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「妖樹に襲われていたところを、この方たちにお助けいただいたのです」
シレーナは脅えもあらわに経緯を語るのであるが、薬師の方はそんなことにはまったく興味もないようで。
「樹液採取なんて何度もやってるだろうに、間抜けな子だねえ」
吐き捨てるように言って、溜息をつく。ずいぶんと嫌味たらしい言いぶりである──が、こんな夜更けに、こんな少女を樹液の採取に向かわせること自体、そもそも正気の沙汰ではなかろうに、と私はいくらか憤りを覚える。
「さて──お客人」
薬師は一転して、見惚れるような笑顔を見せて、私たちに語りかける。
「もう夜も深い。大したもてなしはできないが、休んでいくといい」
言って、薬師は木々の間からのぞく夜空を見あげる。つられるように空を見やると、先までわずかに森を照らしていた夫婦月も、今や雲に隠れており──確かに、ロレッタやルジェンを連れて、闇夜の森を歩くのも骨が折れるであろう、と思う。家主が泊まってよいというのであれば、私たちに否やはない。
私たちは薬師に迎え入れられて、館に足を踏み入れる。
「──わあ!」
ロレッタの第一声は、感嘆であった。玄関広間は吹き抜けになっており、外観から想像していたよりも、ずっと広く感じる。その吹き抜けを飾る灯りは、魔法の灯りであろうか、揺らめくことなく、ぼう、と周囲を薄く照らし出す様は、どこか幻想的に映って──私も思わず、ほう、と息をつく。
「ついといで」
言って、薬師は私たちの先に立って、廊下を歩き始める。廊下にはいくつもの扉があり、部屋数は多いのであろうに、その割に人を見かけることはなく──不思議に思って尋ねる。
「いったい何人で住んでるんですか?」
「私とシレーナの二人だけだよ」
私の問いに、薬師は振り向くこともなく、興味なさげに答える。
「この館に──二人で?」
次いで、ロレッタが驚きの声をあげるのであるが──薬師はもう答えない。
やがて、私たちは応接室に通される。応接室には、来客用の長椅子が向かいあわせに並んでおり、その間には古めかしいテーブルが置かれている。年経た古木を用いたと思しきテーブルには、何とも言えぬ風情がある。
「座りな」
言って、薬師は手前の長椅子を顎で指して──自らは壁際の棚に歩み寄る。見れば、棚にはかなりの数の瓶やら杯やらが並んでおり、あれが私の想像のとおり客用の酒だとすると、薬師の酒好きは相当のものであろう、と思う。
「弟子の不始末の詫びだよ」
言って、薬師は棚から瓶を取り出して、おもむろにその蓋を開ける──と、瞬く間に葡萄の華やかな香りが部屋に広がる。それが葡萄酒であるとわかるや否や、黒鉄とロレッタの鼻息が荒くなる。お前らというやつは。
「私は薬師のアスティナ」
薬師──アスティナは、私たちの前に酒杯を並べながら名乗り、酒を注がんと瓶を傾けたところで──私とルジェンは慌ててそれを辞する。私の方は、フィーリを身に着けてさえいれば、酒を飲むのもやぶさかではないのであるが、ルジェンの方はからっきし飲めないのである。それゆえの謝絶であるというのに、アスティナは、まあまあ、と聞く耳を持たず、皆に等しく酒を注いでいく。
「あんたら、旅人かい?」
アスティナはそう尋ねながら、自らの酒杯に口をつける。
「そうです。アスファダンから北に向かっているんです」
答えて──アスティナにうながされて、私はやむなく酒杯を手に取る。そのまま口もとに近づけると、杯から芳醇な葡萄が香り、私の鼻腔をくすぐる。それは、積み重ねられた歳月を感じさせる深みのある香りで、きっと相当に高価な酒に違いない、と思う。見れば、黒鉄とロレッタに至っては、一息で酒杯を飲みほしているほどで──アスティナは、よい飲みっぷりだねえ、と感嘆の声をあげながら、さらに二人の杯に酒を注ぐ。
そして──しばしの歓談の後。
「あんたら、ずいぶんと飲んだもんだねえ」
「あんたら、というか──」
あきれるようなアスティナの言葉に、思わず反論が口をついて出る。私とルジェンは、酒を舐める程度にしか口にしておらず、そのほとんどを飲みほしたのは、言わずもがな黒鉄とロレッタなのである。
「それだけも飲んだんだ。酒代、宿賃ってわけじゃないが、ちょいと頼み事を聞いちゃくれないかねえ」
アスティナは突然そのようなことを言い出して──私は黒鉄とロレッタをじろりにらむ。言わんことではない。ちょっとした頼み事と称して、いったいどんな無理難題を押しつけられるやら、わかったものではないのであるからして、少しは自重というものを覚えていただきたい。
「そうさねえ──あんたらの血を一滴ずつ、わけておくれでないかい?」
そして、アスティナは真顔で、しかし奇妙な頼み事を口にする。その意味するところを理解できず、しばし呆けている──と、思わぬところから助け舟が出る。
「薬に血を混ぜるというのは、ままあることです。トレントの樹液も、言わば血のようなものですからね。普段とは異なる血を用いることで、効能の変化を期待しているのでしょう」
フィーリが口を開いて──アスティナに反応がないところを見るに、私にのみ聞こえるように話しているのであろう──私はいくらか納得する。とはいえ、初対面の他人に高価な酒を飲ませて血をねだるとは、眉をひそめたくなるようなやり口である。
「──私と黒鉄のものだけでよければ」
思案した結果、私はそう答える。
私と黒鉄であれば、単なる人間とドワーフなのであるからして、その血も特別なものではあるまい──が、ロレッタとルジェンは事情を異にする。ルジェンは純血の古代人であり、その血がどのような効用を持つやらさだかではないし──何よりも、ロレッタに至っては半神なのである。神の血などという、どんな力を持っているやもしれぬものを、あやしげな薬師に渡すのはよろしくない。
「どうぞ」
私は率先して、竜鱗の短剣で指先を斬り、アスティナの差し出す器に血を落として──黒鉄もそれに続く。
「──ありがとさん」
言って、アスティナは妖しく笑う。私には、どうにもその笑みに裏があるように思えてならないのであるが、私の勘だけで彼女を問い詰めるわけにもいかず──そこで酒宴はお開きとなる。
私たちはシレーナに案内されて、二階の客間に通される。アスティナは、客間は二部屋しかないから我慢しておくれ、などと言っていたのであるが、こんな深い森の中の館に、客間があるというだけでも驚きである──というのに。
「──おいおい」
私は客間をのぞいて、さらなる驚きに、思わずつぶやいてしまう。それもむべなるかな、部屋は異様に広く、その豪奢な調度たるや、いつぞやの雪山の侯爵別邸を思い起こさせるほどなのである。これほどの客間であれば、二部屋も使う必要はあるまい。
私と黒鉄は、ロレッタとルジェンにベッドを譲って、それぞれ部屋の隅に寝床をつくる。何を相談することもないのであるが、どこから侵入者がこようとも迎撃できるように互いが陣取っており、心得たものであるなあ、と顔を見あわせて笑う。
そうして寝床をつくり終えたところで。
「──どうしたの?」
自室に戻るでもなく、客間の入口に立ち尽くしているシレーナに気づいて、私は声をかける。彼女は小刻みに震えており、明らかに尋常の様ではない。
「不安があるなら、言ってごらん」
吐き出すだけでも楽になるかもしれないから、とシレーナにうながすと、彼女は誰かに聞かれはしまいかと脅えるように周囲を見渡して──やがて、覚悟を決めたように語り出す。
「私は──私は、アスティナ様の弟子などではないのです」
シレーナのその告白に──しかし、私は首を傾げる。
「でも、薬師の弟子として、奉公してるんじゃないの?」
私の疑問に、彼女はかぶりを振って続ける。
「私や、私の前に奉公していたものは、弟子という名の──薬の材料にすぎないのです」
シレーナが脅えながら語るところによると、彼女が初めて館に訪れた折、アスティナの元には先に奉公していた少女がいたのだという。シレーナは彼女のことを姉弟子として慕い、彼女もまたシレーナのことを妹のように慈しんでくれた。彼女がいれば、薬師の修行もつらくはない──そう思えるようになった矢先のこと、彼女はシレーナの前から忽然と姿を消してしまったというのである。
「私はアスティナ様に尋ねたのです。お姉さまはどうしたのか、と」
シレーナはそこで言葉を区切って──ロレッタが、ごくり、と喉を鳴らす。
「そうしたら、アスティナ様は、そんな娘なんて知らないって──」
シレーナは、信じられないという顔で、私を見やる。彼女のその悲痛な瞳に映るのは、そう告げたときのアスティナの顔であろうか──もしかしたら、その顔は、私が先に目にした、妖笑ではなかったか。
「私、お姉さまを探すために、アスティナ様から立ち入りを禁じられている地下にまで行ったんです。そうしたら、地下の一室に、お姉さまの服だけが残っていて──きっと、お姉さまは薬の材料にされてしまったんです!」
シレーナは言い捨てて、こらえきれずに嗚咽をもらす。
「まあ、人体を薬にするという風習もありますからねえ」
フィーリが、ぼそり、と余計なことをつぶやく。薬の材料にされたというのも、あながち突飛な発想ではないということなのであろうが、何とも折のわるい発言である。
「シレーナ、落ち着いて」
私は彼女の肩を抱いて、真祖の外套でその涙をぬぐう。
「今晩は、黒鉄やロレッタと一緒に過ごすようにして。そうすれば、何があっても大丈夫だから」
言って、安心させるようにシレーナの頭をなでて──私は泣きじゃくる彼女をロレッタに預けて、寝床に腰をおろした黒鉄を見やる。
「行くのか?」
「うん、黒鉄はみんなをお願いね」
問いかける黒鉄に、私は頷きながら返す。
「──心得た」
その一言の、何と心強いことか。黒鉄の守る部屋にいるかぎり、たとえ何が起ころうとも、シレーナは安全であろう、と確信する。
「ルジェン、少しの間、フィーリを返してもらえる?」
言って、私はルジェンに手を差し出して──どうやら彼女は、いつのまにやらフィーリとも仲よくなっていたものとみえて、いくらか名残惜しそうに、私の手のひらに旅具をのせる。
「やあ、マリオンの首もとは久しぶりですね」
「よしよし」
フィーリの声音に喜びを感じて、私までうれしくなって、旅具を優しくなでて──皆に気をつけるよう告げて、するりと部屋を抜け出す。




