5
豪奢な館の一室──物憂げな女性が窓の外を眺めている。窓辺には一輪挿しの花瓶が飾られており、健気に咲いた勿忘草が、窓から吹き込む風に、頼りなげに揺れている。
私は、窓の外を眺める彼女の後ろ姿を眺めている。彼女は私の存在に気づくこともなく、まるで何かを待っているかのように、ぼう、と外を眺めている。
私はソティスの足跡をたどっている──とすれば、たとえその顔は見えなくとも、彼女は領主の妾となったソティスなのであろう、と想像はつく。
やがて、部屋に近づく気配を感じて、私は家具の陰に身を隠す。さらには、真祖の外套で身体を覆って──こうしておけば、まず気づかれることはないのであろうが、それでも私は、念のため、と息をひそめて事のなりゆきを見守る。
扉を叩いて──しかしソティスの応えを待たずに、老齢の紳士が部屋に入ってくる。
『ソティス様、画家をお連れしました』
その風貌からすると、館の執事であろうか。彼は慇懃ではあるが、一方で無礼ともとれるような丁寧にすぎる態度でソティスに話しかける。その声音からは、敬意の欠片も感じられず──もしかしたら、ソティスは、妾であるから、と館のものからは疎んじられているのかもしれない、と思う。
執事は部屋に入って数歩で足を止めて、後ろに従う画家とやらに、中に入るようにうながす。
『画家でございます』
と、どこかで聞き覚えのある声が響いて、執事の後ろから現れたのは誰あろう──凛々しき青年となったヴァイアであった。
執事が、やはり慇懃にすぎる態度で部屋を辞すると、ヴァイアはおもむろに口を開く。
『ソティス様、ずいぶんとおやつれになって──』
ヴァイアの言葉は執事のそれとは対照的で、敬意こそ示してはいるものの、その口調はやわらかく──彼女のことを、領主の妾としてではなく、ともに暮らしたソティスとして見ているであろうことがうかがえる。
『ヴァイア──あなたはたいそう腕のよい画家であると聞いています。絵画の中だけでよいから、私を美しく描きなさい』
ヴァイアは旧交をあたためるように語りかけているのであるが、ソティスにはそのつもりはないようで──彼女は領主の妾として、冷たく彼に命ずる。
『ご冗談を。ソティス様は昔から変わらずお美しくていらっしゃる』
ソティスの命に、ヴァイアは世辞ともとれるような言葉を返す。
『──嘘ばかり』
その世辞は、どうやらソティスの心を動かしたようで、彼女はやつれた自らを恥じるようにうつむいてみせる。
『私はソティス様に嘘は申しません』
ご存知のはずでしょう、とヴァイアは明言して──そして、おもむろにソティスを描く準備を始める。
『ソティス様は、お幸せでしたか』
ヴァイアは画架を立て、画材を並べながら、何でもない世間話のように問いかける。
『ええ、領主様のもと、何不自由なく暮らしているのだもの。もちろん幸せよ』
ソティスは表情を変えずに、淡々と答える。
『ヴァイア、あなたは貧しい村の生まれなのでしょう。あなたこそ、幸せだったのかしら』
ソティスは、ヴァイアの質問をそのまま彼に返す。自らが領主の妾となることで、村は──そして、ヴァイアは救われたのであろうか、と彼女は問うているのである。
『ええ、幸せでしたよ。村は貧しいながらも、飢饉を乗り越えることができましたし──私は、あなたに嫌われてからもずっと、一度もあなたの愛を疑ったことなどないのですから』
『──不敬ですよ』
ヴァイアの大胆な発言に、ソティスは叱責を返す──が、その頬が朱に染まっているのは、私の見間違いではあるまい。
『失礼いたしました。絵描きの戯言にございますれば』
ヴァイアにもそれがわかったのであろう、彼は思わずといった様子でほころびながら、仰々しく返して──そして、二人の間に、いつかのように穏やかで、愛おしい時間が流れ始める。
『では──きれいに描きますよ』
『あら、私はいつもきれいなのでしょう?』
ヴァイアの言葉に、ソティスはいたずらっぽく笑って。
それは、絵を描く間だけの、密かな逢瀬であった。
二人はほとんど口を開かず、ただ向かいあっているだけであるというのに、それはどれほど濃密な会話であろう、と思う。
ヴァイアは画布に向かいながら、ソティスをみつめる。彼は、彼だけが知る彼女の美しさを画布に写しとろうとするかのように、細かに絵筆を動かす。
ソティスは窓の外を眺めたまま、しかしヴァイアの視線を感じるたびに、わずかに口もとをほころばせて──時折、幼い頃のように、彼に純朴な愛の視線を向ける。
幾日もかけて、幾日もの逢瀬を経て、描きあげられたのは──はたして、私の知る、あの絵画であった。
私は、その絵に塗り込められた魂が、二人のものでなければよい、とずっと願っていた。しかし、その願いはかなわないのであろう。部屋に押し寄せる気配を感じて──私は、やがて訪れるであろう悲劇に身を備える。
『ソティス様──いやさ、ソティス!』
扉を叩くこともなく勢いよく開いた執事は、これまでの鬱憤を晴らすかのように、ソティスの名を呼び捨てる。
『領主様に救われたる身でありながら、画家と不義をはたらくとは!』
執事の言葉に、ヴァイアもソティスも──そして、私までもがあっけにとられる。絵を描くことは、いつから不義となったのであろうか。
『お待ちください! 私とソティス様に不義の疑いなどとは、とんでもない誤解でございます! 私はただ絵を描いていただけにございますれば──』
『言い訳は無用!』
執事は怒声を放つ。
『貴様らがともに暮らしておったは、すでに調べがついておる。領主様に救われた恩も忘れて、ぬけぬけと昔の男を呼び出すとは、言語道断!』
執事が合図をすると、彼の後ろから、領主の私兵と思しき集団が、わらわらとわいて出る。私兵はすでに剣を抜いており──この場でヴァイアとソティスの両名を弑さんという領主の意思がみてとれる。
私は抑えようのない憤りを覚える。確かに、ヴァイアとソティスは、心の底では互いに愛し合っているのかもしれない。しかし、二人の間には──ずっと見ていた私が保証する──何一つやましいことはなかったのである。傲慢な領主は、心の奥底にそっと愛を抱くことさえ許さぬというのであろうか。ソティスの心までを支配して、屈服させたいというのであろうか。ほんのわずかな心の自由こそ、二人に残された、たった一つの希望であるというのに。
「マリオン!」
今にも飛び出そうとする私を、胸もとのフィーリが制止する。
「マリオン、ここは絵画の中の世界──何ものかの心象風景にすぎないのです。ここで二人を救ったとて、過去が変わることはありませんよ」
フィーリは諭すように告げるのであるが──そんなことは知ったことではない。
「たとえ何も変わらないとしても──目の前の悲劇を、私は見過ごすことはできない」
言って、私は家具の陰から飛び出す。そのまま疾風のごとく駆けて、憎たらしい執事の足を払って転ばせて──疾風のブーツで蹴り飛ばさなかっただけ感謝してほしいものである──ヴァイアたち二人と私兵との間に割って入る。
『何だ! 貴様は!』
突然の闖入者に、私兵の一人が誰何の声をあげる。
『通りすがりの蛮族さ』
答えて、私は私兵に相対して構えをとる。
『──お姉ちゃん?』
ヴァイアが驚きの声をあげて──私は、彼が私を覚えていることに驚きながらも、胸を叩いて笑顔を返す。
『お姉ちゃんは強いんだ。任せなさい』
『小娘風情が──!』
先頭の私兵が吠える。舐めるなよ、とでも続けたかったのかもしれないが、言い終えるのを待つほど私は優しくはない。
疾風のごとく、床を、壁を、天井をも蹴って、縦横無尽に駆けめぐる。唖然とする私兵たちは、私を目で追うこともできない。私は、四つ身に分身して、それぞれから風撃を放って、次々と私兵を吹き飛ばしていく。壁に打ちつけられた私兵は、うめきながらその場にうずくまり、立ちあがることもできないようで──私は、口ほどにもない、と鼻を鳴らす。
『ソティス!』
私を勝利の余韻から引き戻したのは、ヴァイアの悲痛な叫びであった。慌ててソティスのもとに駆け寄り──その惨状に言葉を失う。
「──そんな」
ソティスは、私兵の刃で無残にも胸を貫かれており、一目で助からぬことがわかるほどの傷を負っているのである。私は私兵を討ちもらしてなどいない──ソティスには指一本、触れさせていないはずであるというのに。
「フィーリ! 命の水を──」
「──マリオン」
うろたえる私に、フィーリは優しく語りかける。
「その一撃は、実際の過去に彼女に訪れた致命の一撃です。マリオンがどれほど奮迅しようとも、その一撃を止めることはできないし、どのような神薬であっても、その傷を癒すことはできないのです」
フィーリは、あなたのせいではありません、と私をなぐさめるように続ける。それでも私は、今から訪れる悲劇を前に、どうすることもできない己の無力さに、下唇を強く噛みしめる。
『──お姉ちゃん、本当に強かったんだあ』
ソティスは小さくつぶやいて、まるで出会ったときのように──幼い少女のように私に笑いかける。
『冒険の話、全部本当なのね。私、もっとお話、聞きたかったのに』
『続きはまだまだたくさんあるんだ。いくらでも話してあげるよ』
私は努めて明るく返す。もしも涙をこぼしたら、それだけで彼女の命もこぼれ落ちてしまうように思えてしまって──私は必死に涙をこらえる。
『本当に? うれしいなあ』
約束だよ、とソティスは力なく続ける。
『ヴァイア──』
『ソティス──もう話さなくていい』
一言を発するごとに、その命を削っているようなソティスの様に、ヴァイアは耐えることができなかったのであろう。彼の名を呼ぶ彼女を制して、その身体を抱きしめる。
『──私、生まれ変わったなら、花になりたいな』
と、ソティスはヴァイアの制止を聞かず、窓辺の勿忘草をみつめながら、言葉を重ねる。
『花になれば、あなたに嘘をつかなくてもいいし──あなたにいくらでも愛でてもらえるもの』
ソティスは、何か大事なことを伝えようとしている。そう思って、私とヴァイアは、一言一句、聞きもらすまい、と彼女の言葉に耳を傾ける。
『それに花に生まれ変わっても──あなたなら、きっと私をみつけてくれるでしょう?』
それは、他愛のない問いかけであった。しかし、私には──そして、きっとヴァイアにも──それは、愛の告白のように思えた。
『ああ、ああ、もちろんだ。必ず君をみつけてみせる』
だから死ぬな、とヴァイアは嗚咽をもらしながら、ソティスの身体をさらに強く抱きしめる。
『私を──忘れないで』
そう、小さくつぶやいて──ソティスの身体から力が抜ける。
『──忘れない。絶対に忘れないよ』
ヴァイアは、すでに動かぬソティスに、優しく語りかけるように返して──そして頬をすり寄せる。
私には、ヴァイアにかける言葉がみつからなかった。私は下唇を噛んで、彼の慟哭の響き渡る中──ただ、ともに悲しみに身を浸す。




