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『──!』
少女の声で目を覚ます。
私は草むらに寝転んでおり、夕映えの空を見あげている。つい先ほどまで昼であったというのに、私は日が傾くほどに意識を失っていたのであろうか、と思いをめぐらせたところで──その違和感に気づく。
『──!』
少女は繰り返し私に呼びかけているのであるが、その意味するところが理解できないのである。公用語ではない言語──語の響きからするに、もしかすると古代語なのではないかと思い至り、フィーリに訳を頼む。
『お姉ちゃん! 起きて!』
はたして、少女は古代語を用いていた。少女の呼び声に応えて、私はその場に立ちあがる。
『もう! すぐに夜になるんだから、こんなところで寝てたら、風邪ひいちゃうよ!』
少女は腰に手をあてて、めっと叱るのであるが──私にはそれに答える余裕はなかった。
私は丘に立っていた。見渡す山稜の形を見るに、デクスの郊外の丘であることに間違いはないはずである──にもかかわらず、景色は一変していた。丘に勿忘草はなく、大河にかかるクウィンタリナ大橋もない──いや、それどころか、デクスとシニスの街もなく、あるのは丘の下の小さな村ばかりなのである。
「時を──遡った?」
私は胸に抱いた疑念を口にする。
「いいえ──おそらく、絵画の中に取り込まれたのではないかと思います。実際の過去をもとにした世界ではありますが、時を遡ったということではないでしょう」
おそらく、という前置きこそあるものの、フィーリは時を遡るよりも不可思議であろう推測を口にする。
「そんなことってあるの?」
「私にも初めての経験ですから、おそらく、としか言えませんが」
自信なさげな旅具に、私まで柄にもなく不安になってしまって。
「──次元回廊みたいなもの?」
いつぞや海神の次元回廊にとらわれたことを思い起こしながら、フィーリに尋ねる。
「いいえ、あれは神ごときものでなければなしえない業です」
フィーリは私の質問を即座に否定する。
「あの絵画には、誰かの魂のごときもの──それこそ世界をつくりあげるほどの情念がこもっていて、私たちはその心象風景にとらわれているのではないかと思います」
「そうは言ったって、見た感じには次元回廊と変わらないように見えるんだけど」
言って、私は再び丘からの風景を見渡す。眼前に広がるのは、世界そのものである。空を染める落陽も、頬をなでる夕風も、明らかな質感をともなっており──これが誰かの心象風景にすぎないとは、とてもではないが思えない。
「どうすれば出られるの?」
「弓の封印を解いて世界を穿てばすぐにでも出られるでしょうが、そうでなくとも絵画にこめられた魂の心象風景が途切れるところで抜け出せるはずです」
星を穿つものは、世界の境界をも穿つ──が、その力ははかり知れず、絵画の外の世界にも影響が出かねないことを思うと、おいそれと封印を解く気にもならない。
「待っていれば出られるってこと?」
「おそらくは」
フィーリの答えは、先と変わらず曖昧なものであったが、何もしなくとも待っていれば出られるというのであれば、その方がよかろう、と判断する。
『お姉ちゃん、何て言ってるの?』
私とフィーリが相談している間、隣で話を聞いていた少女は、首を傾げながら問いかける。なるほど、少女には、遥か未来の公用語は──はて、今は蛮族語であろうか──理解できまい。私はフィーリに訳を頼みながら、たどたどしい古代語で少女に返す。
『独り言だよ』
『変なお姉ちゃん』
少女の感想に、さもありなん、と頷く。あれほど長い独り言など、私もついぞ聞いたことなどないのであるから。
『もう日が暮れるのに、帰らなくてもいいの?』
私は苦しまぎれに、わざとらしく話題を変えて、少女に問いかける。
『帰るよ。私のおうちはそこだもの』
言って、少女は私の後ろを指す。振り向いてみると──そこには、私の記憶の中にあるものと、寸分違わぬ家が建っていた。
『ただいま!』
『おかえり』
少女の快活な声に、少年がぶっきらぼうに答える。少年の、その年頃にありがちな、家族への愛情をあらわにすることを恥ずかしく思うような出迎えは、しかし彼のやわらかい表情によって、途端にあたたかなものとなる。
『その人は?』
少女の後ろに続く私を認めて、少年はいぶかしげに尋ねる。
『迷子のお姉ちゃん』
『迷子です』
私の言い訳を素直に信じる少女に紹介されて、私は慇懃に辞儀をする。
『──入りなよ』
少年は、私の手を取って離さない少女を見て、仕方ない、と溜息をついて──私を家に招き入れてくれる。
少年はヴァイア、少女はソティスと名乗り、私を歓待してくれた。二人は相当に貧しいようで、爪に火を灯すがごとき生活なのであろうに、それでもなお私を助けようとしてくれたのである。二人はともに優しく、善良なのであろう、と微笑ましく思う。
私は旅の蛮族であり、古代語が苦手である、という設定のもと、フィーリに訳してもらいながら、二人と会話をする。
『二人は兄妹なの?』
『違うよ。僕らは二人とも孤児なんだ。ま、兄妹みたいなものと言われれば、そうかもしれないけどね』
ヴァイアは夕食の片づけをしながら──その間、私はソティスの相手をしているのであるからして、怠けているわけではないのである──私の問いに答える。私は、なるほど、と頷くのであるが、一方でソティスは頬をふくらませて、不満顔で割って入る。
『兄妹なんかじゃないよう。私とヴァイアは夫婦なの』
『そうなの!?』
あどけない顔で大胆な発言をするソティスに、私は驚きの声をあげる。
『そんなわけないだろ!』
と、ヴァイアは慌てて否定するのであるが。
『そうだよ!』
ずっと一緒だもん、とソティスはヴァイアに抱きついて──ヴァイアもまんざらではないのであろう、いくらか嫌がるそぶりはみせつつも、あえては引き離そうとはしない。
何と愛らしい二人であろう、と思う。ソティスの純朴な愛を、ヴァイアは照れながらも拒んだりはしない。この幼い幸せが、ずっと続いてくれたなら、どれほどよいだろう、と願う。
しかし、そうはならないであろうことを、私は知っている。二人がこのまま幸せに暮らしたのであれば、私はここにはいない──誰かが絵画に情念を塗り込めるようなことにはならなかったはずなのである。
二人の厚意に、お礼にもなるまいが、とは思いながらも、私はマインにそうしたように、自らの冒険譚を話して聞かせる。
私の拙い古代語では聞き取りづらいであろうに、それでもソティスは、それから、それから、と続きをうながしながら、夢中になって冒険譚に聞き入る。それほど興味を示してもらえると、話し手としても興が乗るというもの。結局、私は夜が更けるまで語り続けて──例によって喉を枯らすこととなる。
『明日、またお話聞かせてね! きっとよ!』
まぶたをこすりながらも、まだ寝ない、と駄々ををこねるソティスに、必ず続きを話して聞かせるからと約束して、何とか寝かしつけて──私も彼女の隣で眠りに落ちる。




