晩餐会
アレッシアの晩餐会に酒は無い。同時に、貴賤も無い。
時には大浴場で話が合ったと言う理由だけで招待される人もいる。酒場で盛り上がったからと言う人もいる。そのような人たちは貴族が着るような晩餐会用の服は持っていないこともあるので、主催者は頼まれずとも貸し出す準備を整えておくことになっているのだ。
前菜二種から始まり魚も肉もメインとして出てきてデザートまで行く豪華な食事から、広い会場、そして一人に二着以上貸し出せるほどの服、それも貴族が着る絹や羊毛でできた上質な服を用意できる財が無ければ晩餐会は開けない。逆に言えば、あからさまな人気取りでも自身の財を投げうってここまでもてなされれば確実に人気は上がる。
エスピラも、連れて来たマルテレスは放っておいてセルクラウス一門に近しい者として愛想良く振舞った。
つまらない話も楽しそうに聞き、自分の話はあまりせずに相手の話を引き出す。エスピラからする話と言えばエリポスの西側の文化、ディティキの財、手に入るであろう教養確かな人物の話。教養確かな人物と言えど、いわば奴隷、家庭教師となり得る人材の話である。
教養のある奴隷、家庭教師としての奴隷が増えれば奴隷の値段も安くなる。値段が安くなれば手を出せる層が増える。アレッシアにエリポス人奴隷が増えれば、庇護者の子弟と共に優秀な教師の下で学べる被庇護者の子弟も増えるのだ。
アレッシアの国力増加のみならず、兵役の結果、子が奴隷になったとして広く公用語である『エリポス語』が話せれば悪い扱いにはならない。アレッシアにだって帰ってこられるかもしれない。悲観的な方向だけではなく、外国語が話せれば捕虜との交渉のために軍指揮官の近くにおかれることもあるのだ。そうなれば、必然的に目に留まる可能性も高くなる。出世の可能性が高くなる。
さらには、歴史的に一歩上の感覚があるエリポスにアレッシアが進出する第一歩に自分たちが成るのだ。アレッシア人の英雄譚を聞いて育っているアレッシア人にとって、自分たちが偉大なる父祖に並ぶ栄誉に浴するまたとない機会である。
もちろん、ルキウス・セルクラウスが執政官になったのなら。
と、エスピラは結び続けた。
アレッシアの軍は規格化された、誰が率いても一定の力を出せる軍団である。だから別にルキウスでなくても良いのだが、その後ろにタイリー・セルクラウスが見えれば話が違う。同盟都市国家連合アレッシアの一番はタイリーだ。戦闘民族と評されるアレッシアとはいえ、気後れもあるエリポス圏の国家に対しては安心が欲しい。その安心こそ、タイリー・セルクラウスである。
別に、彼が出馬しなくても良い。乗り気であるのか、あるいは弟に干渉するのか。
それすら知らなくても良い。
タイリーの影が見えれば、それだけで良いのだ。
エスピラは、影を見せるのに適任と言えよう。
蜜月を知らぬ者はいない。愛人だとかウェラテヌスの名誉を売っただの買っただの言われることもあるくらいには有名なのだ。
もちろん、影を見せるだけならタイリーの子供たちだけでも良い。だが、子供たちは政治に大きく関わるだけの力がある。一方でエスピラには執政官の方針に関与できるほどの地位も名声も財も年齢も無い。これは、ルキウスにとってもやりやすいのだ。
「エースピラッ!」
親子の貴婦人が離れたところで、どーんと、勢い良く上機嫌でマルテレスが激突してきた。
「どうだった? どうだった?」
何がとは聞かなくとも分かるほど、マルテレスの声は上ずっている。
それでいて、ひそひそと話すかのように顔を耳に近づけてきているのだ。
エスピラは正直、鼓膜が少し痛い。
「お前が期待するようなことは無い」
「だって」
「愛人関係だって、本当はもっと密かに行うべきだ。された方は良い思いをするものでもないし、後ろ指をさされる行為に変わりはない」
「わりい」
本気の反省、と言うよりも同情やおもんぱかりような、申し訳なさが先立つ声であった。
本当に申し訳なくしぼんでいくような。
それが、エスピラの癪に障る。
別にマルテレスは何も悪くないのに、苛立ってしまった。
(逆の立場なら、こうはならないのだろうな)
それ以前に、メルアが他の男に色目を使うことも無いのか。
昔は、どうだったかと。
明らかに結婚してからの方が増えたな、と。
「まあ、お互いに妻には苦労するよな。サジェッツァは他人の家庭にって言ってたけど、うん。俺のとこは身籠っている時に誰とも寝なかったら不能になったのかと罵られたし」
あたふたと言う友人に、エスピラは渦巻いていた黒いモノが馬鹿らしくなった。
まだ端に、壁にこびりついてはいるものの、表情はすっきりとしたものを出せるほどに、気は晴れている。
「なるほどな。じゃあ、どうだった?」
少し意地悪だったかな、とは思いつつも、エスピラは上がった口角を隠そうとはしない。
「そんな暇ねえよ。タイリー様に使節に入れてもらっていたんですよ。今日もエスピラに呼ばれました。ディティキの市街も歩きましたよ。城壁だって見てきました。いやー、良い魚ですね。臭みがない。この野菜は誰の野菜ですか? 良い味ですね。ってな具合にな」
「なるほど」
言いながら、エスピラは配られたデザートに乗っていた銀梅花の花を取り出した。
にやりと笑ってマルテレスも同じく取り出す。
「上手く取り入ったようじゃないか」
「まあな」
銀梅花は晩餐会の後の酒宴、コミッサーティオへの招待状。
さらに一歩深めた連帯感を得るための宴会。
マルテレスが片眉を上げて、エスピラに向けていた視線を二秒ほど銀梅花にやった。
エスピラはゆっくり目を閉じて、首を横に振る。
エスピラが言えばマルテレスにも招待状が渡ることは確実だったろうが、そこまでの手回しはしていない。
目を開ければ、新しい玩具を与えられた子供のような笑みでマルテレスが笑っていた。
「どうだ!」
「それぐらいしてもらわないと困る」
言葉は厳しめだったが、エスピラの顔は喜びを止めておくことができなかった。
「エスピラ! 我が甥よ」
すぐさま表情を余所行きの色男に整えて。
エスピラは声の主、ルキウス・セルクラウスに慇懃に頭を下げた。
マルテレスも追従した音を察知したが、こちらはこちらの戦略か、空気は変えていないようである。
「そうかしこまるな。ここからは無礼講。立場も何も関係ないただの酒宴じゃないか」
「いえ。私は、一つ失態を犯してしまっておりますので」
「失態? 君と話した者は皆楽しそうであったではないか」
エスピラはルキウスに差し出された透明なグラスを受け取った。
給仕からリンゴ酒を受け取ったルキウス手ずからエスピラになみなみに明度の高い琥珀色の液体が注がれる。
「そうでは無いのです。失態とは、このこと」
エスピラは左手をルキウスの前に出し、神牛の革で覆っているその手を握りしめ、開いた。
手のひらに載っているのは指輪。
ルキウスの手が伸び、緩んでいた顔が少々引き締まった。
「クラツィオーネ・ベロルス。義兄トリアンフ様の無二の親友にして留守中に妻の元に足繁く通っていた男にございます」
「このこと、兄上は?」
「タイリー様の胸中にトリアンフ様は既におりません」
「よく理解した。私も、気を付けるとしよう」
「私も、次は必ずや生死問わず捕まえたいと思っております。クラツィオーネは逃がしてしまいましたが、次こそは、と。よもや、無二の親友が自身の兄弟に手を出したことを気づかないほどトリアンフ様も愚かでもないでしょう? ならばこれは、いかなる心づもりか」
ルキウスは一度頷くと、一気に雰囲気を軽くしてマルテレスにもリンゴ酒を注いで陽気に言葉を交わして去っていった。
参加者はまだいるのだ。全員に、まずは注ぎに行くのだろう。
音頭があるわけでは無いので、エスピラはルキウスの背中を眺めながら喉を湿らせた。
「本当に逃がしたのか?」
マルテレスが声を落として聞いてくる。
「猛獣の腹の中に逃げ込まれちゃあ手は出せないさ」
エスピラが唇をあまり動かさずに返すと、マルテレスは「おー、こわ」と肩をすくめた。
「嫉妬ってやつか」
エスピラの眉間に盛大に皺が寄った。
慌てていたと言われても言い訳ができないほどの勢いで、エスピラはリンゴ酒を半分ほど飲み減らす。
「馬鹿を言うな。アレッシアのためだ」
「アレッシアの」
「トリアンフ様は大望だけが執政官の男だと言う。そうならば、間違っても戦時中の執政官になってはいけない。凱旋式をやりたいだけの愚かな軍事命令権保持者の所為でこれまで何十万、何百万のアレッシア人が死んでいるのだ。トリアンフ様には、少々執政官の椅子から遠のいてもらわないと困る」
「そうかい」
「そうだ」
エスピラの言葉のあと、マルテレスの返答を待たずに酒宴の開始を告げる音楽が鳴り響いた。
夏の夕焼けのような音色と、ルキウスの信奉する文化の神を称える神殿の踊り子たちによる踊り。それらに、徐々に酒の神と宴の神への感謝の舞も混ざっていく。
「そうだ。全ては、アレッシアのためだ」
エスピラの呟きは、音楽に塗りつぶされて自分自身にすらほとんど届かなかった。