戦争への最後の扉
エスピラは新たに入ってきた奴隷に目を向ける。
持っているお盆の上にはチーズのかかったビワとさくらんぼ。それから、水で薄めているであろうワイン。
(二人きりではないな)
まあ、らしいと言えばらしいのだろう。
口の堅い奴隷に関してはタイリーは側に置き続けたまま大事な会話をすることもあるのはよく見ているわけだし。
「処女神の神殿には随分と気に入られたみたいだな」
タイリーがワインを口に含んだ。
「何が良かったのかは分かりませんが、ありがたいことに」
エスピラはそう返してから、先程までとは別の椅子に座る。
奴隷が先ほどまでのエスピラの椅子の前にあった物を今のエスピラの前に置いた。
「神殿を荒そうとした者を捕らえ、しかも相手には神罰まで下ったのだ。処女神の神殿だけではなく、運命の女神の神殿の者も誇りに思っていると聞いているよ」
奴隷が退室する。
「タイリー様の情報、伝手があってこそです」
「その好機を逃がさなかったのは君だ、と言えば納得するかね」
好機は一瞬。過ぎ去れば掴むことは出来ない。
運命の女神を信奉している者は誰よりもそのことを分かっている。
「ただ、出来の良い末の息子に一つアドバイスをするとすれば、諦めることも重要だ。アレッシアの男たる者、愛人の一人や二人持っていた方がステータスになる」
とは言っても、愛人関係のもつれで裁判にかけられた者も居るがね、とタイリーが冗談めかすように口角を上げた。
「私がどれだけメルアを思っているかはタイリー様が一番良くお分かりのはずです」
エスピラの声がやや硬くなる。
タイリーが右手のひらをエスピラに見せて、鷹揚に横に動かした。
「知っているとも。妹君の婚姻は、ラシェロ・トリアヌスとも近づくことによってシジェロ・トリアヌスが家門として君と重婚する意味を減らすためのものでもあるだろう?」
副次的な効果ではあるが、その考えが無かったとは言えない。
一番はマルハイマナ語を話せるものを牽制すること。その過程でトリアヌスに近づけば、トリアヌスと婚姻する意味は非常に薄くなる。
「効果は見ての通りのようだがな。まあ、処女神の巫女は家門とはまた隔絶した存在。個人の意思が尊重される神の御使いだ。標的と定められれば如何に君とて簡単に抜け出せるものではない」
タイリーがビワをつまんだ。
「特にウェラテヌスは子供の数をしっかりと定めているような家系だったからな。男子二人女子一人。男子が一人でも、四人以下に収める。支出を減らして蓄財し、国家のために散財するような家門だとはアレッシアの者なら誰しも知っている」
その結果がエスピラの『ウェラテヌス』としての血縁者が妹、カリヨ・ウェラテヌス・ティベリだけという事実なのだが。
だが、戦場に良く立ち、国家のために積極的に財を使い、子供の一人が一門を継ぐことができれば十分と言うのはウェラテヌスの歴代の長の多くが考えていたことであろう。
「ならば男子二人に女子一人と言う理想的な子供の数になった君とメルアの間に隙間風が吹くと考えていてもおかしくはないのではないかね」
「タイリー様はパーヴィア様と婚姻されたことを後悔しているのですか?」
パーヴィアは元処女神の巫女である。
腕が良かったらしく、若き日のタイリーは良くあてにしていたらしい。
その結果か、三十歳を過ぎて処女神の巫女から解放されたパーヴィアはタイリーの元へ嫁ぐことを望んだのだ。
タイリーは彼女との間に三人の子供をもうけている。
「後悔は感情があって始めた成り立つ言葉だ。婚姻は感情ではない。事業としての成功か失敗か。パーヴィアがいなければコルドーニまでしか生まれていない可能性もあるからな。ここまでのセルクラウスの発展は無かっただろう。家門としては、一番下のメルアが最も大きな成果を挙げたのだ。
婚姻に限らず見ても、トリアンフは四十半ばを超えてもまだ不安が残りコルドーニはトリアンフを支えることに固執している。アレッシアを憂う一人としては、私の広大な基盤を分ける人が増えただけでも喜ばしいことだよ」
タイリーがビワの乗った皿を見たまま、心なしか弱弱しい声で言った。
タイリーの妻、アプロウォーネはメルア出産後の産褥から起きることなく亡くなったとされている。愛情深くかの妻に接していたタイリーにとっては、冷静に振り返るのも辛い出来事だろう。
エスピラも、タイリーから目だけを逸らした。
「申し訳ございません」
「君が謝ることは何もない。それに、メルアは一番アプロウォーネに似ているからな。性格は違うが、まあ、君に初めて噛み痕を発見した時はそれだけで何があったかを察したよ」
エスピラは右手首に思わず触れてしまった。
今は右手は噛まず、噛むならば左手を中心にするようになってはくれたが、最初は酷かったのである。それこそ、隠すことは出来ないくらいに。
「さて」
タイリーの力強い言葉と同じくらい力強い視線を感じて、エスピラは目をタイリーに戻した。
「喫緊の課題へと話を進めようじゃないか。私はまだまだ若いと言われるからな。十年後も現役の自信がある。その時に、処女神の巫女の話が喫緊の課題となれば協力しよう」
「ありがとうございます」
経験者であり最高神祇官であるタイリーの力を借りられるならば、これ以上心強いことは無い。
もちろん、タイリーは基本的にはいつでもエスピラの味方で、有力な後ろ盾であるのだが。
(波の関係、か)
父との間がどうだったのかは、気になるところではある。
ウェラテヌスの再興に最も力を貸してくれているとはいえ、ウェラテヌスが凋落して最も恩恵を受けたのもセルクラウスだと言う見方もできるのだから。
「群衆を軍団へと変える訓練だが、四万を超える人が集まって現段階では脱落者は二名だけ、か。随分と寛容な措置を取っているように私の目には見えたのだが」
「セルクラウスの名を傷つけないために、です。とは言え、厳罰に処した二名は命の他にも財産の一部没収と言う処分を下しておりますので寛容とは言い難いかと。次から始まるアグリコーラへの行軍訓練での脱走は、すぐにその処罰を下す予定でもあります」
二回目の脱走、それも本格的なモノを行ったからの厳罰ではあった。
それ以前の、小さな出来心の段階でエスピラの手の者が見つけられた場合は特別と言う形でエスピラ自身が面談して許しているのである。
だが、それもここまで。
後は、規律のあるアレッシアの軍団になってもらわないと困る。
「そこの最終決定は君に一任しよう。私へは事後報告で構わない」
「かしこまりました。それと、準備に関しましては半島内での食糧、船の準備は整ったようです。確認しに行く必要はありますが、同盟諸都市から連絡がありました」
言って、エスピラは先ほどまで見ていた粘土板をタイリーへ渡した。
タイリーが粘土板に目を落とす。
「カルド島内に関しましてはエクラートンに盟主としての働きをしてもらっておりますが、まだ少し時間がかかるかと。おそらく、その許しを得るために金銀が届いておりましたので、ありがたく諸都市への慰労に使おうかと思っております」
「君の懐に一部入れても良いんだぞ」
「私の一存で用途を決めているのです。全て私の懐に入っているようなものかと」
タイリーが楽しそうに肩を揺らした。
エスピラは一度目を瞑ってから続ける。
「それから、ハフモニに通じようとしている都市、通じている都市を炙りだしました。これからアレッシアに城門を開くこともあるかとは思いますが、カルド島に入り次第どこから落としていくかを考える一助になれば幸いです」
エスピラは畳んでいたペリースの下から羊皮紙を取り出した。タイリーの顔が上がる。
「君が考えてみないか?」
(なんと?)
エスピラは、言葉を失ってしまった。
代わりに首が僅かに傾く。
「効率の良い進軍経路、都市同士の関係性、宗教的な価値と兵が略奪によって享受する旨味。それらを考慮しなくてはならないのを君は知っているだろうが、実践する良い機会になるだろう? もちろん、これは私も後で確認するとも」
なるほど。確かに、知識としてあるのと実践するのは大きく違う。
エスピラとてそうは思うものの。
「初動は大事なのでは?」
「だからこそ君に任せるのではないか」
タイリーが笑って、ワインを傾けた。




