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次の瞬間──私は丘を見あげる村に立っていた。
デクスの前身であろう名も知らぬ村は、貧しく、見るからに飢えていた。
通常、農民は自らの生産した食料を備蓄するよう努める。また、仮に個々の備蓄が十分でなかったとしても、飢えることだけはないように、農村の中で相互に扶助しあうはずである。
それにもかかわらず、村は飢えている。それはよほどの不作に見舞われたか──もしくは、よほど地代が高いかのどちらかであろう、と思う。
私の目の前には、一軒の家がある。村の中ではもっとも大きいであろうその家は、しかしそれでもみすぼらしいと形容するのがふさわしいほどに荒れ果てている。
家の鎧戸は開け放たれており、窓からのぞく部屋には、老爺と女性の姿が見える。私は遠間から、二人の会話に耳をそばだてる。
『ソティス、村のためなんだ。わかってくれ』
村の長であろうか、よくもまあこれほど長生きしたものだと思えるほどの皺だらけの老爺が、目の前の女性に語りかける。ソティスと呼ばれたその女性は──しかし私の知る少女の姿ではない。
『私が領主様の妾になれば、みんな幸せになれるのよね?』
そう返すソティスは──見目麗しき乙女へと成長していたのである。男を虜にするであろうほどの美貌──そして、その美貌とは相反するがごとき純真で無垢な様は、彼女に妖しいほどの魅力を感じさせる。
『そうだ。村のものも、ヴァイアも──そしてお前自身も、きっと幸せになれる』
老爺はソティスを諭すように続ける。その言葉からするに、村はどうしようもないほどに飢えており、ソティスが領主の妾となることで、何とか命をつなごうとしているのであろう、と思う。領主は、彼女の身と引き換えに、村に課せられた地代や賦役を免除すると約束しているのかもしれない。
村の弱みにつけ込んで、乙女を手込めにしようとは。リムステッラでも聞かぬ話ではなかったが、好色な領主の蛮行というのは、いつの時代も、どんな場所でも、なくならぬものなのであるなあ、と私は不愉快になる。
『──ちょっとだけ、考えさせて』
ソティスはつぶやいて、老爺の家を後にする。
丘の上の家に戻るソティスの足取りは重い。それも仕方のないことであろう、と思う。村のために領主に身を捧げることを選べば、ヴァイアのもとを離れなければならなくなるのである。二人の幼い幸せを思い出して──私にとっては、つい先ほどのことなのである──彼女に気づかれぬように後を追う私の足も、自然重くなる。
ソティスは無言で家に入る。私も、久しぶり、とでも言って、後に続いてもよかったのかもしれないのであるが、これから中で交わされる会話を思うと、そうやっておどけることもためらわれて──私は家の外壁にもたれて、二人の会話に耳を澄ます。
『ヴァイア──あなたに嘘をついたら、私のことを嫌いになる?』
ソティスは、彼女を出迎えたヴァイアに、不意に尋ねる。
『嘘なんて、しょっちゅうついてるじゃないか』
ヴァイアは、何を今さら、と笑って。
『僕が君を嫌いになることなんてないよ』
と、何はばかることなく素直に返す。幼い頃はあれほど照れていたというのに、今やソティスへの愛をあけっぴろげに示すとは──いやはや、男子の成長たるや著しいものであるなあ、と私は成長したヴァイアの顔を想像して微笑む。
『じゃあ──私のことを嫌いになってってお願いしたら、私のことを嫌いになる?』
『変なことを聞くなあ』
ソティスは神妙に問うのであるが、ヴァイアは笑って答えようとしない。
『答えて』
そう迫られて──ヴァイアもソティスの様子がおかしいことに気づいたのであろう。
『──ソティスがそんなことをお願いするからには、何か理由があるんだろう、と思う』
彼は真摯に、ぽつり、ぽつり、と彼女の問いに答え始める。
『でも──僕は決してソティスを嫌いになったりしないよ』
『そう──』
ソティスは、ヴァイアのその答えに、安心するように息をついて。
『じゃあ──私のことを嫌いになってね』
言って、ソティスは──微笑んだのかもしれない。それは私からは見えないのであるが、彼女ならきっとそうしたであろうと思って、私は胸を締めつけられるような、やりきれない思いになる。
『さようなら』
別れを告げて、ソティスは丘の家を出て──そして、二度と戻ることはなかった。




