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階段をのぼって扉から外に出ると、ちょうど朝日が昇るところで──曙光に照らされると、不快な粘液にさらされた身体まで浄化されるような心持ちさえして、私は大きく伸びをする。
「さて、これで二つの街の諍いは片づくだろうねえ」
言って、老エルフは私と同じく伸びをして──そうであった、どちらの街に否があるということもなく、穏便に片がついたのだ、と私は安堵の胸をなでおろす。
「いや──まだ片づいておらん」
と、黒鉄が告げたのは、そのときであった。
「儂とぬしとの決着がついておらん」
「しつこい男は嫌われるよ」
再戦を望む黒鉄に、老エルフはすげなく返す。
黒鉄は、おもむろにフィーリから巨人の斧を取り出して、億劫そうな老エルフの前に立つ。そして、気を吐いたかと思うと、老エルフに演武を披露するがごとく、まるで棍でも扱うかのように斧を振りまわしてみせる。その切っ先は暴風のごとく老エルフの眼前に迫り──彼女は脅えるどころか、ほう、とその目を輝かせる。
「あんた、とんでもない剛力だねえ」
言って、老エルフは小さく手を叩いて、黒鉄の演武に称賛の意を示す。
「まともに腕押しをやっていたら、勝てなかっただろうねえ」
「──それを理解できるのであれば、それでもなお負けた儂の憤懣も理解できるはずであろう」
黒鉄は斧の石突で橋を叩いて、いつになく真剣に語る。それは戦士の誇りに向けての真摯な語りかけであり、老エルフといえども茶化すことはできぬ武人としての会話であった。
「──いいだろう」
言って、老エルフは曲刀を鞘から抜く。
「あんた──よく見ると、いい男だよ」
「手出しは無用」
黒鉄は念を押すように言って、巨人の斧を手にして、橋の中央に立つ。もともと手を出すつもりもないのであるが、私とロレッタは素直に橋の欄干まで下がる。
正直なところ、私の見立てでは、黒鉄の方がやや分がわるい。ただでさえ相性のわるい相手であるというのに、そこにきて老エルフのあの技量である。黒鉄に勝機があるとすれば、その剛力をもって、老エルフの技量を封じることであるが──それがいかに難しいことであるかは、老エルフと対峙している黒鉄にこそ、よく理解できていることであろう、と思う。
「いざ、尋常に──」
勝負、と叫ぶと同時に、黒鉄は巨人の斧を横薙ぎに振るう。その剛力による一閃は、しなりながら老エルフに襲いかかる。しかし、その一撃を──エルフの細い身体などたやすく打ち砕いてしまうであろう一撃を、老エルフは微塵の恐怖も見せずに紙一重でかわして──ふわりと飛んで、欄干に立つ。
「剛力は大したもんだが、当たらなければどうということはないねえ」
「ほざけ!」
吠えて、黒鉄は次々と斧を振るうのであるが、老エルフはそのたびに舞うようにかわしてみせて──ついには、あろうことか、振りおろされた巨人の斧の柄に立って、挑発するように黒鉄の顔をのぞき込んでみせる。
「こんの──長耳婆!」
黒鉄は老エルフを振り落とさんと巨人の斧をはねあげるのであるが。
「長髭爺にそんな呼ばれ方をするのは心外だねえ」
老エルフはすでに斧の柄から降りており、さらにずいっと顔を突き出して、黒鉄の耳にふっと息を吹きかける。
「ぬしに爺と呼ばれる筋合いはない!」
半ば本心からであろう、黒鉄は怒声を返しながら、再び巨人の斧を振るう。老エルフは先と同じく、その暴風のごとき一閃を、ふわりと飛んでかわして──黒鉄の一撃は、その勢いのまま、橋の上層を支える柱を打つ。数十ある柱のうちの一つであるから、仮にそれが折れたとしても橋が倒壊するようなことはないはずなのであるが、それでも橋桁が震えたように思えるほどの衝撃で、私は思わず欄干に手をつく。
黒鉄の打ち込んだ箇所は、私の位置からは死角になっていてさだかではないのであるが、あれほどの勢いで打ち込んだとなると、斧頭は相当に深く柱に食い込んでいるであろう、と思う。黒鉄ほどの剛力であれば引き抜くこともできるであろうが、それは致命的な隙ともなろう。
「これで、勝負ありだよ」
老エルフにもその理屈がわかっているのであろう、彼女は着地と同時に黒鉄に告げる。
「──そうかの」
返して、黒鉄は不適に笑ってみせて──柱に食い込んで動かぬはずの斧を、痛痒なく返して振るう。
なるほど、巨人の斧は片刃である。黒鉄は打ち込む寸前に斧頭をくるりとまわして、柄で柱を打っていたのであると悟って──力任せではない戦士の駆け引きに感嘆して、私は思わず拳を握りしめる。
老エルフは、埒外から襲いくる巨人の斧を、それでもかわしてみせるのであるが、今度ばかりは紙一重とはいかず、彼女の長い髪の先が、はらりと宙に舞う。その一撃は、老エルフにとっては、よほど信じがたいことであったのだろう。彼女は笑みを消して、真顔で黒鉄に向き直る。
「──侮っていたことを詫びる」
告げて、老エルフは曲刀を肩にかつぐようにして、初めて構えをとる。
それだけで──たった、それだけで、周囲の空気は凍りついた。
ひりつくような緊張が場を満たし、息苦しさを感じるほどに空気は重くなる。隣のロレッタなど胸を押さえて膝をついているほどであるから、老エルフの前に立つ黒鉄に至ってはどれほどの武威にさらされているものか、想像もつかない。
黒鉄は額に汗を浮かべながらも、獰猛な笑みをも浮かべて、一歩、また一歩と老エルフに近づく。そして、ようやく巨人の斧の間合いまでたどりついたところで──自らを勇気づけるかのように咆哮する。
「おおお!」
黒鉄は巨人の斧をまるで棍でも扱うかのように振りまわして、暴風のごとく老エルフに襲いかからんとする──まさにそのとき、老エルフは、いつぞやの腕押しの際のごとく、ぬるりと黒鉄の刹那に割って入る。
「我が秘剣、見事受けたならば『不倒』を名乗るがよい!」
吠えて、放たれた秘剣は、神速の一閃であった。しかし、黒鉄もさるもの、先に放った暴風をもって、その一閃を打ち落とさんとして──そして、私は信じられないものを見る。老エルフの曲刀は、巨人の斧をすり抜けて──文字どおりすり抜けて──黒鉄の胴を襲ったのである。曲刀は黒鉄の鎧を──古竜の鱗をもやすやすと斬り裂く。
「黒鉄!」
このままでは黒鉄の腹までも斬られてしまう、と私は手出し無用の約束を違えて、駆け出さんと足を踏み出す。
「──ぬうん!」
しかし──足を踏み出したのは、黒鉄も同様であった。腹を斬られながら、退くのではなく、さらに前に踏み込んだのである。曲刀は黒鉄の腹を裂き、そこから臓腑がのぞいているというのに、黒鉄は意にも介さず老エルフに突進する。彼女はまともに体当たりを受けて、欄干まで吹き飛んで、受け身もとれずに、したたかに身を打ちつける。黒鉄は斬り裂かれた腹を手で押さえて、その場に膝をついて──私は慌てて、疾風のごとく駆け寄る。




