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「街中には他の悪魔もいる! 郊外まで駆け抜けろ!」
そう言うブルムは、殿をつとめる。私たちの姿を認めるや襲いくる低位の悪魔どもを、彼は腕の一振りで消滅させるのであるからして、これほど殿にふさわしいものもおるまい。
私たちは目抜き通りを駆け抜けて、ナタンシュラの正門までたどりつく。先には開いていたはずの巨大な門は、しかし今は固く閉じられており、私たちの行く手を阻む。
「黒鉄!」
「任せい!」
私の声よりも先に、黒鉄は門を押している。魔法で開閉するほどの巨大な門扉は、ゆっくりとではあるが、確実に動き始めており──まったくもって、あきれるほどの剛力であるなあ、と感心する。でも、できることなら、もっと急いで開いてほしい。背後から迫る悪魔の気配をひしひしと感じながら、私はその場で足踏みする。
「行けい!」
ようやく人の通れるほどの隙間が開いて、黒鉄が叫ぶ。私はルジェンをかついでいることもあって、一番に門をくぐる。次いで、ロレッタが続いて。
「黒鉄も早く!」
「しかし──」
私は黒鉄を急かすのであるが、当の本人は門扉を押さえて動かない。
「ブルムなら大丈夫!」
黒鉄は殿のブルムを待っているのであると気づいて──異神たるブルムであれば何とでもなろう、と私は黒鉄をうながす。黒鉄は頷いて、門扉から手を離し──黒鉄が通り抜けると同時に、門は閉じる。
私たちは草むらを駆ける。やがて、緩やかなのぼり坂に差しかかり、もう目の前が郊外であるというところまでたどりついた──そのときだった。背後で轟音が鳴り、私たちは足を止める。
『動くな』
魔神王の声が告げて──私と黒鉄は、その場に縫い留められたように動けなくなる。殿をつとめていたブルムはいかに、と首だけで振り返れば、どうやら魔神王の不意打ちをくらって吹き飛んだようで、門扉にめり込んでいるのが見てとれる。ブルム自身は無事のようであるが、門扉を貫くようにめり込んで、もがいているところを見るに、すぐには抜け出せないようで──どうやら、私たちだけで魔神王の相手をせねばならぬようである、と覚悟を決める。
「奴の視界に入るな!」
ブルムが叫んで──魔神王はそれを忌々しそうにねめつけて、それゆえに私たちから視線が外れる。その瞬間、私は自らの身体が自由を取り戻していることに気づく。なるほど、そういうことか、と悟って──私は黒鉄に目で合図を送る。
『ひれ伏せ』
魔神王は私たちに向き直り、再び告げる。しかし、私と黒鉄は、すでに先までの場所にはいない。ロレッタを残して、魔神王の視界から逃れており、奴の権能は私たちには届かない。
私はかついでいたルジェンを草むらにおろして、魔神王に向き直る。私と黒鉄との間に奴が位置するように動きながら、その間合いを維持する。ブルムの叫びで気づいた。魔神王の権能──それは、奴の視界にあるものに対して、声で命令を発しているのである。その二つの条件を満たしたもの──かつ神ならぬものに対して、権能は効力を発する。そのからくりさえわかれば、戦いようはある。
「くらえい!」
黒鉄が、わざわざ吠えて、巨人の斧を振るう。私は瞬時にその意図を悟り、黒鉄を囮にして、魔神王の死角から奴に近づく。
『ひれ伏せ』
魔神王は黒鉄を見すえて、告げる。その権能の前に、黒鉄はなすすべもなく膝をつくのであるが──決して、ひれ伏しはしなかった。巨人の斧の石突を大地に突きたてて、その剛力でもって斧の柄をつかみ、這いつくばることを全力で拒絶しているのである。
さすがは不倒の黒鉄──次は私の番である。私は疾風のごとく駆けて、魔神王の死角から迫る。しかし、奴は背後から近づく私に気づいていたのであろう、絶妙なところで振り向いて。
『ひれ伏せ』
私を視界にとらえて、告げる。私は四つ身に分身していたのであるが、その権能の前では目くらましなど意味はないというのであろう、魔神王はためらうことなくその権能を発動して──しかし、それでも私の動きは止まらない。なぜならば、魔神王の目にとらえられた私は、私ではないからである。私は限界を超える動きでもって五つ目の分身をつくり出して、振り向いた魔神王の、さらに死角にまわり込んでいる。私は疾風のごとく大地を踏み込む。大地を穿つほどの衝撃を、身体をねじりながら手のひらにまで伝えて、魔神王の顎を打ちあげるように掌打を放つ。
「黒鉄!」
魔神王は天を仰ぐ。奴の視線は私たちから外れて──その権能は効力を失っているはずである。
「おうとも!」
魔神王の拘束から逃れた黒鉄が、応えるように声をあげる。黒鉄は巨人の斧をまるで棍でも扱うかのように振りまわして──魔神王を暴風が襲う。
黒鉄と入れ替わりに魔神王から離れた私は、旅神の弓を構えながら、類稀なる武人──絶影のことを思い起こす。まさか、人の練りあげた技が、魔神の王にさえ通用するとは。絶影に再会したならば、透しを学ばせてもらったことを──奴は盗んだと怒るであろうが──感謝せねばなるまい。
「マリオン!」
黒鉄が私の名を呼ぶ。しかし──まだである。まだ私は矢を放たない。
黒鉄の暴風も、魔神王にとってはそよ風に等しいようで、奴は涼しい顔で──しかも素手で斧を受け流す。しかし、黒鉄もさるもの。暴風は遠心力で次第に勢いを増す。黒鉄は渾身の一撃を放ち──魔神王は、先よりもほんのわずかに大きく腕を振って、それを受け流す──私は、その瞬間をこそ待っていたのである。
「やれい!」
『貫け!』
黒鉄の合図と同時に、私は命じる。放たれた矢は光りをまとって、さながら彗星のように飛ぶ。彗星は、黒鉄の暴風を貫いて、魔神王を襲う。奴は、その彗星の一撃を、巨人の斧と同様に振り払わんとして──。
『──おお』
そして、魔神王は見た、自らの左腕が宙に舞うのを。奴は初めて驚愕の声をあげる。
地に落ちた左腕をみつめて呆然とする魔神王の背後から、ロレッタが斬りかかる。赤剣は、無防備な魔神王の肩口を斬り裂き、そのまま心臓に迫る──が、我に返った魔神王は、驚いたことに、その刀身をつかんで止めてみせる。ロレッタは、何とか心臓を斬らんと渾身の力を込めているようなのであるが、それでも赤剣は微動だにせず──彼女は、魔神王が首だけで振り向いて自らをねめつけるに至り、赤剣を奴の身体に残したまま、慌てて飛び退る。
魔神王は、逃げるロレッタに向けて、残る右手を振るう。
「ロレッタ!」
それは単なる振り払いではない。魔神の王による致命の一撃である。私は、その距離では足りぬ、とロレッタの名を呼ぶのであるが──彼女には私の意図するところが伝わらないようで、きょとんとした顔で眼前に迫る死をみつめている。
しかし、ロレッタと魔神王との間に、敢然と割って入ったものがいる。そう──黒鉄である。不倒のドワーフは、ロレッタをかばわんと魔鋼の盾を構えて──魔神王はその腕の一振りだけで、黒鉄どころか、ロレッタさえも吹き飛ばす。
「ロレッタ!」
黒鉄はともかく、ロレッタには今の一撃は重すぎる。魔神王の権能の効かぬ彼女こそが、私たちの切り札であるというのに。
『ひれ伏せ』
しまった、と気づいたときには、もう遅い。私は魔神王の視界にとらえられ、その場に膝をつく。
『他人の心配などしている場合ではあるまいに』
魔神王の言ももっともであろう、と自らの不覚を悔いる。地べたに這いつくばることだけは何とか拒んでいるものの、私を押さえつける権能の力は凄まじく、指の一本さえ動かすことができないのである。
『我が左腕を落としたこと、誇りに思いながら──死ね』
告げて、魔神王は右手を振りあげて──そして、その段になって、その指先が霧のごとく散り始めていることに気づいたようで、奴は愕然とする。
見れば、魔神王の背には、いつのまにやらロレッタが取りついている。巨人の指輪の効力によるものであろうか、彼女は薄い被膜に覆われており──どうやら、黒鉄の献身と指輪の守護により、魔神王の一撃にも耐えたようである、と私は安堵の胸をなでおろす。
ロレッタは、魔神王の肩口に斬り込んだ赤剣の柄をつかんでいる。その刃は、わずかではあるが、すでに心臓に達しているのであろう。魔神王は焦りもあらわに、霧と化し始めた右手で、赤剣の刀身をつかもうとする。
「おおおおお!」
しかし、ロレッタは魔神王よりも速く、裂帛の気合いとともに赤剣を押し込む。赤剣は、魔神王の心臓どころか、そのまま胴までも斬り裂いて──分断された身体は、ずるりと地に落ちる。
「ロレッタ!」
私は慌てて駆け寄って、倒れそうになるロレッタを抱きとめる。彼女は、自らのなしとげた奇跡が信じられぬというように、呆然と魔神王を見下ろしている。まったく、この細い身体のどこに、その燃えるような勇気を秘めているというのであろうか。半神と知った今なればこそ、納得できなくもないのであるが──私はあらためてロレッタに畏敬の念を抱く。
「俺の出る幕はなかったなあ」
全身が霧と化し始めた魔神王に歩み寄りながら、ブルムがつぶやく。どうやら、ようやく門扉から抜け出したようであるが──この男、本当にとらえられていたのであろうか、と私はいぶかしく思う。異神たるブルムの力をもってすれば、門扉から抜け出すことなど容易だったのではないか、とらえられて動けぬ振りをしていただけではないか──つまるところ、娘の力を確かめたかっただけではないか、と疑念は深まるばかりなのであるが、おそらくブルムがそれに答えることはあるまいから──私は口をつぐむ。
『まさか──エルフごときに』
「残念だなあ、そいつはただのエルフじゃねえ──俺の娘だ」
魔神王の言に、ブルムは不敵に笑って、誇らしげに胸を張る。
『──半神か』
魔神王はそう吐き捨てて、私に抱きとめられて肩で息をするロレッタを、忌々しそうにねめつける。
『──口惜しや』
魔神王は、何かをつかもうとするかのように手を伸ばして──そして、そのまま霧と化して散っていく。その霧は、もとは悪魔であるというのに、陽光にきらきらと輝いて──まるで、神聖なるもののように、天に昇る。




