1
私は、垂直に切り立った崖──北壁をのぼっている。
黒鉄もロレッタも──フィーリさえもいない、ただ一人の独行である。
極寒の中、竜革の手袋をした右手を伸ばして、岩肌をつかんで体重を支える。その岩肌は、おあつらえ向きに突き出ており、私くらいならば何とか乗れるであろう、と目星をつけて──足場を蹴って、そのまま右手を支点として、ふわりと岩肌の上に降り立つ。ふう、と息をついて、腰をおろして──私は久方ぶりの休憩をとる。
決死の単独行は、かれこれ二日目を迎えていた。
「いったいどこまで続いてるんだよ……」
めずらしく弱音を吐いてしまうのも無理からぬことであろう、と上を見あげながら思う。見あげる先は厚い霧に覆われており、私の目をもってしても見通すことはできず、北壁がどこまで続くやら、皆目見当もつかないのである。
私は、真祖の外套で身体を覆うようにして暖をとる。古竜の炎を防ぐという外套は、同様に凍てつく厳風をも防ぐようで──この類稀なる外套がなければ、早々に凍えて落下していたであろうな、と考えて、私は寒さならぬ悪寒に、ぶるり、と震える。
「──マリオン、大丈夫?」
魔法の糸を通して、ロレッタの声が届く。時折届く仲間の声だけが、私の孤独を癒やしてくれる。
「大丈夫、もうちょっとがんばってみる」
ロレッタを心配させぬよう、意識して快活に答えて──私は再び立ちあがる。
ロレッタの糸は、私の身体には結びついていて、連絡の用はなしているものの、北壁の頂上にはたどりつくことができておらず──風が強すぎて制御できないらしい──命綱にはなっていない。とはいえ、仮に落ちたとしても、私には風神の指輪がある。ま、死ぬことはあるまい、と私はいくらか心を平らかにして、岩壁に手をかける。
まったく──なぜにこのようなことになっているかということをご理解いただくためには、数日ほど時間を遡らなければなるまい。
「これが──北壁」
私の眼前には、垂直に切り立った岩壁がある。壁はどこまでも高く続き、やがて雲に包まれてしまって、その果てを見通すことはできず──私は、その尋常ならざる壁を見あげて、呆けたように立ち尽くす。
「北壁を見あげるもんは、みんな同じ顔をする」
そう言って笑うのは、私たちをここまで案内してくれた老爺である。
北壁の麓には村があった。こんな僻地であるというのに、意外にも大きな村であり、私たちと同様、旅人らしきものの姿もちらほらと見える。村に入るなり、私たちは件の老爺に呼びとめられて──そして、わずかばかりの駄賃と引き換えに、北壁を案内されているというわけである。
「昔はこんなに切り立っていなかったはずなんですが──」
フィーリのあげた疑問の声を、私たちのうちの誰かの発言だと思ったのであろう。
「ほう、昔のことをよく知っとるもんだのう」
老爺はうれしそうに返して、駄賃の分、村の口伝を語ってくれる。
老爺の語るところによると、大昔の北壁は、険しいとはいえ、何とかのぼれないこともないくらいの峻山であったのだという。しかし、百年ほど前に大きな地震があり、見る間に大地が隆起して、今のごとく何人をも拒む絶壁となったということで──それ以来、北壁は前人未到の地として知られることとなったようである。
「それにしても、何でこんなところに村があるの?」
ロレッタは、北壁を見あげて、そのまま後ろに倒れ込みそうになったのをごまかそうとして──私の目をごまかすことはできないのであるが──何事もなかったかのように老爺に尋ねる。
「あんたらのように、北壁見物にくるものがおるでの」
老爺の答えに、ようは観光でなりたっている村なのであろう、と納得──しかけたものの、よく見ると説明のつかない輩の姿も見える。
「でも、私たちみたいに見物してない人もいるみたいだけど」
私の指す先には、見るからに堅気のものではなさそうな風体の男が数人、上ではなく下──北壁ではなく大地を凝視しながら歩いており、見物というよりは、何かを探しているようにも思える。
「あいつらはの『落恵』を探しとるのよ」
「──落恵?」
老爺の発した聞きなれぬ言葉に、私は思わず問い返す。
「北壁の上には──『何か』がある」
老爺は芝居じみた重々しさで返して──そして、にんまりと笑って。
「時折、ものが降ってくるんよ」
雨が降ってくるというくらいの軽さでもって、訳のわからないことを言う。
何でも、北壁の上からは、時折「何か」が落ちてくるのだという。それは、今まで見たこともないような動植物であったり、明らかに人工物と思しき──しかし、用途のわからぬものであったりするようで、ここらではそういったものを総じて「落恵」と呼んでいるということらしい。落恵を中原まで運べば、好事家に高値で売れることから、近年は山師のような連中も多く訪れるようになったということで──なるほど、先の連中はそういった輩なのであろう、と今度こそ納得する。
「何か落ちてくるということは──北壁の上には『何か』がある」
「そういうことじゃな」
私のつぶやきに、老爺は同意するように返して。
「何があるかは、神のみぞ知ることであろ」
と、飄々と笑いながら続ける。
老爺に別れを告げて──村から離れて、人気のないあたりまで場所を移す。
「マリオン、本当にのぼるの?」
岩壁を吟味する私に、ロレッタは不安そうに尋ねる。彼女としては、北壁にのぼることを思いとどまってほしいのであろう、と思う。登はんにともなう危険を考えれば、その不安も理解できないではない──が、眼前の北壁は前人未到であり、さらにはその上に誰も知らない「何か」があるとくれば、のぼらないわけにはいかないではないか。
「大丈夫だって。風神の指輪があるんだから、落ちて死ぬことはないって」
言って、私はロレッタを安心させるように、指輪を着けた右手を、ひらひらと躍らせる。
「マリオンが頂上までたどりついたら、儂の剛力とロレッタの糸でもって後に続く、と」
「そんなにうまくいくかなあ」
方針を確認するようにつぶやく黒鉄に、やはりロレッタは異を唱える。
「あたしたちには、風神の指輪はないんだよ」
落ちたら死んじゃうじゃない、とロレッタは不安もあらわに続けるのであるが、黒鉄の剛力と彼女の糸をもってすれば、落ちることなどありえないのではないか、と思わないでもない──とはいえ、彼女の不安を払拭しないことには、此度の冒険は始まらない。
「羽のごとくあればいいじゃない」
私はいつぞやの魔法のことを思い出す。羽のごとくあれば、どれほどの高所から落ちようとも、傷を負うことなどあるまい。
「すんごい飛ばされそう」
ロレッタは、羽のごとくなった我が身が高所から落ちるところを想像したものか、不満げに唇を尖らせる。確かに、羽のごとく軽くなってしまえば、風に乗ってどこまで飛ばされるやら、知れたものではない──とはいえ、羽のごとく飛んでいくのであれば、少なくとも死にはしないであろうから、と私は渋るロレッタを何とか説得して。
「ま、とりあえずのぼってみるから、糸、よろしくね!」
私は近所に出かける気軽さでもって、北壁をのぼり始める。
ところが──北壁は想像を絶するほどに高かったのである。
早々に雲までたどりつき、霧の中をのぼり始めた頃は、思ったよりも早く頂上にたどりつけるかもしれない、と楽観的に考えていたのであるが──かれこれ丸一日のぼり続けているというのに、霧は一向に晴れる気配がないのである。
私は狩人としての修練を積んでおり、三日くらいであれば飲まず食わずでも問題はないのであるからして、まだ焦るような段階ではないのであるが──先がわからないという漠とした不安は、想像以上に私の精神を消耗させている。
だからかもしれない。ただただ上を目指してのぼるうちに、私の精神にはわずかなほころびが生じていたのであろう。私は無造作に右手を伸ばして岩肌をつかみ、足場を蹴って身体を引きあげて──それは、何度となく繰り返した一連の動作だったのであるが、そのときだけは事情が違った。油断があったのであろう、岩肌の突先に引っかかって、首飾りの紐が切れたのである。
「──あ」
「フィーリ!」
フィーリが声をあげたときには、すでに遅かった。落ちる旅具に慌てて手を伸ばすが、岩壁に張りついたままでは手の届く範囲などたかが知れており──瞬く間にフィーリは霧の中へと消える。
「ロレッタ! フィーリが落ちた!」
私の叫びに、しかし応えはない。長らくの間をおいて──やがて、魔法の糸を通して、ロレッタの声が届く。
「マリオン──フィーリ先生、落ちてきたよ」
これが落恵かあ、とロレッタはあっけらかんと続ける。
「フィーリは無事!?」
私は旅具の身を案じて、声を荒げる。尋常ならざる高さからの落下である。岩壁に叩きつけられて、よもや壊れてしまったのではあるまいか、と肝を冷やしたのであるが。
「大丈夫みたい」
返すロレッタの言葉は軽い。
「フィーリ先生、絶対壊れないんだって」
何じゃそりゃ。心配して損したではないか。そうならそうと先に言っておいてほしいものである、といくらか憤慨しながら──私は知らずあふれかけていた涙をぬぐう。
そうして、はからずも私は独りとなり──そして、今や三日目の朝を迎えているというわけである。体力こそ尽きてはいないものの、精神の疲労は著しく、そろそろあきらめて引き返すべきであろうか、と柄にもなく尻込みした──そのときであった。不意に突風が吹いて、霧が晴れる。
「──おお!」
そこには岩壁の終わり──北壁の頂上が見えており、私は駆けるようにして、残りの岩壁をのぼって──頂上に両手をかけて、一気に身体を引きあげる。




