5
酒場を後にして、私たちは通りの交差する広場に出る。広場の中心には巨大な噴水があり、彫像の抱える水瓶からは勢いよく水があふれ出ている。隔絶されたこの浮島で──雲よりも高いのであるから、雨など降ろうはずもない──いったいどこから水を引いているものやら、と私は首を傾げる。
「おそらく、水の魔石を用いているのではないかと思います」
フィーリは、私の疑問を察したように、折よく口を開く。
「魔石?」
「精霊石という特定の属性を有する石に、強大な魔力を込めたものを魔石と呼ぶのです」
問い返す私に、フィーリは続ける。なるほど、水の属性を有する石に強大な魔力を込めて、空中都市の水源となしているということなのであろう。自然に由来するものを魔法で補うことができるとは、古代の魔法とはかくも強大なものなのであるなあ、と感嘆しながら、噴水を眺めたところで──。
『──止まって』
私はルジェンに古代語で呼びかける。私の気づいた気配に、黒鉄もすでに気づいており──巨人の斧を水平に構えて、ロレッタの歩みを止めている。
噴水の縁に、男が一人、腰かけている。見たところ、悪魔に襲われたような外傷もないのであるが、私たちの姿が視界に入っているであろうに、こちらに視線を向けるでもなく、ぼう、と宙を眺めている様が、どこか異様に映る。
『叔父さん!』
言って、ルジェンは駆け出そうとして──私は慌ててその腕をつかんで引き戻す。
『知り合い?』
『母さんの弟の──』
私の問いに答えようとしたルジェンは、不意に言葉を呑み込む。見れば、いつのまにやら男はルジェンをみつめている。その目──大きく見開かれた目には、あるべきはずの眼球がなく、眼窩は闇のごとく黒く塗り潰されている。その闇が昏くルジェンをのぞいているのである。
『違う、叔父さんじゃない……』
ルジェンは絶望するように言って、その場にぺたんと座り込む。
男は見る間に、醜悪に変容する。
『下がるよ!』
言いながら、私はルジェンと少年を脇に抱えて、広場の端まで退く。振り向いたときには、男はすでに異形と化していた。
『──』
男だったものが何やらつぶやいて──私はその意味するところを理解できず、その事実にいくらか安堵する。奴は魔神ではない。少なくとも、先の三つ首ほどの強敵ではないということになれば、戦いようはある。
「黒鉄、ロレッタ──さっき話したとおりに!」
「おうとも!」
私の声に応えて、黒鉄は巨人の斧を振りまわしながら駆け出して。
「ま、任せて!」
ロレッタは自信なさげに赤剣を抜く。
黒鉄は、まるで棍でも扱うかのように斧を振りまわして、その剛力でもって悪魔を打ちつける。悪魔は斧をかわすそぶりも見せず──ドワーフの一撃など、たかが知れているとでも思ったのであろう──黒鉄の一閃を腕で受けて、そのまま薙ぎ払われる。悪魔は吹き飛ばされて、噴水の彫像を打ち砕き、水しぶきをあげながら倒れる。
『穿て!』
私は旅神の弓に命じて、悪魔の胸を穿ち──あわよくば心臓を貫かんとしたのであるが、それを察した悪魔の反応により、わずかに狙いを外したようで──奴は噴水の底に縫い留められる。悪魔は咆哮をあげながら暴れ、もがくのであるが、逃れることあたわず。旅神の矢は、その程度で抜けることなどない。
「ロレッタ!」
「任せて!」
私の後ろに控えていたロレッタに合図を送ると、彼女は勢いよく駆け出して、悪魔の胸に飛び乗る。赤剣を振りかぶり、悪魔の心臓めがけて振りおろさんとして──。
「うわ!」
間近に迫る死を感じたのであろう、悪魔はそれに抗わんとし、ロレッタを振り落とさんとさらにもがき出す。それでも、旅神の矢は抜けることはない──ないのであるが、悪魔を縫い留めている噴水の敷石の方は、そういうわけにはいかなかった。敷石は悪魔の膂力にかなわず、旅神の矢ごと持ちあげられて──身体の自由を取り戻した悪魔は、今度こそロレッタを振り払わんと腕を振るう。
「ロレッタ!」
ロレッタを襲わんと振るわれた悪魔の剛腕は──しかし彼女に届くことはなかった。ロレッタの眼前に展開された魔法の障壁が、悪魔の腕を押しとどめているのである。
『今じゃ! やれい!』
どこからか老爺の声が飛んで──ロレッタは我に返ったようで、再び赤剣を振るう。神剣はあやまたず悪魔の心臓を貫いて、奴は断末魔の叫びをあげて、灰となって消えていく。
危ないところであった。赤剣の一振りで気の抜けたロレッタは、ついでに腰も抜けたようで、その場にすとんとへたり込む。
『悪魔の心臓をたやすく貫くとは──いやはや、見事なもんじゃの』
と、ロレッタをたたえるように拍手をしながら現れ出でたのは、長身の老爺であった。その銀髪は腰ほどまでもあり、灰色の長衣に身を包んだ姿は──杖こそないものの──物語に登場する魔法使い然としている。
『あなたは?』
『──護民官様!』
私の問いにかぶせるようにルジェンが言って、彼女は老爺──護民官に抱きつく。
『おお! ルジェンか! 無事で何より!』
どうやら、護民官とルジェンは知己のようで──老爺は泣きじゃくる彼女を優しく抱きとめる。ルジェンは、気丈に振るまってはいたものの、年端もいかぬ少女なのである。よく知りもせぬ蛮族のもとでは得ることのできなかった安心を、護民官の庇護のもとでようやく得ることができたのであろう。彼女は護民官に抱きついたまま離れようとせず──老爺は、やれやれ、と溜息をついて苦笑する。
『申し遅れた。やつがれはナタンシュラの護民官──リュナスと申す』
やがて、護民官は私たちの視線に気づいたものか、ルジェンをぶらさげたまま古風な辞儀をする。
ルジェンによると、護民官とはナタンシュラの公職の一つであり、リュナスは民を護る偉大なる魔法使いの一人であるのだという。そうすると、この老爺こそが、自然をも操る大魔法の使い手ということであり、その力と私たちの力とをあわせれば、魔神とも対抗できるやもしれぬ、と私はわずかながら希望を抱く。
『護民官様は、このようなところで、何をなさっていたのですか?』
ようやく護民官から離れながら、ルジェンが問いかける。
『逃げ遅れたものを探しておったのだ』
そう返しながら、護民官は何やら呪文を唱えて、両腕を広げる。すると、老爺のそれぞれの腕から、波のようなものが発せられて──その波でもって、周囲の気配を探知しているのであろう、と私はなりゆきを見守る。やがて、護民官は難しい顔をして、腕を組む。その顔から察するに、他に生き残りはいなかったのであろう、と思う。
『わずかな生き残りは、宮殿に逃げのびておる』
ぬしらも宮殿に、と続ける護民官に、ルジェンは憂いもあらわに問いただす。
『お父さんは! お母さんは!?』
『──』
ルジェンの切実な問いに、護民官は言葉を詰まらせるように押し黙ってうつむく。そして、彼女はそれだけですべてを悟る。とはいえ、ルジェンにもその覚悟はあったのであろう。泣きわめくようなことはなく、唇を噛みしめて、こみあげる悲痛にこらえている。
私たちは、護民官に連れられて、宮殿を目指す。出発の前に老爺の張った結界は、どうやら悪魔に対しての目くらましになっているようで、道中で見かける異形どもが私たちに近づいてくることはない。
やがて、宮殿の門までたどりつく──と、私は眼前の白亜の城よりも、その白を貫くようにそびえる大樹の方に目を奪われる。何と巨大な樹であろうか。巨木の森の木々よりもなお巨大なその大樹は、いつぞやフィーリの話にあった世界樹を思わせるほどに雄大で、生命の象徴たる緑にあふれている。
『大樹の間へ──他の政務官も、逃げのびたものも、そこに避難しておる』
中庭を抜けて、宮殿に向かいながら、護民官が告げる。他の政務官というのは、ルジェンの言によるならば、護民官同様、偉大なる魔法使いなのであろう。総力を結集して一所を守る。それ自体は間違っていないようにも思えるのであるが、そも籠城とは援軍を当てにした戦術であり、いささかの不安は残る。
『──護民官』
『何かね、お客人?』
私は前を行く護民官に声をかけて──老爺はいくらか歩調を緩めて、私に向き直る。
私たちは、北壁を越えてナタンシュラに迷い込んだ蛮族である、とルジェンより紹介されている。当初、護民官は、先のルジェンと同じく、信じられぬという反応を示していたのであるが、事情を詳しく説明すると──同じく信じられぬ出来事である悪魔の襲来という凶事を目の当たりにしているからか──割にすんなりと、そういうこともあるものか、と納得を示して、今は私たちを客人として受け入れてくれている。
『ちょっと教えてほしいんだけど──』
私が問うと、護民官は頷きながら続きをうながす。
『私たちよりも先に、赤毛の男がこなかった? ブルムっていうんだけど──』
『ブルムとは──もしや、勇者ブルムのことか!?』
ブルムの名を耳にして、今まで険しかった護民官の顔が、ぱっと明るくなる。
『ブルムの仲間も一緒なのか!? 大魔法使いアフィエンは!? 薄暮のレフスクルは!?』
護民官は、私につかみかからんばかりの勢いで続ける。
『──いや、ブルム一人』
私が目にしたのはブルム一人であった。大魔法使いアフィエンとやらの所在はさだかではないが、少なくとも薄暮のレフスクルはとうに亡くなっているというから、今ここにいるのはおそらく彼一人なのであろう、と思う。
『そいつは──いささかまずいのう』
護民官は、先の勢いを失って、何やら難しい顔をする。
『勇者ブルムならば悪魔──いや、それどころか魔神でさえも屠ってみせるであろう。しかし、仲間という枷のない彼は加減を知らぬとも聞く。事実、彼の功績のうちの半分くらいでは周囲の被害も甚大での、中には滅びた国もあるほどというから、ナタンシュラもそうならんともかぎらん──』
私は単純に、勇者ブルムの来訪は吉報となるのではないかと考えていたのであるが──悪魔以外のものまで心配しなくてはならなくなった護民官は、どうしたものやら、と頭を抱える。




