3
「じゃあ、行ってくる」
私たちは、理知に見送られて、転移門をくぐる。世界はぐにゃりと歪んで消えて──次の瞬間、私たちは風になびく草原に立っている。草花は丈高く、私の肩ほどもあり、しばらくの間、誰も訪れていないであろうことが見てとれる。
やわらかい風が私の頬をなでて、草花も踊るように揺れる。風は、高空の浮島に吹いているにしては穏やかで──これも、フィーリの話していた自然を操る魔法の効果やもしれぬ、と思う。
「え──もう空の上にいるの?」
ロレッタは信じられぬというように周囲を見渡す。そうであろうとは思うのであるが、視界は草花に遮られて、それを確かめることはできない。
「さっきよりも空が近い──ような気がする」
言って、私は唯一視界の開けている空を見あげて──そこにある太陽に手が届きそうなほどに思えて、思わず手を伸ばす。見れば、黒鉄とロレッタも、同じように手を伸ばしていて──私たちは顔を見あわせて笑い出す。
「おい、マリオン」
黒鉄の声に振り向く。黒鉄が顎で指す先には、つい先頃誰かが通ったというような草を踏みしめた跡があり──これこそブルムの足跡であろう、と思う。
私は黒鉄とロレッタに目で合図して──二人に先んじて、その道なき道を行く。草むらから悪魔が飛び出してこないともかぎらない──となれば、先行するのは私の役目である。
丈の高い草をかきわけながら、慎重に歩みを進めると、いくらも行かぬうちに、足もとに硬い感触を覚える。見れば、草に埋もれた石畳が道をなしており──道は緩やかに草原をのぼる。階段のように並ぶ石畳をいくらかのぼると、先よりも強い風が吹いて、私の髪が踊り──そして、ようやく視界が開ける。
私は声にならない声をあげて、その光景に見惚れる。島は空に浮いている──それは十分に理解していたはずであるというのに、私はその絶景に度肝を抜かれたのである。
私たちは浮島の端──空中都市の郊外に立っている。そこからは、島の中央にそびえる大樹と、それを囲むように築かれた白亜の宮殿と──そして、鮮烈な青しか目に入らない。崖に近づいてみて初めて、雲海が視界に入るのであるが、あれほど下方にあっては、もはや海とは呼べまい。しいて言うのならば、空が海なのである。
黒鉄とロレッタは、あんぐりと大口を開けて、その光景に見惚れている。私は二人の間に割って入って、無理やりに肩を組む。三人──ともう一人で、一緒にこの光景を目にすることができて、私はたまらなくうれしいのである!
「ね、あそこに何かある」
言って、私は黒鉄とロレッタの背を押す。そして、半ば駆けるように二人を追い抜いて、その建造物の前に立つ。円形に並んだ石柱の上に屋根があるだけの小さな建物は、おそらく庭園の眺望を楽しむような用途で建てられたものであろう、と思う。しかしながら、都市の住人にはあまり親しまれてはいないようで、建物は草花に呑まれており、そこに在りし日の面影を見ることはできない。
「──止まって」
建物に気配を感じて、私は黒鉄とロレッタを手で制する。
「誰かいるの?」
『──!』
私の呼び声に応えたのは──建物から飛び出した少女の短剣であった。少女──私よりもいくらか年若であろうか──の振りおろした短剣をひらりとかわす。細身の短剣である。斬るよりも、むしろ刺すべき武器であろうから、少女には武術の心得はないのであろう、と思う。
『──!』
少女は古代語で何やら叫びながら、短剣を振りまわす。彼女が短剣を振るうたびに、その長い髪が踊る。透きとおるような白い肌と陽光にきらめく銀の髪は、まるで妖精と見紛うほどで、古代人とはかくも美しきものであろうか、と見惚れかけたところで──はっと我に返る。
「フィーリ、訳して」
胸もとに向けてささやいて──そうして、ようやく彼女の言葉の意味を解する。
『悪魔め! 近寄るな!』
少女は叫ぶ。なるほど。やはり、浮島は悪魔の侵略を受けているのだと確信して。
『私たちは悪魔じゃないよ』
私はそう返して──少女の短剣をかわしざまに、その刃を指先でつかんで、彼女の手首を打って、短剣を奪い取る。
『しいて言うなら──蛮族だよ』
奪い取った短剣を背後の黒鉄に手渡して、私は少女に向き直る。
『──蛮族が、どうやってこんなところに?』
少女は警戒こそ解いてはいないものの、どうやら私たちが悪魔でないとは納得してくれたようで──こんな可憐な乙女が悪魔であるはずはないのであるが──じっとにらむように問いかける。
『北壁を越えて』
少女の問いに、短く答える。
『蛮族を避けるために隆起させた北壁を越えるなんて、そんなの無理よ!』
『あ、やっぱり蛮族避けだったんだ』
フィーリの知る北壁は、今ほど切り立っていなかったという。もしかすると、自然をも操る古代人の魔法によって、前人未到の絶壁となるべく隆起させられたのではなかろうか、と考えていたのであるが──どうやら、私の想像は正しかったらしい。
『でも、北壁を越えたのは本当』
言って、私はない胸を張って。
『蛮族も捨てたもんじゃないでしょう』
誇らしげにそう続けると、少女は唖然たる面持ちを返す。
『私はマリオン』
蛮族代表である。少女にわるい印象を与えぬように、と私は名乗りながら、やわらかく微笑みかける。
銀の少女──ルジェンの語るところによると、ナタンシュラは──空中都市はやはりナタンシュラであった──突然、悪魔に襲われたのだという。先までの隣人が悪魔と化して人々を襲い始めて、彼女は家族にかばわれて難を逃れ、命からがら郊外の庭園まで逃げのびて、隠れていたというのである。自らも悪魔と化してしまうのではないかという恐怖に耐えながら、必死に息をひそめていたというのであるから、その心労たるやいかばかりであったろうか。
『人が悪魔に変容することはありません。隣人が突然悪魔になったというのであれば、それは悪魔が隣人を殺してなりますましていたのでしょう』
ルジェンの不安を払拭するように、フィーリは少女にやわらかく語りかける。ところが、彼女はそれが誰の発言やらわからぬ様子で──私は首飾りを掲げて、旅具をこつこつと叩いてみせる。
『──旅具?』
『フィーリと申します』
おずおずと尋ねるルジェンに、フィーリはいつもの調子で名乗る。
『旅具なんて、初めて見た』
『ここでは、旅をする必要もないでしょうからね』
ルジェンは驚きとともに旅具をのぞき込み、フィーリは旅の楽しみを知らぬナタンシュラの民をあわれむように返す。
そうやって、ルジェンが私たちに心を許して、いくらか会話も弾み始めた──そんなときだった。ルジェンの背後から、少年がぴょこんと顔を出す。彼女と同様、美しい銀の髪を持つ少年は、年の頃なら十にも満たないような、幼い容貌であった。私たちに興味はあるものの、どうやらおそれの方が勝っているようで、ルジェンの陰に隠れながら、そっとのぞいている。
『こんにちは!』
私は朗らかな挨拶とともに少年の顔をのぞき込むのであるが──彼は逃げるようにルジェンの後ろに引っ込む。
『言葉を失っているみたいなの』
言って、ルジェンは少年に向き直り、この蛮族は怖くないよ、と失礼なんだか失礼じゃないんだか、よくわからないことを言う。
『きっと、よほど怖い目にあったのね』
ルジェンは少年の頭を胸に抱いて──どうやら、少年も彼女には心を許しているようで、素直にその胸に顔を埋める。
『ねえ──』
言葉を失った少年を抱いて、ルジェンにも思うところがあったのであろう、彼女は意を決したように声をあげる。
『あなたたち──北壁をのぼるほどなんだもの、腕は確かなんでしょう。悪魔を倒せなんて言わないから、せめて私たちの家族を助けてほしいの』
ルジェンは切実な願いを告げる。それは、見ず知らずの蛮族に頼むには、大それた願いであったが──幸いにして、私たちは単なる蛮族ではないのである。
『ルジェンたちの家族も助けるけど──悪魔も倒すよ』
任せて、と私は胸を叩く。
『私たち、結構強いんだから』




