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開戦

「エスピラ! 取り込み中か?」


 入ってきたのは半裸のマルテレス。

 エスピラの顔を見て、それからソルプレーサ、シニストラと目が動いた。


「だ、そうだが」

 と、エスピラはソルプレーサを見た。


「いえ。用件は以上になります」


 マルテレスの手前だからか、ソルプレーサが慇懃に言って天幕を辞した。


 別にそこまでしなくても良いのに、とマルテレスが溢すが、ソルプレーサは帰ってこない。

 ソルプレーサから水で薄めたワインを受け取ったシニストラがエスピラの机に戻すだけである。


「いやー、しかし二万の兵、まあ、正確には今は二万を割っているけど、二万の兵がエスピラの思うがままか」


 軽い調子で言いながら、マルテレスが水で薄めたワインを手に取った。


「今日にでもタイリー様が帰ってこられるけどな」


 言いながらワインを飲んでも良いと示せば、マルテレスが喜色満面の笑みでワインを飲んだ。

 音が聞こえそうなほどに豪快に飲み、ぷはー、と息を吐く。


「それもそれで勿体ないな。折角ならどこか攻めれば良かったのに。どうせ街攻めが続くんだろ?」


 明るい調子でマルテレスが言った。

 シニストラの顔は険しくなっているが、エスピラは楽しそうな色を隠さない。


「本当にできると思うか?」

「はは。それは無理だな。まとまるかは分からないし、暑くてやる気は出ないし、何よりエスピラが動こうとしていない」


 最後のは特上の冗句だと言わんばかりにマルテレスがおどけてエスピラを両手で指さした。

 シニストラの険しい表情に、複雑な色が混じる。もちろん、マルテレスからはシニストラの顔は見えていない。


「良く分かっているじゃないか。とは言え、暑さに関してはどうしようもないがな。これから涼しくなっていくからそれまで我慢しろとしか言えないよ」


「アレッシアにいるサジェッツァと連絡を取ろうとしても返事が来るまでに最速で十日はかかるのか?」


「同じ距離でも半島内に居ればそうだったろうが、此処は半島ほど道はしっかりしていないし、駅に至っては無いからな。北方、プラントゥム方面がどうなっているかを知ってからの動きでは遅すぎるさ」


 だよなあ、とマルテレスが頷く。


「そうなると」

「まあ、そろそろ動かないといけないだろうな」


 暑さのピークは過ぎ、ゆっくりゆっくりと下がって行く段階であっても気は引けるが、タイリーの意識がどこか北方に向いているように感じる以上、敵が整い過ぎるのを待つ訳にもいかない。


「野営陣地にしては結構快適だったんだけどなあ」

「そう言うな」


 また作れるさ、という前に鎧の音が届いた。

 少し待てば入室を求める声が届き、許可する。


 入ってきたのはしっかりと鎧を着て、大粒の汗をかいている青年。


「タイリー様が間もなく到着されるそうです」

「分かった。皆にも伝えてきてくれ。それと、分かっているとは思うが軍団補佐以上の階級の者は正装でタイリー様の天幕まで集まるように」


 お前もだぞ、とエスピラは少し笑いながらマルテレスに目をやった。

 マルテレスも「りょーかい」と軽い感じで視線を返してくる。


 伝令が出ていき、マルテレスも出ていった。


 見届けてからエスピラは鎖帷子を着け、脛当てを着け、靴を代え、神牛の革手袋を結びなおす。


(痛みはほとんどなくなってしまったか)


 きつく締めればメルアに噛まれた場所がまだ痛むが、その程度である。


「飲むかい?」

「大丈夫です」


 シニストラに水で薄めたワインを差し出したが、小さく頭を下げる形で断られた。

 喉が渇いていないならば良いかと、エスピラは炎天下に出る。

 直射日光がきつく、日陰との温度差は大きい。


 その中を進み、まだ主の入ったことの無いタイリーの天幕の真ん前にエスピラは立った。シニストラがエスピラの後方、出入り口をふさがない場所に位置取る。それからは続々と軍の高官が集まって、エスピラを中心にするように並んだ。


 並び終わって、誰の鎧でも卵は焼けるのではないかと言うほどに直射日光を浴びた頃、ようやくタイリー・セルクラウスが到着する。その横にはエクラートンの将軍にしてエスピラの顔の知らない顔なじみの一人であるスクリッロ将軍。とは言っても、エスピラは彼には小さい頃にタイリーに連れられて会ったことはある。その頃に比べて、白髪が増え顔の皺も増えただろうか。


「出迎えご苦労」


 タイリーが言って、馬から降りた。スクリッロ将軍も続く。

 出迎える側は、エスピラ以外がまず頭を下げ、エスピラはタイリーが近づいてから頭を下げた。


「変わったことは無かったか?」

「全て順調に進んでおります」


「暑さはどうだ?」

「今から体力をすり減らす行いはしておりませんので、指揮次第かと」


 ふむ、とタイリーが言ってから他の高官たちを見渡す気配がした。

 右に行って、左に行ってからエスピラに戻ってきたようである。


「兵の消耗が抑えられたのは大いに結構。だが、すぐに戦う集団に戻れるか?」

「そのための訓練です。誘惑の多いアレッシア、アグリコーラでの休息と過酷な訓練を乗り越えた者たちならば他の軍団に比べてすぐに心に鉄を宿せましょう。それに、今回は歴戦の百人隊長が揃っております。重装歩兵はすぐにでも誇り高きアレッシア軍へと戻ることを神に誓ってお約束いたします」


 タイリーが満足げに頷いたのが頭を下げていても分かった。


「オックパート。騎兵の炉を燃え滾らせろ。君が騎兵に働きかける方が効果があるだろう?」

「かしこまりました」


 エスピラが訓練を統括し、たまに参加していた重装歩兵はエスピラでもある程度は抑えが聞く。何より、名門ウェラテヌスの名がより効果を発揮するのだ。


 一方で騎兵にはウェラテヌスを尊重する気持ちはあっても若輩者の指示に心からは従えない者もいる。そこは、やはりそれなりに実績もあって同じく建国五門の一つであるオックパートが向いているのだ。


「ティミド。軍資金に余裕はあるか」

「はい。無駄な出費は銀の一欠けほどもありません」


「ズベラン。麦の消費はどうなっている?」

「予定よりも残っております。詳しくは副官殿に今朝報告したしました」


「ご苦労」

「すべてはアレッシアのため。苦労など何一つございません」


 ティミドとズベランの返事が重なった。


「ティミドとズベランはスクリッロ将軍が持ってきた物資の確認もしたうえで改めて私に報告せよ」

「かしこまりました」


 今度はティミドが遅れる形で少しずれた。


「さて、エスピラよ」

「はい」

「スクリッロ将軍が少しの間帯同したいと申し出てきた。構わないか?」


 顔を上げずに、エスピラは逡巡した。


 こういう場合は得てして同意を求める形ではあるが決定事項を告げていることがほとんどであるからだ。しかし、今回はそのような響きは無い。


「副官は執政官の決定に従うのみでございます」


 それでも、意図まで図り切れなかったエスピラは型通りに返した。


「そう言うな。今回の軍事行動は全て君の立案によるもの。私はそれが上手くいくように声を掛けたに過ぎない。今後の作戦は、エクラートンの者が見ていても問題ないかどうかは君が判断してくれ」


 なるほど、このためか。とエスピラは思った。


 あえてエスピラの名を強調させて軍団にエスピラの指示に従うようにと意識づけさせると同時に、肯定の返事を出させることでエクラートンの者に仮初でも恩義を感じさせる。


「一切の問題はございません。むしろ、エクラートンとの連絡が取りやすくなるのであれば大歓迎です」

「そうか」


 鷹揚に言った後、タイリーがエスピラに近づいてきた。


「皆の者、暑い中ご苦労であった。持ち場に戻って良い。スクリッロ将軍は申し訳ないが物資の引継ぎを頼む。ちゃんとした紹介は、皆が集中できる夜にでもしようじゃないか」

「お気遣いありがとうございます」


 朋友の将軍、というよりは従属国の将軍にするような扱いではあるが、一応理由をつけて。

 皆が離れきる前にタイリーがエスピラの背中を一度叩き、天幕へと誘ってきた。


 奴隷が天幕を上げ、タイリーが入ったのを見てエスピラも天幕へと入る。


「本当に問題は無かったか?」


 天幕で待っていた奴隷にタイリーが水を要求した。


「問題はございませんでした」


 タイリーが水を受け取り、飲み始める。


「私のような若輩者が上に立っていることに少なからず反感を抱いている者はおりますが、此処に居るのはアレッシアのために全てを捧げた者だけです。私が間違ったことを言わなければ、異論はあっても引きさがってくれます。経験が大事だと言うのも十二分に把握しているのでしょう。


 間違っても、暑いのは私の所為だとかありもしない不手際をでっちあげるだとかいう行動は起こさない方々だと信じております。私個人は若輩者ですが、私はウェラテヌスの主。父祖の誇りは皆も理解していると思います。ウェラテヌスに喧嘩を売って、子孫が青天の下を歩けるとは思えません」


 タイリーが水のおかわりを要求した。

 飲んでいる間も頼んだ時も、目はエスピラを見たままである。


「尤もだな。アスピデアウスも誇り高い一門だとは思っているが、私はウェラテヌスこそが最もアレッシアの貴族として誇り高い一門だとは思っているとも。少々度が過ぎるため真似はしたくないがね」


 この言葉に、エスピラが全く怒りを抱かなかったかと言えば嘘になる。

 ともすれば父祖を貶すような発言なのだ。平素のままでいられるはずが無い。


 同時に、言っていることは事実であるとも思っている。

 エスピラとて、アレッシアが存亡の危機になればその限りでは無いが基本的には父のように完全に家を傾けることはしまいと心に決めているのだ。苦労を知っているからこそ、タイリーのようなものに巡り合えた幸運があったからこそ。次の代、息子たちにはそんな思いをしてほしくないのである。


 おかわりが届いたため、タイリーが水を再度飲み干した。


「さて。そろそろセルクラウスとウェラテヌスの栄光をもう一つ積み上げるべく動くとするか。準備は良いか?」

「運命の女神とウェラテヌスの名に誓って」


 翌々日の朝。陽が昇り始めた時刻。

 カルド島に上陸していたアレッシア軍二万がついに動き始めたのだった。


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