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深夜、草木も眠るような静寂の中、私たちはクウィンタリナ大橋を渡る。件の魔法具の見張りがいなくなるようヴィジルが衛兵に手引きしたからこその深夜の道行であるが、夜明けには見張りが戻るというから、それほど余裕があるわけでもなく、私たちは足早に闇を行く。
クウィンタリナ大橋は、実際に渡ってみると、想像よりもさらに大きな橋であった。橋に敷き詰められた石畳など、その一つひとつが私の身長よりも大きなほどで、さすがにこれほど巨大な石となると魔法でなければ切り出せぬであろうから、今ではどんな偉大な王であってもつくることのできぬ橋なのである、と私は感慨深く敷石を踏みしめる。
見あげる上層は水の道であるからそれほど幅はないのであるが、人の道である下層は馬車が二台すれ違ってもなお余裕があろうほどで──これほど巨大な橋が、古代より今に至るまで、両岸をつないで人々の暮らしを支えていようとは、実際に目にしてもなかなかに信じがたいものがある。
橋の半ば、上層を支える大きな柱のたもとまで差しかかったところで、私は足を止める。
「──待って、誰かくる」
言って、私は後ろに続く黒鉄とロレッタを手で制する。足音はない。しかし、対岸──デクスから、確かに覚えのある気配が近づいてくる。
「フィーリ」
敵ではないと判断して、私は旅具の名を呼んで──周囲は魔法の灯りに照らされる。
「おや、奇遇だねえ」
私たちの姿を認めて、人影は親しげな声をあげながら、フィーリの灯りに近づいて──照らし出されたのは誰あろう、ベルフィデの酒場で相まみえた老エルフであった。
「再戦を希望するというのなら、儂の準備はできておるぞ」
黒鉄は依頼も忘れて息巻くのであるが、老エルフにはその気はないようで。
「ははあ、あんたらも、水道橋の魔法具の調査を頼まれたんだろう?」
彼女は黒鉄の誘いを無視して問いかける。
老エルフの言葉に、私はしばし思案して──なるほど、水はどちらの街でも減っているのであろう、と思い至る。その上で、シニスはそれをデクスの仕業と思い込んで私たちに調査を頼み、デクスはシニスの仕業と思い込んで老エルフに頼んだ。それでは、どちらの仕業でもないとすれば、いったい水道橋の魔法具に何が起きているというのであろうか。
「嬢ちゃんは話がわかりそうだねえ」
老エルフは私を見て、にっと笑って。
「まずは、互いの依頼をこなそうじゃないかね」
言って、有無を言わさず、彼女は私たちの一行に加わる。
クウィンタリナ大橋の下層には、上層を支える柱が並んでいる。そのうちの一つ、一際大きな柱に、錆びた扉がある。本来であれば、領主の衛兵が見張りとして立っているはずなのであるが、今は誰もいない。それぞれの街の自警団が、それぞれの依頼のために互いを排除しようと画策した結果であろう、と思う。
私たちはヴィジルから預かった鍵で扉を開く。奥に灯りはなく、私たちを闇に誘うように、螺旋状の階段が上下に伸びている。階段は細く、とてもではないが巨人の斧を持ち歩くことはできそうもなく、黒鉄はフィーリに斧を預ける。
フィーリの灯りで周囲を照らして──私を先頭にして、一行は階段を下りる。念のため、と竜鱗の短剣を抜いて前を行く私を、後ろに続く老エルフはどこか楽しそうに見守っているようで──何ともやりにくい婆さんであるなあ、と私は小さく溜息をつく。
階段は幾度も円を描きながら、深く、さらに深く地中に潜っていく。どこまで下りても底にたどりつかぬ階段に、私はいつぞやの奈落を思い起こして、まさか水源には死霊が巣食っているのではあるまいな、と愚かな想像をして──自らの想像を払いのけるように首を振る。
やがて、水源が近づいたのであろう、かすかな水音が耳に届いて──私は歩みを緩めながら、竜鱗の短剣を握る手に力を込める。
階段を下りた先には、こんこんと水のわき出る泉があった。
フィーリの灯りに照らされた湧水は、土砂でも含んでいるものか、薄く濁っているのであるが、その流れの先にある石に触れると、瞬く間に濾過された真水のように透きとおる。
泉の中央には円筒状の人工物が屹立している。浄化された水がその円筒に吸い込まれていく様を見るに、清水はここから橋の上層までのぼり、両岸に流れていくのであろう、と思う。
驚嘆に値する魔法具の神秘を前にして──しかしながら、私たちにはそれに驚く余裕はなかった。
「何──これ?」
眼前の光景に、ロレッタが呆然とつぶやく。
円筒には、玉虫色に光る粘液がからみついている──いや、単なる粘液ではない。それは粘液状の表面に無数の目を浮かべて、私たちを眺めながら瞬いているのである。この世のものとは思えぬおぞましさに、私は思わず、ぶるり、と震える。
「ここなら清水を飲み放題だからねえ」
のんきにつぶやいたのは老エルフだった。見れば、粘液は円筒にからみつくように蠢き、どうやら老エルフの指摘のとおり、上層に運ぶはずの清水を飲んでいるのだとわかる。
「水の量が減るはずだよ」
言って、老エルフはおもむろに曲刀を抜いて。
『──』
粘液はその剣呑な空気を敏感に察知したのであろう、何やら不可解に鳴きながら、その身を広げて私たちに迫る。
いつもであれば黒鉄に任せるところであるが、この狭さでは巨人の斧を取り出しても振るうことはできまい。ロレッタにしても、閉ざされたこの場で爆炎でも唱えようものなら、全員仲よく黒焦げになってしまうであろうから──と、私は皆の前に出て、竜鱗の短剣を構えて、粘液を迎え撃つ。
自在に形を変えながら迫る粘液の一端を、私は竜鱗の短剣で斬り払う。しかし、粘液は斬撃にあわせるようにさらに形を変えて、短剣には一切の手応えがない。それならば、と私は背中の矢筒から旅神の矢を取り出して、矢じりで粘液の目の一つを穿つ。さしもの粘液も、旅神の矢じりを弾くことはできなかったようで、どこからともしれぬ甲高い叫び声をあげて──私は思わず顔をしかめる。
「嬢ちゃん、あんたやるねえ」
老エルフは口笛を吹いて──そして、おもむろに私の隣に並んで。
「でも──あたしもやるのさ」
言って、老エルフは曲刀を突き出す。それは、神速の突きではなく、多段の突きでもない、無造作に曲刀を突き出しただけの何の変哲もない突きであった──にもかかわらず、私はその突きが粘液を貫くまで、突いたのだということさえも認識できなかった。気づいたときには、すでに曲刀は粘液を貫いていたのである。一切の予備動作を省いた突きは、知覚を許さぬ必殺の一撃であった。
老エルフに突かれて、粘液はその動きを止め、すべての目を閉じて──やがて、どろりととけるように崩れる。老エルフはたったの一突きで、奇怪なる粘液を屠ったのである。
粘液であったものは泉に広がり、水は玉虫色に染まるのであるが、そこはさすがの魔法具、粘液の死骸をも浄化して──透きとおるような清水が、勢いよく円筒に吸いあげられていく。
「いったい──あの粘液は何じゃったんじゃ」
黒鉄はつぶやいて、足もとに残る粘液を気味わるそうに蹴り飛ばす。
「あんたら、北方は初めてかい?」
老エルフは曲刀を鞘におさめながら問いかける。
「北方には、今なお神秘が息づいている──それはつまり、古の魔物も息づいているということ。訳のわからない魔物に出会うなんて、ざらにあることさ」
老エルフは奇怪な粘液の残骸を顎で指しながら続ける。
「あたしは、普通の魔物相手じゃ物足りないから、北方にいるのさ。あんたらも、北方を行くのなら、さっきの粘液のように、見たことも聞いたこともないような古の魔物に出会うことを覚悟することさね」




