6
気づけば、私は絵画の前に立っていた。
丘の上の小さな家の、件の絵画の前であり──ようやく絵画の世界から抜け出せたのであろう、と私は安堵の胸をなでおろす。
女性と勿忘草の絵画──その心象風景の世界から戻った今なればこそ、そこに描かれている女性はソティスであり、描いたのはヴァイアであるのだ、と苦い結末とともに偲ばれる。
「ようやく出てきたか」
と、隣の部屋から声をかけてきたのは、何とも不機嫌そうなエルギスであった。口ぶりからすると、私が絵画の中に迷い込んでいたことを承知のようで、こやつはいったい何ものであろう、といぶかしく思って──そして、はたと気づく。
ずいぶんと髪が伸びて、そのせいで癖毛の印象が強く、すぐには気づかなかったのであるが、その瞳に彼の人の面影を認めて──私はその名を呼ぶ。
「──ヴァイア?」
私の問いかけに、彼は苦く笑う。
『お姉ちゃん──』
ヴァイア──いや、今やエルギスと名乗る彼は、私をみつめて、懐かしそうに古代語でつぶやく。
「私のことがわかるの!?」
私は驚きを禁じえず、思わず声をあげる。絵画の世界は過去の現実ではなく、あくまで心象風景であったはずである。実在の人物たる彼に、架空の世界の記憶などあろうはずもないというのに。
「あの絵には、僕の魂が塗り込められているんだ。絵の中で起こったことは、すべて把握しているさ」
何でもないことのように言いながら、ヴァイアは私に近づいて。
「だから、もちろん僕は知っている」
うつむきながら、私の手を取る。
「ただ──ただ、お姉ちゃんだけが、僕らの味方になってくれたことを」
そして、力強く握りしめて。
「──ありがとう」
ヴァイアの真摯な言葉に、私は思わず目頭を熱くする。あの悲しみを知るもの同士、言葉を交わさずとも、思いは伝わる。私は彼の手を強く握り返す。
「もしかして、と思っていたのですが──」
と、不意に沈黙を破ったのは、私の胸もとのフィーリであった。
「あなたは──街道の魔法使い、ヴァイア殿ではありませんか?」
「おや──旅具とはめずらしい」
ヴァイアは私の胸もとの首飾りを、一目で旅具と看破して続ける。
「いかにも、僕は闇の森の魔女の一番弟子にして、街道の魔法使い──ヴァイアだよ」
誇らしげに名乗りをあげるヴァイアに、驚きよりも先に、母親めいた慈しみがわいて出るのは、彼の幼い笑顔を知っているからであろうか。
「街道の魔法使い?」
「中原から、ここに至るまで──私たちが歩いてきた街道をつくりあげた魔法使いです。おそらく、クウィンタリナ大橋も、デクスとシニスの街も、彼がつくりあげたものでしょう」
フィーリの言葉に、私は今まで歩いてきた長大な街道を思い起こして──おお、と驚きの声をあげる。
「すごい! ヴァイア、すごいじゃない!」
言って、私は背伸びをして、ヴァイアの頭をくしゃりとなでる。
「いつまでも子ども扱いはしないでほしいなあ」
ヴァイアは不満げに返して──しかし、言葉とは裏腹に、どうやらまんざらでもないようで、私の手を払いのけるようなことはしないところが、あいもかわらず微笑ましい。
「でも、どうして魔法使いになったの?」
画家だったのに、とヴァイアに問うと。
「今でも本業は画家だよ」
と、彼は苦笑する。
「このあたりに街を築いたのも、遠くまで街道をつないだのも──すべてはソティスのため」
言って、ヴァイアは幼く笑いながら続ける。
「花に生まれ変わった彼女のもとに、いつでも駆けつけられるように」
それは、ともすれば、一笑に付されるような、未練がましい行為に思えるかもしれない。しかし、私は──私だけは、ヴァイアのその献身を笑うことはなかった。
「──そうだ。そろそろマインを起こさないと」
言って、ヴァイアは慌てて部屋を移る。
「マイン、いるの?」
後ろに続く私の問いに、ヴァイアは顎でテーブルを指して応える。そこには、テーブルに突っ伏して眠りこけているマインの姿があって──私は彼女の無事に安堵の胸をなでおろす。
「君よりも少し早く、絵画の中から抜け出してきたんだ」
ヴァイアの言葉に、やはり絵画に取り込まれる寸前に見たマインの似姿は、すでに絵画に迷い込んでいた彼女自身の姿だったのであろう、と思う。
「でも──私たち、どうして絵画の中に迷い込んでしまったんだろう」
「──わからない」
私の疑問に、しかしヴァイアはうつむきながら首を振る。
「こんなことは、今まで一度もなかったからね。よほど僕との相性がよかったのかもしれないけど──確かなことは言えないよ」
言って、ヴァイアは腕を組んで──そのまま、何事か思案しているかのように黙りこくる。
「どうしたの?」
早く起こしなよ、とヴァイアを急かすのであるが、彼は何かにためらっているようで、一向にマインに声をかける気配はない。
「いや、きっと怒るだろうなあ、と思って」
言い訳めいたことを口にしながらも、ようやく踏ん切りがついたようで、ヴァイアはマインの肩を揺らす。
「君たち、三日も絵の中に取り込まれていたからね。祭り、もう始まっちゃうんだよ」
「早く! 早く! 始まってしまうわ!」
つい先ほどまで、三日も家に帰らなかったなんて、お父様とお母様に叱られる、と騒ぎ通しであったというのに──大河に浮かぶ幾艘もの舟と、そこに輝く天灯を見るや、マインは今にも飛び出していきそうな勢いで、振り返りながら私たちを呼ぶ。どうやら、絵画の中での出来事は夢であった、と片づけたようで──彼女の関心は、すでに祭りにしか向いていない。
「はいはい」
返しながら、私はマインの後ろに続き、隣に並んで、丘から大河を見下ろす。水面の天灯は、まるで無数の蛍のように揺らめいて──私は故郷で目にしたことのある、木々を輝かす蛍の群れの姿を、懐かしく思い出す。
夜──しかも、夫婦月のうち、雌月が姿を隠しており、雄月のみがその欠けた姿で懸命に照らしている夜であるから、普段とくらべるといくらか薄暗く、それがかえって天灯の輝きを増しているようにも思える。
やがて、このあたりの民謡であろうか、数え歌のような声があちらこちらから響いて──そして、歓声とともに、天灯が空に舞う。
「──わあ!」
私は、街の皆の歓声に乗せるように、感嘆の声をあげて──マインが勧めるはずである、と納得する。舞いあがる天灯は、文字どおり、夜空を埋め尽くして、しかも大河の水面はその灯りを映すのである。皆の願いとともに飛び立つ天灯の群れたるや、蛍とは比較にもならないほどに数多く、それゆえに荘厳で美しい。
「きれいだね」
つぶやいて、私はフィーリを優しくなでる。
「ええ──本当に」
返すフィーリの声も、どこかやわらかく思える。
黒鉄とロレッタも、街のどこかでこの空を見あげているのだろうか。かなうならば、皆と一緒に見たかったな、といくらか残念に思って──いや、フィーリとは一緒に見られたのであるからよしとしよう、と思い直して、私はもう一度、友を優しくなでる。
「このお祭りも、ヴァイアが考案したの?」
祭りに夢中のマインをよそに、私はふとした思いつきで、背後に立つヴァイアに小声で問いかける。
「そう、ソティスを偲ぶ祭りさ──ま、僕の目的としては、花の種を飛ばすことの方にあるんだけどね」
返して、彼は勿忘草の種を運ぶ天灯を、愛おしそうに見あげる。
「ソティスの生まれ変わる花がない──なんてことがないように、世界中に花を咲かせようと思ってさ」
子どものように誇らしげに語るヴァイアは、とても古代より生きる威厳ある魔法使いとは思えず、ソティスへの愛に満ちている。
「もしかして──『勿忘草』って名前も、ヴァイアがつけたの?」
「ソティスの生まれ変わるかもしれない花が『鼠の耳』なんて呼ばれるのは、我慢ならないからね」
言って、ヴァイアは、ふん、と鼻を鳴らす。
やがて、すべての天灯が飛び立って──風に乗って、東へと流れていく。夜空に瞬く天灯は次第にまばらになり、いくつかの天灯だけを残して消える。夜空に残った天灯は、風に乗り損ねたものであり、それらはやがて近隣に落ちるのだとヴァイアは言う。
そんなことを話していると──彼の言葉のとおりに、天灯のうちの一つが、ゆらりと傾いて、丘に向けて緩やかに降りてくる。ふわり、ふわり、と踊るように舞い降りるそれを、マインは何とか受け止めたいのであろう、空を見あげたまま、あちらこちらと駆け回って──危なっかしいこと、この上ない。
「やれやれ──」
ヴァイアは、あきれるようにつぶやいて──駆けるマインに近づいて、ちょうどつまずいて転びそうになった彼女を抱きとめる。
「マイン、そろそろ祭りもお開きだよ。今日こそ家に帰らないと」
送っていくよ、とヴァイアがマインを立ちあがらせた──そのときであった。
「私、生まれ変わったなら、花になりたいな」
マインが何気なくつぶやいて──私とヴァイアの時が止まる。なぜならば、それは私とヴァイアが知るかぎり、もっとも悲しい願いであったから。
「──どうして?」
どうしてそう思うの、とヴァイアはマインに尋ねる。
「何でだろう──ふと、そう思ったの」
マインは再び夜空を見あげて──彼女のもとをめがけたように舞い降りた天灯を、やわらかく抱きとめながら、そう返す。
「花になったら、嫌なことをしなくていいし、肖像じゃなければエルギスに描いてもらえるかもしれないし──」
嫌なことというのが何かはわからぬが、本当に何か嫌なことがあるようで、マインは顔をしかめながら続ける。
「エルギス、勿忘草が好きだから──私が花に生まれ変わっても、きっとみつけてくれるでしょう?」
それは、他愛のない問いかけであった。しかし、私には──そして、きっとヴァイアにも──それは、愛の告白のように思えた。
「ああ、もちろん──そのときは必ず君をみつけてみせるよ」
ヴァイアは、思わずといった様子で、素直なところを答える。その答えに、マインは満面の笑みを返して、きっとよ、と続ける。
「あ、でも、描いてくれるのなら肖像の方がいいのよ。私、絶対にあなたに描いてほしいの。あきらめないんだから」
言って、マインは挑むようにヴァイアをみつめる。
「描くよ」
「──え?」
突然のヴァイアの肯定に、マインは驚きの声をあげる。
「本当に?」
信じられぬ様子で問いかけるマインに、ヴァイアは何度も頷いて応える。
「やったあ!」
歓喜の声をあげて、マインは勿忘草の咲き誇る丘を、幼子のように飛び跳ねる。
「きれいに描くよ」
「あら、私はいつもきれいでしょう?」
と、マインはいたずらっぽく笑って。
それは、かつての二人のやりとり、そのままであった。
偶然という人もいるだろう。生まれ変わりなんてないという人もいるだろう。でも、私には──ソティスと同じ魂が、ヴァイアに素直な愛を伝えようとしているように思えてならないのである。
「ちょっと、どうして泣くのよ」
そして、それはヴァイアも同様なのであろう。彼は下唇を噛みながら、それでもこらえきれない涙に濡れて、いつかのように嗚咽をもらして、その場に膝をつく。
「マリオン、エルギスがおかしいの──って、何であなたまで泣いてるのよ!?」
マインは驚いて、大声をあげる。私は知らず、泣いていた。何でもないよ、と平静を装って返すのであるが──瞳からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれる。ああ、ソティス──だから、冒険のお話をせがんだんだね、と彼女の無邪気な笑顔を思い出して、しまいには年甲斐もなくわんわんと泣いてしまって──私もヴァイアも、ずいぶんとマインを困らせたのであった。
デクスの街──マインを家まで送るから、と目抜き通りを折れるヴァイアの背中を見送って、私も宿に戻るべく踵を返す。三日も帰らなかったから、きっと黒鉄もロレッタも心配しているであろう、と足早に通りを行き──いや、もしかしたらまったく心配なんぞしていないかもしれないな、と思い直して、いくらか歩調を緩める。
灯りの消えた目抜き通りは、すでにほとんどの露店が片づけられており、閑散としている。いくらかそのままになっている露店も、おそらく店主が酒場に繰り出して、今宵だけは祭りの余韻に浸っているからこそ、片づけが先延ばしになっているだけであろうから、明日には消えてしまうのであろう、と思う。祭りの後というのは、やはりどこかもの寂しい心持ちになる。
私は寂しさをまぎらわすために、胸もとのフィーリをなでる。そして、ヴァイアとソティス──遠い過去に引き裂かれた二人のことを偲び、もしも彼らが再び現世で出会えていたのなら、どんなにすばらしいことであろう、と先の丘での出来事を思い起こしながら、フィーリに尋ねる。
「ね、生まれ変わりって、本当にあるのかな?」
「──ありますよ」
尋ねる私に、フィーリは断言する。
「いつになく言い切るね」
「それはそうでしょう。だって、そうに決まっているのですから」
そして、旅具にしてはめずらしく、情緒を解したように続ける。
「だって──その方が、きっと素敵な世界でしょう?」
「勿忘」完/次話「鉄拳」




