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奈落を行く。
奈落の探索は、意外なことに順調であった。私たちは奈落の外周に設置された螺旋状の階段をのぼる。しばらくのぼると、やがて階段は途切れて、そこからは私が先行して、奈落の外周を登はんする。万が一に備えて、ロレッタの糸を命綱として登はんに臨んだのであるが、奈落の外周は思ったよりも指がかかりやすく、私は何の苦もなく、するすると上にのぼる。
やがて、奈落は縦穴から横穴へと方向を転ずる。横穴までたどりついたところで、私はロレッタに合図を送る。ロレッタは私につなげていた命綱を操り、縄梯子となす。黒鉄は、その縄梯子を、意外にも身軽にのぼって横穴にたどりつき、最後に縄梯子ごとロレッタを引きあげて──合流した私たちは、さらに地表に近づかんと横穴を歩み始める。
横穴は緩やかに傾斜している。のぼり坂は、ほんの少しずつであっても地表に近づいているように思えるからであろうか、私たちの足取りは軽い。
「わ!」
と、隣を行くロレッタが不意に声をあげる。見れば、彼女は横穴の途中、浅いくぼみのようなとこでつまずいており、尻もちをついている。まったく、よそ見でもしていなければつまずくこともないようなくぼみであろうに、と溜息をつきながら、私は彼女を引き起こそうと手を伸ばす。
「いった──くない? あれ、何で?」
ロレッタは私の手をつかんで立ちあがりながら、独り言のようにつぶやく。確かに、私にも彼女がしたたかに尻を打ちつけたように見えたのであるが、打ちどころがよかった──などということがあるのだろうか、と不思議に思いながら、くぼみをのぞき込む。見れば、ロレッタのつまずいたくぼみには水がたまっていたようで、彼女はその水たまりに落ちたのであろう、と当たりをつける。
「マリオン、あの水をすくってください」
と、突然フィーリが私に命ずる。私の勘違いではない。明らかにフィーリは主に命令したのであるが──ま、そのくらいのことならば、と私はくぼみにおりて水をすくって、そこにフィーリを浸す。
「──命の水です!」
フィーリは水を自らの中に取り込んで興奮気味に叫び、次いで自らを水たまりに放るよう命じて──私は、はいはい、とぞんざいに返しながら、旅具を水たまりに落とす。
「それで、何の水だって?」
フィーリに取り込まれて干あがった水たまりから旅具を拾いあげて、私は尋ねる。
「命の水です! あらゆる傷、あらゆる病を治すという、世界樹の雫ですよ!」
まさかわずかなりとも残っているとは、と旅具の興奮はさめやらない。
「そんなにすごいものなの?」
「すごいなんてものじゃありませんよ。死人もよみがえると謳われるほどの神薬です。私ですら初めて目にするものですよ」
「それは──すごいね」
早口でまくしたてるフィーリに、ほう、とうなるように返しながら、私は旅具を首にかけ直す。
「何じゃ、ロレッタのやつ、そんなたいそうなもんで、打ちつけた尻を癒したというわけか」
「そういうことになりますね」
黒鉄とフィーリは、神薬で尻を癒したという響きがよほど滑稽に思えたらしく、二人して、はっはっは、と笑いあう。
「我々で回収できてよかった。まかり間違って死霊の王に回収されていれば、復活の糧となっていたかもしれませんからね」
ひとしきり笑ったところで、フィーリがまとめて。
「──ちょっと待って」
何かに気づきかけて、私は思わず声をあげる。
奈落が世界樹の根の跡だとして、そこに放逐された人々が二度と戻らないのは、なぜなのであろうか。彼らは、今の私たちと同様、奈落から抜け出すために、きっと地表を目指したに違いない──が、奈落においてそれは、世界樹の根元に近づく行為に他ならない。世界樹の根元には──何がある?
そこまで考えたところで、私の背筋に冷たいものが走る。
「二人とも、気をつけて!」
黒鉄とロレッタに呼びかけながら、私は横穴の先の闇──世界樹の根元へと続くであろう闇に向き直る。闇からは得体の知れない何かの這い寄る気配がする。何も見えぬ、何も聞こえぬというのに、名状しがたい狂気の気配が私の手に触れて──私は疾風のごとく飛び退る。
「マリオン!?」
フィーリが驚きの声をあげる。それもそのはず、私は膝をついて、肩で息をしているのである。どういうわけかはわからぬが、三日三晩狩りを続けたときでさえ感じたことのないような疲労で、全身を押し潰されそうになる。
「生命力を奪われたのです。あれは、死霊の王の──手です!」
フィーリの言葉に、眼前を見すえる。先ほどまで姿形はなかったというのに、死霊の手は今やその姿をあらわにして、私を嘲笑うように揺らめいている。なるほど、奈落におもむいたものが二度と戻らぬというのは、こういう理由であったのか、と今さらながらに納得して──私は震える脚に活を入れて立ちあがる。
「死霊の手がこんなところにまで及ぶとは──」
想定外です、とフィーリは焦りをあらわにする。
「──どうすれば倒せる?」
私はフィーリに尋ねる。死霊の王そのものではないとしても、その手である。不死の魔物であるとすれば、黒鉄は当てにはならないし──古城におもむくのをどれほど嫌がったか、思い出してほしい──ロレッタは論外であろうから、私がどうにかしなければならないのである。
「吸血鬼のときと同じです!」
フィーリの言葉に、私は古城への途上で聞いた不死の魔物の倒し方を思い出す。存在としての格が上であれば、不死の魔物を殺すことができる。
「フィーリ、命の水を」
私はフィーリを口にくわえて、そう命ずる。生命力を奪われたままでは、死霊の手を上まわる確信など持てようはずもない。まずは命の水で回復して、それから死霊の手を相手にする──そう考えての行為であったのだが。
「お、乙女がそのようなこと、はしたないですよ」
それはフィーリにとっては口づけのような行為であったようで──照れくさそうに返す旅具を、私は強く噛みしめる。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
フィーリを口にくわえたままであるからして、正しくそう発音できたかはさだかではないのであるが、発言の意図は伝わったようで、旅具は私の口内に命の水を放出して──私はそれを、ごくり、と飲みほす。
するとどうであろう。私の四肢には力みなぎり、戦意はこれ以上ないほどに高揚する。それは、もしかすると神ごときものとも戦えるのではないかと思えるほどの効能で──さらには、あふれた生命の力であろうか、私の身体はほんのりと輝いてさえいる。
死霊の手は、私の生命の力に気圧されるように怯んで、逃げるように宙を舞い始める。私は旅神の弓を構えて──死霊の手の脅える姿に、自らが奴よりも格上であることを確信して、唱える。
『貫け!』
放たれた矢は光りをまとって、さながら彗星のように飛ぶ。命の水の力によるものであろうか、いつもよりも巨大な彗星は、逃げるように舞う死霊の手を貫いて──奴は怨嗟の声をあげながら、蒸発するように消え去る。
しかし──事はそれで終わりではなかった。彗星はそのままどこまでも突き進み、奈落の天井を穿って大地を揺らす。それは奈落が崩落するのではないかと思えるほどの震動で、私たちは屈んで、互いをかばうようにして身を寄せあう。
やがて揺れが収まって、おそるおそる周囲を見渡す。幸いなことに崩落はなく、私はロレッタに肩を貸しながら立ちあがる。
「見て!」
と、ロレッタが声をあげる。見れば、旅神の矢の穿った穴には、地表からの陽光が射し込んでおり──私たちは顔を見あわせて、喝采をあげる。




