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疲労

 意識が浮上する瞬間に、目よりもまず先に鼻が妻の存在を捉えた。


 それから、なめらかで艶やかで、欲情もするのに落ち着く気もする肌触りが次にやってくる。目を開けば、腕の中に居るが背を向けている愛妻が目に入った。黙っているが、既に起きているのだろう。メルアが寝ている時は基本的にエスピラの方を向いて、懐の中で丸くなっているのだ。背中を向けて反応をしないのは大抵起きていて、気づかれたと思えば起きたフリをするのがお決まりである。


「まだ寝ているね」


 こう言えば、メルアは起きたフリをしないことは知っている。


 エスピラは手をメルアの前面に回すと、そのまま自身の方へ引き寄せた。

 途中、凱旋行進で授けられたマントが見え、ぐちゃぐちゃになった紫色の布も見える。


(十分に楽しんだしな)


 皺と染みで、そろそろ洗わないといけないだろう。


 月桂樹の冠は壊れないように遠くに投げ捨てており、履いていた紅いブーツも下に捨ててあるため衣服を洗って綺麗に干しさえすれば問題は無い。

 栄誉ある凱旋行進の衣服を、と言われても、四人も産んでくれたメルアの方が功績は大きい、と言うエスピラの言い分もある。


 不敬では無いと言い聞かせつつも心の中で神に謝って、エスピラはメルアの後頭部に顔をうずめた。

 そのまま、ゆっくりと最近は毎晩触れているやわらかい肢体に、手を這わせる。指の腹が埋まり、引っ掛かることなくスムーズに。時折、メルアの甘い吐息が漏れて。


「ねえ。我慢しなくても良いって、私言ったよね?」


 触りすぎたのか、メルアが棘のある声を出した。


「寝不足でね。まだ寝ていたい気持ちもあるんだ」


 すぐには返事が来ない。


 いつも先に寝ているのはメルアだし、先に起きるのもメルアだが寝たふりをしているため反論がすぐには思いつかないのだろう。


 代わりに、下半身がやや押し付けられる。


「ねえ。最近、寝室が同じ日が多すぎない?」


 話題が変わった。


「嫌か?」

「嫌」

「そうか。でも、今晩も来るよ」


 エスピラは手を止めて、メルアを後ろから抱きしめた。


「そう」


 抵抗は無い。声の棘も消えている。


 何より、メルアは大人しくエスピラの腕の中に納まっているのだ。


「旦那様」


 随分と籠りつつも切羽詰まった声が扉の向こうから聞こえてきた。家内奴隷の声である。


 返事をするために体を起こせば、左腕に痛みが走った。目を向ければ、エスピラの腕をメルアが噛んでいる。既に歯形が多くついているが、これでまた一つ増えてしまった。


「どうした」


 エスピラはメルアの頭を撫でながら家内奴隷に返す。

 メルアはその態度が気に食わなかったのか、さらに歯を腕に埋めてきた。


「旦那様が、訴えられたそうです」


 エスピラの手が止まる。呆けるよりも先にメルアの歯が血に塗れ、エスピラにとって裁判どころでは無くなってしまった。


「メルア」


 小声で言って、腕を動かし頬を撫でる。


「あら。他の女のところに行くのかしら?」


 口から血を滴らせて、メルアが冷徹な目を向けて来た。

 何を寝ぼけことを、とは思いつつも、エスピラは表情には出さないように気を付ける。


「そんな訳無いだろ」


 その間も、奴隷が「トリアンフ様が訴えて、被庇護者の皆さんが旦那様に質問をしようと待っていたのですよ」とか「既にアレッシア中で話題ですよ」とか「どうするんですか」とか言っていた。


 だが、エスピラとしてはそちらの優先順位は低い。


「ねえ、エスピラ。貴方は酒宴で大層人気があるそうね。クロッカスも、いつもたくさんもらっているのだとか」


 エスピラは目を背け、ため息を吐きたい衝動を奥歯を噛み締めることで防いだ。


(誰から聞いたんだ)


 誰からでも聞けることか、と脳内ですぐに返答が来る。


「私がクロッカスの通りに夜這いに行ったことがあると思うのか?」

「さあ。でも、エスピラ。忘れないで。愛人を持つことはアレッシアの嗜みだとしても、相手の承認があってこそ醜聞にならないの。ねえ、エスピラ。わたしの承認なしに、愛人を持てるだなんて思わないことね」


 メルアが血を舐め取りに来て、時折新たに出血させるべく噛みついてきて、治りかけのかさぶたを爪で剥がしたりしてきているのである。メルアを止めたり、口元を拭いてあげたり、これ以上凱旋行進で使った衣装に汚れが着かないようにするので精一杯だった。


「サジェッツァ様も来ております」

「少し待ってもらってくれ!」


 奴隷に大声で返しつつ、エスピラはメルアを押し倒した。


 腕をかわすように逃げるため掴むまでは時間がかかったが、押し倒す分には抵抗は無く。メルアが簡単にベッドの上で芸術的な裸体を露わにした。


「少し待てとは言いますが、サジェッツァ様は朝から来ておられます」

「今も朝だろ」


 エスピラはメルアの上に跨った。互いに衣服は無い。昨日の日暮れから着ていない。


「今は昼でございます。マシディリ様が、昼食を共にして接待しようと四苦八苦しているのですよ」


 エスピラの手が止まった。

 メルアの目も初めて扉の方へ行く。


「…………昼?」


 声が零れ、エスピラの目とメルアの目が合った。

 それから、二人して光が入ってきている方向を見る。


 アレッシア人は奴隷に仕事を任せてゆっくり過ごすのが普通だ。だが、午前中はあいさつ回りや仕事の指示もすることがある。どちらかと言えば午後にゆっくりするために働く可能性のある時間なのだ。


 もちろん、軍団に入ったり高官となって政治にかかわったりしていると話は違ってくることもある。


「昼です。何を呆けているのですか」

「マシディリが苦労している?」


 奴隷の声に被さるようにメルアが呟いた。

 エスピラはメルアの上から降りて、服を探す。今度はメルアも噛んでは来ずに、四つん這いでメルアも自分の服を探し始めた。


 もちろん、メルアに着せた凱旋行進の衣装ではない。普通の部屋着だ。


「待たせた」


 先に準備が終わったのはエスピラ。

 左手の革手袋はいつものように紐で巻きつけずにすぐに脱げる状態にしてある。


 とは言え、エスピラが先に終わるのも当然だ。エスピラが居る時はメルアの服はいつもエスピラが着せているのだから。


「サジェッツァ様は中庭に居ります」


 書斎じゃない、と言うことは本当に大分待っていたのだろう。


 エスピラは適当に身なりを確認してから中庭に向かう。


 少しばかり広い廊下に、石造りを隠さない床と壁。燭台に余計な装飾は無く、銀色一色に紋様が彫ってあるのみ。中庭へと至るアーチは高めだが、天井に絵画を描いているわけでは無い。ただただ石が並び、綺麗に煤や埃が取り除かれている。絨毯もシンプルに。程よい紋様のみ。


 中庭も同じ調子で、芝が生えているが花は少し。白と赤、黄の三色と葉っぱや茎の緑があるだけであまり派手さは無いように設計されている。


 その中庭に出された机で、サジェッツァとマシディリが向かい合っていた。

 粘土板を用いて、サジェッツァがマシディリの読む様子を聞いているようである。


(遊びたい盛りだろうになあ)


 一歳違いの次男クイリッタは、したくないことがあればその場に寝ころび決して起き上がろうとしないのに、マシディリは去年もそんな様子は無かった。


 そこは、少しだけ不安要素である。


 サジェッツァの顔が上がった。マシディリがそれに気づいたように顔を上げ、振り返る。


「父上!」


 喜色満面の笑みでマシディリが叫び、椅子を降りようとしたが止まった。

 サジェッツァの方に体の向きを戻している。


「父上の元に行って良いのですよ」


 サジェッツァが優しく言えば、マシディリのための台を奴隷が持ってきた。


 エスピラは奴隷を手で制すと、

「父が近づこう」

 と言って、マシディリを抱きかかえた。


「父上。お客さまのまえです」

「良いではないか。父を喜ばせてくれ」


 今年四歳になるマシディリだが、まだまだ余裕で抱きかかえられる。


「マシディリ様。父上を甘やかしてあげても良いのではないですか?」


 サジェッツァがそう言うと、マシディリは抵抗を止めてエスピラに抱きかかえられるがままになった。


「父上」

「ん? どうした?」

「母上のにおいがします」

「……」


 返答に困ったエスピラは、とりあえずマシディリの後頭部を撫でた。


「マシディリ様の父上と母上は他の者が思っている以上に仲が良いのですよ」


 サジェッツァが顔色を変えずに言った。

 エスピラも「そう言うことだ」と乗って、マシディリを抱きかかえたままサジェッツァの前に座る。


「ずっと読んでいたのか?」


 エスピラは奴隷に手で自分にも飲み物を要求しながらマシディリに聞いた。


「いえ。パンくばりはサジェッツァ様とステッラにてつだってもらいました。そのあとは、サジェッツァ様とステッラがハフモニの話をしていました。ステッラが帰ったので、私がサジェッツァ様をもてなそうと思って、ここにきたのです」


 ステッラはカルド島でエスピラの軍団に居た百人隊長の一人である。


 元はタイリーの被庇護者であり、タイリーの最後の言葉が『自分の命令あるまではエスピラの命令を自分の命令と思え』との言葉に従うと言って、今はエスピラの被庇護者になっている。


「そうか。ありがとうな、マシディリ」

「ウェラテヌスとして当然のふるまいです」

「頼もしいな」


 エスピラはマシディリの頭を撫でると、ゆっくりとまた持ち上げた。

 乳母が近くにやってきて、奴隷が台を傍に置く。


「父はこれからサジェッツァときっと難しい話をするから、少し席を外していてくれないか」

「わかりました」


 エスピラはマシディリを台の上に置いた。


「あと、できれば父にも読み聞かせをしてくれると嬉しいな」

「いっしょに居られるのですか!」


 ぱあ、と目が大きくなり顔が輝いたが、すぐにマシディリの表情が沈んでしまった。

 エスピラも放しかけた手を固め、マシディリの頭にのせたままになってしまう。


「でも、それでしたらクイリッタにゆびわを作ってあげてください。私がもっているとうらやましいといって、手足をまるめてゆかにちぢこまってしまうのです」


「分かった。クイリッタの指輪も作ろう。もちろん、マシディリの話も父は聞くがね」

「はい!」


 元気に返事をしてくれた後、マシディリはサジェッツァに綺麗なお辞儀をして奴隷と共に家の中に戻っていった。


「可愛いだろ? 天才だろ? あの歳で弟への気遣いをするところを見るに、ウェラテヌス史上最高の当主になるかも知れないとは思わないか?」

「全面的に認めるが、それだけにエスピラが構い過ぎて才能を潰さないかが心配だ」


 サジェッツァが能面で言って、左手を出せと目と顎を動かした。

 エスピラは人払いをしてから、緩い状態だった革手袋を外して袖を捲る。


 まだ生々しい血がたらりと腕を赤く染めていた。


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