を薄く照らし出す。
応接室はきれいに片づけられている。酒瓶も酒杯も、私たちをもてなした形跡は残っておらず──私はそこにこそ違和感を抱く。シレーナは私たちを客間に案内し、そのまま部屋にとどまっているのであるからして、応接室を片づけたのはアスティナということになろう。館の主が手ずから片づけたのである。奉公人がいるというのに。
私は応接室を後にして、灯りを消して、一階をまわる。しかし、そのどこにも人の気配はなく──やはり、シレーナの話にあった、立ち入りを禁じられている地下というのがあやしかろう、と当たりをつける。
私は厨房の脇にある細い階段から、地下に下りる。何も知らされていなければ、食料などの貯蔵庫でもあるのだろうと考えるところであるが、立ち入りを禁じられているともなれば、そのかぎりではなかろう。
私は気配を殺して、地下に降り立つ。地下にはさすがに月明りも届かないのであるが、そこは頼りになる旅具の出番である。
「フィーリ」
呼びかけると、フィーリは先よりも強い灯りで周囲を照らし出す。見れば、地下には真っすぐに廊下が伸びており、そこには三つの扉──三つの部屋がある。
「お気をつけください」
フィーリの言葉に頷きながら、私は灯りを頼りに地下を行き、手前から扉を開いていく。
一つ目の部屋は、薬の貯蔵庫のようで、棚には様々な薬瓶が並んでいる。棚を眺めながら歩いていると、目に入るのは赤い薬ばかりで──どうやら、そのほとんどは同じ薬のようである、と気づく。
私は赤い薬のうちの一つを手に取り、フィーリに放り込む。
「これは、何の薬?」
「これは──若返りの薬です」
フィーリの返す声には、感嘆の響きがある。
「この薬の出来であれば、貴族が買い求めるというのも頷けます。不老不死とまではいきませんが、若く美しい姿を維持できるとなれば、貴族の──特に女性は金を惜しむことはないでしょう」
フィーリはそう結んで──私は驚きとともに、貯蔵庫の棚を見渡す。その薬は、少なく見積もっても百はあろう。ということは、それらは黄金の山に等しいということであり──なるほど、森の中にこれほどの館が建つわけである、と納得する。
私は貯蔵庫を出て、隣の部屋の扉に手をかける。二つ目の部屋は、どうやら薬の調合のための部屋なのであろう、そこかしこに私の知らぬ器具が散らばっており、雑然としている。
シレーナの話によると、この部屋で姉弟子の服がみつかったのだという──が、さすがにそれらしいものが今なおあるはずもなく、部屋の中央のテーブルには、何やら薬を調合した跡だけが残っている。薬瓶に触れてみる──と、それはまだ熱を帯びており、つい先ほどまで誰かが──つまるところアスティナが調薬していたのであろう、と察する。
私は薬瓶を手に取り、そのままフィーリに放り込む。
「これは、何の薬?」
「これは、先と同じく若返りの薬ですが──」
私の問いに、フィーリは薬瓶に残るわずかな液体を分析しながら答える。
「──先のものとはくらべものにならないほどの強い効能を持っています」
やはり──と、私は確信めいた予感を覚える。アスティナは、何やらよからぬことを企んでいる。
私は調薬部屋を出て、わざと足音をたてて、隣の部屋の前に立つ。三つ目、一番奥の部屋こそが、アスティナの私室なのであろう。その想像を裏づけるように、部屋からは生命力に満ちあふれた気配がもれ出している。
「──お入り」
アスティナと話をするため、来訪を告げるために気配をあらわにしたのであるが、まさか入室を許可されるとは思ってもおらず、私はいくらかとまどいながら、その扉を開く。




