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茨への航路

 それが撒き餌? なぜ?


 確かに、冬の間は動かないことが分かっていれば利用することもあり得るだろう。

 そう言えば、アレッシアについて学んでいたな。ハフモニからの刺客が神殿に来た時に、アレッシア人の心を利用していたなと、エスピラは思い出した。


「ペッレグリーノは戦上手だ。一万対三万だったとしても、蛮族に後れを取る男ではない。ましてや山越えで弱り切った軍と準備を整えていた一万だ。

 だが、負けた。

 マールバラの評価を、私たちは相当低くしていたのかもしれないとは思わないかね」


「馬鹿な。そんな……」


 新兵も居るが、ハフモニとの開戦を見据えて招集した軍である。


 両執政官は貴族と平民・新貴族側で最も戦いに秀でたと言って良い人物が選ばれているのだ。その配下もいくつかは政治的な判断もあるが百人隊長らは精鋭と言って良い。


 仮に、新しい軍の招集を待っている間にペッレグリーノと一万の軍を失うことがあれば。

 その損失は計り知れないものになる。


(それほどの男なのか?)


「雷雨だ。雷神は、ハフモニの守護神だろう?」


 エスピラは、震えかけた左手を強く握った。

 革手袋が音を上げるが、それでも強く。口元に押し付けて。


「使節は誰も、そんな男に見えたとは」

「息子よ、信じたいことを口にするな。目に見えることが信じるべきことだ」


 マールバラがペッレグリーノを打ち破ったのは事実。

 アレッシア軍が目の前で執政官が深手を負うような負けを喫したことによって、昨年押さえつけた北方諸部族が活気づくのも容易に想像がつくこと。


「さて。エスピラ。君ならばどうすれば良いと進言する?」

「マールバラが根付く前に、同数以上の兵を持って一気に叩くべきでしょう」


 そのためには此処にいる二個軍団とルキウスの軍団を合わせ、一気に四万近い兵に膨れ上がらせる。


 幸いなことに率いているのはタイリーだ。歴戦の猛者たちだ。

 これだけの数の軍団でも自在に動くことだろう。


「そうだ。私も同じ考えだ」


 タイリーが机に向かい、二枚の羊皮紙を取り出した。


「一万五千の兵を連れていく。陣容はここに記した。ここにも抑えが必要だろう?」


 エスピラは羊皮紙を受け取り、目を落とした。


 一番上には軍事命令権保持者としてタイリーの名前。

 次は、副官ではなく軍団長オックパート・タルキウス。


「タイリー様」

「君には此処に残る五千の兵の指揮を任せたい」


 抗議の声はすぐに潰された。


「しかし」

「カルド島を奪われればアレッシアは挟み撃ちに合いかねん」


 抗議を続けようとしても、また断ち切られる。


「一万か、二万かは分からないがハフモニは必ず軍団をこの島に向けてくる。その時こそが難局だ。この島の統治システムを整え、作戦を立案してきた君が残るのがベストだろう」


 理屈は、通っている。


「ですが、私はまだ軍事命令権を持てる歳ではありません。そこは絶対にして確実な弱点です」


 だが、感情的には従わない者が多いだろう。


「私が元老院に通す。その間、君の下にはティミドを着ける。あ奴に君から軍事命令権を奪うだけの度胸は無い。才覚も無い。それに、残りの部隊の騎兵隊長はスーペル・タルキウスが妥当だが騎兵隊の副隊長に君一押しのマルテレス・オピーマを着ける。幸いなことにあの平民の元には何度も功を挙げた部隊が居るからな。無視は出来まい。


 それから、私の被庇護者の百人隊長から七人、副隊長から八人を残す。私が撤回するまでは君の言葉を私の言葉と思い、私に尽くすように君に尽くせと申し渡しておく。


 軍団長補佐筆頭はアルモニア・インフィアネを任命するつもりだ。タヴォラドが推薦してきた男だが、マフソレイオへの使節で同道し、彼が護民官の時に協力していたな。

 感情は否だと申しても、スーペル程度しか君に歯向かえる者はいない。そのスーペルも結局のところ兵からの人気では君に及ばないし、小細工をしようと騎兵も歩兵も君の物だ。いざとなれば、私がタルキウスを叩き潰す」


 エスピラは大きく息を吸った。胸が合せて膨らみ、ゆっくりと吐き出す。


 根回しとしては十分だろう。

 タイリーの考えと偶然も作用してはいるが、確かにそれなら全権を握れそうではある。


「マールバラを手ごわいと考えているならば、タイリー様肝いりの百人隊長を七人も置いていくのは些か残し過ぎでは無いでしょうか」


「そうか? 私としては全員残したいぐらいでもあるよ。軍団の大半が離れれば、一気にここは敵地へと変わる可能性があるからな。その中で、君は数に勝るハフモニ軍と何回も戦う可能性があるのだ。

 一方、私は余り変わらない数で使用言語もバラバラの疲れている軍とこちらに利のある土地で戦う。どちらが過酷かは言うまでも無いだろう」


「それを、覆す手段はあります。エクラートンに援軍を頼み、物資の補給と見せかけの脅しのためにマフソレイオからの豪華船団による物資調達を依頼します。それから、奴隷を売るためにカナロイアに使者を出し、エリポスと分かる船団が来れば抑止力としては十分でしょう」


「揃うのに何日かかる?」


 とても、一か月でどうにかなるものではない。


 マフソレイオも事情があるだろうし、カナロイアは少し遠い。エクラートンからの援軍は何とかなるだろうが、そんなのは何の脅しにもならないのだ。

 マフソレイオやカナロイアの船が早く来たとしても、情報が島に伝播し、ハフモニへと届いて抑止力になるのにも時間はかかる。


「火を絶やさぬには薪がいる。新しい薪が必要だと占いで出た以上は私に憂いなく出陣させてはくれないか?」


 優しい声で、タイリーがエスピラの肩に手を載せてきた。

 温かい手である。じんわりと、熱が広がっていくような、多分これが父親だと言う手だ。


(ここまでされては)


 断ることは、できない。


「かしこまりました」

「助かるよ。軍資金と兵糧は途中で補充する。テュッレニアにも集めさせよう。だから今ある分のほとんどは置いていく。それと、エクラートンの王へは私からも手紙を出そう。だが、私が支援できるのは此処までだ。後は任せたぞ」

「十分です」


 そう言って、エスピラは頭を下げた。



 そこからは全軍に北方のアレッシア軍が負けたこと、救援に行くことを伝え、エクラートンらの協力も得て船団を再び整えた。出航までに四日。タイリーが着くころには雪がちらついてもおかしくない十番目の月になる。


(タイリー様と栄光あるアレッシア軍に神の御加護を)


 小さくなる船団を眺めながら、エスピラは左手の革手袋に口づけを落とした。


 目もつぶり、何度も、何度も祈りを捧げて。



 それから、全てを振り払うように目を開けた。

 見送りのために後ろに並んでいる、エスピラの軍団の高官たちに目を向ける。


「スクリッロ将軍。残留部隊の軍事命令権保有者として正式にエクラートンに援軍を要請します。二千から三千の騎兵を得られれば万々歳です。それから、傭兵を募った場合どれほど集まるかの試算もお願いします。資金はアレッシアが出しますのでそこは心配なさらずに」


 とは言え、援助はエクラートンのため、実質的にエクラートンのお金である。


「ティミド様。傭兵を雇い再び軍団を二万人規模にした場合、傭兵に払う軍資金はどれだけもつかの試算を願います。ズベラン様は同じく食糧の確認を。ハフモニが軍を揃えているのは確実ですから」


 二人の返事を聞いてから、エスピラは次の者に目を向ける。


「アルモニア様は兵からエリポス語が堪能な者を見繕ってください。臨時ではありますが彼らを橋渡し役にして最低限軍としての形を作れるようにします」

「かしこまりました」

「訓練は百人隊長の皆さんに任せます。一か月も無い期間で陣形の組み換えを素早くできるように訓練してください。行軍速度は今ばかりは犠牲にして構いません」


 戦場の絞り込みは、エスピラが行う。


 どの都市を裏切らせるか、どこで戦うのが良いのか。

 それを見極めてから。


「それから、スーペル様はソルプレーサと一緒にマフソレイオへ行き、女王に私の頼みごとを伝えてきてくれませんか? 騎兵隊長をここから外すのは本来は下策ですが、今残っている者で最も高官経験のあり王族と対等に渡り合えるものは貴方しか思い当たらないのです」


「…………それが命令なら」


 スーペルが眉を寄せたが、了解を示した。

 厄介払いの意味は勿論ある。一番の不穏分子なのだ。


 だが、同時にこの軍で最もアレッシアの重鎮の椅子に近いのはスーペル・タルキウス。

 ティミドが対等に渡り合えるようには見えないし、トップであるエスピラが離れるわけにも行かないのだ。


 最後に、エスピラはマルテレスにその間に騎兵の心を奪えと目だけで訴えて見送りの解散と次の戦いの準備を告げた。


 解散していく人ごみの中で、エスピラはペッレグリーノ・イロリウスの息子であるイフェメラ・イロリウスを捕まえる。


「行かなくて良かったのか?」


 これは、厄介払いの意味ではない。純粋な気持ちだ。


「戦いに赴く時に帰ってくる覚悟であるのは勿論ですが、同時にもう会えない覚悟も決めてあります。自分は、自分が命じられた場所で全力を尽くすだけ。エスピラ様も、同じ状況だとそうなさるのでは? いえ、既に同じ決断をなされたのではないですか」


「そうか。そうだな。頼りにしているぞ」


 言って、エスピラは少し沈んだ表情を隠しきれていない青年の胸に拳を軽く当てたのだった。

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