震え
もちろん、発表した布陣は変更になる可能性もある。
敵の様子や、場所などまだ不確定な要素が多いのだ。
それでも、大きくは変わらないだろうなと言う思いはエスピラにはあった。
(神よ。フォチューナ神よ)
右手で左手の革手袋ごと握りしめ、口と鼻を潰すような形で両手を顔に押し当てる。そのまま、エスピラは目を閉じ、右手で左手を握りしめ続けた。
「不安か?」
音もなく天幕が開き、マルテレスが入ってくる。
「シニストラが見張っていたけど、俺なら良いってさ」
マルテレスのいつもより軽い声に、エスピラは小さく笑おうとした。
だが、口角はいつものように上がらず、むしろ笑みがひきつる。
「私は大馬鹿者だ」
エスピラは笑みを取り繕うのをやめ、小さく溢した。
マルテレスが笑みを浮かべたまま、懐から干し肉を取り出す。一つは、エスピラの前に。
「槌と金床戦術だろ?」
言って、マルテレスが干し肉を噛み千切った。
「分かるか?」
「ああ。前哨戦用とか言って俺や闘技大会の成績優秀者を配属から外してたけど、要するに機を見て敵の弱点を突かせるためだろ。すげー自信だな」
同じ高さから見る双方万を超える人の中で、的確に弱点を見つけられると言うことが。
「自信なんてない。ただ、相手にエリポスの傭兵が居るならば、力量不明の相手がメガロバシラスの大王の戦術を模せば少しは警戒するだろ? 命惜しさに踏ん張る気が無くなってくれればと思っただけさ。私の傍には歩兵第三列も居るしな」
「栄光の密集隊形は組めないけど、確かに似たような見た目の重装備を持つ傭兵はこっちには居るもんな」
カルド島に攻め込んできたエリポス人の名残である。
「ま、俺もエスピラの傍に居るからさ。お前が明らかに間違ったところを叩く指示を出しても、命令の返事で変えちゃうこともできるし、お互いに分からなくても叩いた場所を敵の弱点に変えてやるよ」
けらけらとマルテレスが明るく笑った。
「頼もしいな」
と言って、エスピラは干し肉を口に含む。
味はしない。良く分からない。
二度、三度と噛むが味も良く分からず、とりあえず硬いだけである。
やがて、エスピラの手がゆっくりと下りていった。
「これまでは、何かあってもタイリー様が修正してくれた。だが、今は私の一存で全てが決まる」
エスピラの机に右足を置く形で座っていたマルテレスが、干し肉ごと手を右太ももの上に置いた。
「つっても、使節での交渉はエスピラの一存で全てが決まっていただろ?」
何でもないようにマルテレスが言った。
「まるで違うさ。交流と、戦場での指示は」
「一緒だろ」
即答である。
「使節も後ろにはアレッシア全部を背負っていた。エスピラの決断でアレッシアの行く末が変わっていた。そう考えると戦場はまだ小さいんじゃないか? 全部じゃない。運命が変わるのは戦場に立つ二万と近くに住む者達だけ。だろ?」
否定する材料は多くあっただろう。
どうにでも言い返せただろう。
だが、不思議とそんな感情は湧き出てこなかった。
「一緒か」
代わりに出てきた言葉はどこか安堵を含んだ声。
「ああ。一緒だ。今までと変わらない。エスピラはエスピラの思うがままにやれば良いんだよ。それにほら、シニストラも言ってただろ?」
マルテレスが机に座ったまま、衣服を整えるような動作をした。
次いで喉元に触り、んん、と声を変える。
「『人間ですから失敗することはあります。弱気になることだってあるでしょう。ですが、ティミド様のようになよなよとされる方は気にいりません。上に立つ者が堂々と構えていてこそやる気が起きるもの。ああも毎日へなへなしていては、兵のやる気を損ないます』って」
「飲ませたな」
エスピラの口角が自然に上がった。
「一杯だけ。一杯だけだって。強要はしてないしな。シニストラが良いですよって付き合ってくれたんだって」
マルテレスが背を丸め、人差し指を立てて悪びれずに謝ってくる。
エスピラは大げさに溜息を吐くと、不敵な笑みを作った。マルテレスがぽん、と膝を叩く。
「エスピラが神官やっている時によく見た顔だな」
エスピラは笑みの質を変え、人の好い笑みを貼り付けた。
「晩餐会の時だな。あ、使節でもたまにやってるか」
「使節の時はこっちだろ」
そう言って、また少し表情を変える。
「あー、うーん。確かに少しだけ隙が無くなったように見えなくも無いな」
エスピラは、今度は笑みを消して不遜な顔をした。
「一気に全員に指示を出すときの顔だな。まあ、前回は出来ていなかったわけだが」
最後に、真剣な顔を作る。
「兵の士気を上げるために演説してた時とかの顔か」
「完璧か?」
「外行きのエスピラの完成だな」
「なら良い」
自身の外面に納得すると、エスピラはリンゴ酒を取り出した。
いつもの半分だけ二つの杯に注ぐ。
「槌と金床が上手くいくと見れば、歩兵第三列をも前線に繰り出す。傭兵を使わない、アレッシア重装歩兵三千六百による完全なる壁だ。百人隊長と副隊長には既に歩兵第三列を『勝負を決するために』前進させると伝えてある。負けを覚悟しての投入ではないと分かってくれるだろう」
同時に、これは最も弱い傭兵部隊を敵騎兵に晒しかねない行動でもある。
命は等価値ではない。傭兵と自国の兵を混ぜる部隊を指揮する者なら、誰しもすり潰すのは傭兵をと望むだろう。
そこを考えればアレッシアのための合理的な判断とも言えるが、軍団が壊滅する危険性も孕んだ決断である。
「随分と仲良くなったな」
「経験を分けて欲しいと頼んでいるだけだよ」
エスピラは杯を持ち上げた。マルテレスも持ち上げる。
「運命の女神と、戦の神の祝福を」
「太陽の神と戦の女神の抱擁を」
杯を合わせて、二人は一気にリンゴ酒を飲み干した。
「まずは陣取り合戦に勝つ。マルテレス。存分に勝って奴らを決戦でしか巻き返せないようにさせてやってくれ」
「勝ち過ぎたら引かないか?」
「初戦で弱気な将だと判断されれば、ハフモニの将ならば処断される。だから大将は引けないさ。傭兵は下手に処断すると集まらなくなるから甘いけどな。そこの差、兵と将の間に意識の差が生じれば生じるほどこちらに有利になる」
「分かった。任せとけ」
マルテレスが自身の胸を叩いた。非常に良い音が鳴る。
「あ、でも相手が兵をどんどんだして俺らが不利になったらちゃんと援軍を頼むな」
「もちろんだ。お前を失うわけにはいかないからな」
マルテレスが空になった杯を机の上に置いた。
机からも降りて、帰る気配が漂ってくる。
「マルテレス。時間があれば、決戦までの間毎朝来てくれないか?」
「友の頼みを断るわけが無いだろ」
あ、とマルテレスが声を上げた。
「そういや、槌の部隊にベロルスの奴が居たけど、良いのか?」
ベロルスは一門としてはメルアに手を出そうとした不届き者。タヴォラドに徹底的に叩かれた家門である。トリアンフとも近かったが、守ってくれなかったトリアンフに対しては距離を取りつつあり、トリアンフも弟と義弟に敵視されているベロルスからは距離を取っている。
「グライオの実力は確かだからな。それに、国内、特に軍団内で難癖をつけるのは良くない。敵を目の前にして味方を割るような動きは愚者の行いだ。まあ、自然に芽を摘めるなら摘みもするがな」
スーペル・タルキウスのように。
正当な理由をもって遠方にやり、抵抗能力を落としたりして。
「なら良いんだ。エスピラは妻のことになると怖いからな」
マルテレスがふざけて首を細かく横に振り、肩をすくめた。
「マルテレス」
エスピラもふざけて声だけを低くする。
こわやこわやと呟いてマルテレスがそそくさと天幕の出口に向かって行った。が、途中でマルテレスの足が止まる。
「エスピラ。俺はお前を絶対に守る」
出る直前で、マルテレスが至極真剣な声を出してきた。
「私も、マルテレスを支えるとも」
エスピラは左手の革手袋に口づけを落とした。
「アレッシアに栄光を」
「祖国に永遠の繁栄を」




