急報
「お心遣いありがとうございます」
エスピラの言葉の途中で奴隷が帰ってきた。
エスピラがリンゴ酒を手に取り、杯の一つに注ぐ。注いだものはすぐにスクリッロに渡して、もう一つも注いでシニストラへ。今度は少なめ。シニストラは受け取り、形だけ舐めてすぐに下げた。
「朋友として、頼りにしておりますよ」
エスピラは自身の杯をスクリッロ将軍の方へ傾けた。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
スクリッロが合わせてくる。
(勝ち馬はこちらか)
勢いもある。強さも見せた。
カルド島の勢力の多くはアレッシア側になったとみて良いだろう。ハフモニ側も今は日和見だ。この地での決定的な敗北が無い限りは、この状態は続くだろう。
(その決定的な敗北がありうる要因としては、タイリー様が北方をやたらと気にかけていることぐらいか)
もちろん、勝ち負けは時の運。タイリーの意識とは関係ないかも知れない。
エスピラに多くを任せているのがタイリー自身は北方を見ているからだとしても、それで軍はまとまっているのだ。大敗北には直接的には繋がらないだろう。
「そう言えば、紹介が遅れましたね」
スクリッロの目がソルプレーサが作った地図に行ったのを見て、エスピラは口を開いた。
体の位置も地図を隠すようにさりげなく変える。
スクリッロの目に宿った警戒はエスピラの警戒かそれとも本心か。
そこまで探ることは今はしない。
「こちらは私の親友であるマルテレス・オピーマです。一連の戦いでは主に先陣を切り、連戦連勝を飾った勝利の立役者です」
本格的な戦いにはならずとも小さな戦いは良く起こるものである。
むしろ大規模な戦いは起きない可能性の方が高いと踏んでいたエスピラはマルテレスに彼の自由になるような騎兵をつけていた。
マルテレス自身を慕っている者や、初陣となるイフェメラ・イロリウスを中心とした若い貴族を着けていたのだ。
「マルテレス・オピーマです。この顔を、ぜひ覚えて次の戦いでの働きを見ていてください」
スクリッロは軽口を言っても許す人だと判断したのか、調子よくマルテレスが言った。
スクリッロも楽しそうに笑ってマルテレスの手を取る。
「ええ。期待しております」
「そして、あちらがシニストラ・アルグレヒト。頼ったと言うことは既に知っているかも知れませんが、今回の戦では主に私の護衛と私のもう一つの耳になってもらっております」
シニストラが表情を能面に整えた。
「よろしくお願いいたします」
低い声で言って、シニストラが小さく頭を下げた。
スクリッロが右手のひらを見せてシニストラに応える。
「ところでエスピラ様。カルド島を影響下に」
置いたわけですが、と続いていたスクリッロの言葉をかき消すように、ぼす、ぼす、と乱雑に天幕が叩かれた。
シニストラが入口から離れ、エスピラと入口の間に位置でも入れる位置に移動する。マルテレスは姿勢を整えた。スクリッロが一歩ずれる。
エスピラの視界が大きく開けたところで、兵士が一人入室してきた。
「失礼します。エスピラ様。タイリー様がお呼びです」
兵の息は上がっていないが、肩の動きが少々大きいように見えた。
恐らく、急ぎで来たのだろう。
「分かりました。すぐに向かいます」
嫌な予感を抱えつつも、エスピラは杯を机の上に置いた。
地図を畳み、手紙を畳む。
「では、私はお邪魔になりそうなので失礼します。また、時間がある時に」
スクリッロの声がエスピラの背中に置かれた。
「こちらこそ慌ただしくなってしまい申し訳ありませんいつでもお待ちしております」
エスピラはスクリッロが出ていくまでは丁寧に返し、出て行ってからは急いで準備を整えた。
「マルテレス。明日に影響がない範囲でなら好きなだけ飲んでいて良いからな」
「おう」
「シニストラ。マルテレスが残るなら休んでも大丈夫だ。そうでないなら、申し訳ないが天幕に誰もいれないでくれ」
「かしこまりました」
「マルテレス。シニストラには飲ませるなよ」
下戸の部下に友が粗相を働かないように言って、エスピラは天幕を出た。
途中でアレッシアとの連絡役を纏めている者を捕まえ、メルアへの手紙を託す。
読むかどうかも分からないし、マシディリ辺りに投げ渡されそうだなとは思いつつも、とりあえずは家庭の話はこれで終わり。心の底に沈める。
(三歳で苦労を掛け過ぎているな)
自分が三歳の時はどうだったか。
正直、記憶はほとんど無い。
もしかしたら、マシディリはズィミナソフィア四世に勝るとも劣らない才覚の持ち主では、と結局心の中で浮上してきたが、タイリーの天幕を見て今度こそ沈めた。
「失礼します」
言葉の直後にエスピラは天幕を開けさせた。
帯剣したまま、ペリースで左半身を隠したままでの入室だが、咎める者は誰もいない。
「お待たせいたしました」
椅子に座らず、立っていたタイリーが振り向いてエスピラと目が合う。手には一枚のパピルス紙。
その紙がそのままエスピラに渡された。
とりあえず受け取り、エスピラはパピルス紙に目を落とす。
「北方戦線はどこまで聞いている?」
エスピラは顔を上げた。
「六番目の月にマールバラが十万の大軍を動員させ動き出したと」
しかし十万だ。
その動きは必然的に鈍くなる。
「その後は?」
「兵の数を六万まで減らし、クルムクシュへと至る川辺一帯で小競り合いを行った後、渡河には成功されたが山の方へ姿を消したと聞いております」
あくまでアレッシアの手の者が十万の大軍を発見できたのが六番目の月。その時には既に進軍して時は経っているだろうし、多くが無理矢理故郷を離れるような者たちだ。
山脈を越えてアレッシアのある半島へと入る入口であるクルムクシュに到達した段階で脱走も多くなるだろう。
脱走ではなく軍の意思で軍規を乱した者を処罰したりや帰郷させて数が減っていてもおかしくはない。
というよりも、数が減らないままなら山越えもより困難になるだろう。
「そのプラントゥムの若者だが、九番目の月の五日には山越えを成功させたらしい」
予想よりも早いな、と思いつつも雪が積もる前にとするならばそうなるのかとも納得した。
九番目の月の五日でも、既に雪には降られているだろうから、疲労も大きくなっているはずだと。
「そこまでは良いのだ」
タイリーに促されて、エスピラは紙に目を戻す。
「問題はその五日後。十日にペッレグリーノが一万の兵を率いて決戦を行った。結果、深手を負ったらしい」
(は?)
思わず顔を上げ、嘘を言っているわけでは無いと視覚的にも納得させたかのようにエスピラはまた文章も読み始めた。
書いてあることは、タイリーの言ったことと相違ない。
「軍団はまだ生きているが、人質としていた北方諸部族や徴収した諸部族寄りの兵が脱走し、ハフモニ軍に合流したらしい。正確な数は不明だが、プラントゥムの若者が率いているのは三万を下らないだろう」
戦象部隊の存在は無し。陣地にも積極的に攻めてこない。
恐らく、山越えで放棄させることには成功したのだろう。ペッレグリーノの残りの一万もプラントゥム方面へ向けて出発させたことも失策ではない。むしろハフモニの軍団をさらに分裂させる良い手だ。
書いてあることを読み限りでは、ペッレグリーノに決定的な失策があったようには思えない。
「君が鍛え上げた軍団だ。北方に取って返すのに何日かかる?」
正気ですか、とエスピラはタイリーに目を向けた。
確かに、新たに軍団を編成して出撃できるようにするまでは最低でも一か月、できればもっと必要だ。その間敵が待つ保証もないし、動かせるならここの軍団を動かすのが早い。
それは分かるが、カルド島にはまだ牙を研いでいる都市も多いのだ。
その意味も込めたエスピラの目だったが、タイリーから返ってくるのは力強い視線だけ。
「何日かかる?」
タイリーが重ねてきた。
「船を使い一気にテュッレニアまで北上するルートを取れば移動だけで十日ほどでつきますが、あくまでも天候に恵まれた場合です」
「テュッレニアは裏切らないと思うか?」
「マールバラが本当に北方諸部族を味方につけているのなら、歴史的に北方諸部族に荒らされ続けているテュッレニアが裏切る可能性は低いと思います。アレッシアからも、この軍団なら陸路だけで十日でつく距離です。今裏切る利点は少ないでしょう」
しかし、それだけ船に揺られると言うことはそれだけ天候に左右されると言うこと。
全滅する危険も高くなると言うことだ。
エスピラはお勧めしたいとは思えない。
「仮に君がハフモニ軍に居るとして、テュッレニアを裏切らせることは出来ないか?」
「船の調達の時間を含めてテュッレニアに我が軍が見えるのに五日も掛かりません。しかも目前には戦上手のたたき上げ、ペッレグリーノ様の軍団が居るのです。味方はまだバラバラ。とてもでは無いですが、構っている場合では無いかと」
「では、どうする?」
「冬を待ちます。幸いなことに山の裾にはいくつかの川が流れておりますので、どこかを防衛ラインにします。冬の渡河は軍団を不利にするだけ。それに、半島北部は雪が積もります。とても戦いどころでは無いでしょう。その間に兵の回復に努め、信用できる部族を見極めます」
半島北部は今ですら、カルド島の最も寒い時と同じくらいの気温かも知れないのだ。
「本当にその作戦を取るのか?」
タイリーの硬質な目がエスピラにやってくる。
「私なら、と言うことです。タイリー様が懸念されているように北方諸部族を纏めるためにアレッシアに勝てると言う姿をマールバラは見せないといけないでしょう。冬を待つと言う戦術では心が離れかねません。ですが、今、厳しい環境で戦うと言うことはそれだけ人心も離れやすくなると言うこと。攻めてくるのは余程の自信家です。準備が万端であったであろうピオリオーネ攻略戦に六か月もかけた男のすることではありません」
「それが撒き餌だったとしたら?」
タイリーの言葉に、エスピラは一瞬頭が真っ白になった。




