戦争への最後の扉
副官の仕事は多岐にわたる。
兵の確認、訓練、交渉、兵糧の確保、武具の確認、神へのお伺い、祈り。これらを行いつつ、日々鍛え上げられている軍団に後れを取るわけにも行かないのだ。
高官の息が上がり、足が動かなくなって着いていけなくなるなど愚の骨頂。
だからこそ、アレッシアの高官になり得る人はたいていの場合筋肉質であるとも言える。
訓練に最初から最後まで参加しなくても、訓練を積んできた兵に後れを取らないようにするために。急に参加しても、どの歩行訓練でも着いていけるように。
「まずは一段落か」
エスピラは一息吐いて、カルド島へ向かう道中の都市から届いた粘土板を置いた。
兵糧の準備と替えの馬が整った報告や、船を揃え終えた報告である。
一度、エスピラ自身で見に行くか、信頼できる者が行く必要はあるが、半島内の道中の準備はほぼ整ったと言えよう。
「お疲れ様です」
処女神の巫女、シジェロ・トリアヌスがブラータチーズを載せたビワをエスピラの前に置いてきた。
「ありがとうございます」
今が旬であるビワを、丁度二日間の休息日に当たった兵たちも食べているだろうかと言う思考に行きかけて、エスピラは心の中で首を振った。
(馴染んでどうする)
戸籍の確認と、兵の記録。一日ごとの詳しい占いなど確かにここ最近のエスピラは処女神の神殿に足を運ぶことが多くなっている。
とは言え、だ。
客室の一つを我が物顔で利用し続ける現状は如何なものだろうか。
(タイリー様はこういったことを見越して私を半年任期の神官にしたのか)
顔なじみになっておけば色々スムーズに進むから。顔見知り同士なら気楽に行えるから。
あながち、考え過ぎだと言えないところもあるのがタイリー・セルクラウスと言う男だとはエスピラも知っている。
「で、どうなりそうだ」
常駐神官や他の巫女がやたらとエスピラに着けようとしてくるシジェロを意識の外に追いやり、ウェラテヌスが経営を始めた武器屋の職人にエスピラは問いかけた。
職人がうろこ状の鉄が組み合わさってできた手のひらほどの鉄の布を恭しくエスピラに手渡してくる。マルハイマナの重装騎兵、カタフラクトの装備と同じに見える馬のための鎧だ。
「ほぼ完全に再現できました。ですが、量産は間に合わないと思います」
「大丈夫だ。今回の戦いで使うつもりは無い」
エスピラは渡された品を引っ張り、叩き、透かして見る。
「売り上げは?」
「おかげさまで」
今回は職人の声に嬉しい悲鳴が感じられた。
この間まで、軍団は戦闘訓練を行っていたのだ。中には鎧がぼろぼろになったり、安物の剣だと熟練の兵に真剣勝負で遊ばれて壊れる者も居る。
流石に四万にも迫る人を全員アレッシア近郊にずっと留め置くことは出来ないが、防具の補修で武具屋を訪れる者は多いのだ。
エスピラは、その中で数人に特別に安くすると声をかけて自身の武具屋を紹介している。ただ、ずっと見ているわけにはいかないので、マルテレスに声掛けを頼んでいることが多い。
彼のバランスは抜群なのだ。
全員に声をかけるわけにはいかないが、あまり不公平なのもいけない。やる気が出る程度の不公平というさじ加減が難しいのだが、マルテレスはそこを完璧にやってくれた。
「剣を壊された新兵の分は私につけといてくれて構わない」
つける、と言ってもエスピラが経営しているため結局は職人の取り分をエスピラが払うだけである。
「そこまでする必要が?」
「自前の装備を戦いの前にふざけて壊されれば誰も良い気はしないだろう?」
まあ、壊す側もその武器ではいざと言う時に命が危ないから、という意図もあるのだが。
訓練ですぐ駄目になる武具は戦場では相手の剣以上に自身の命を奪う武具となる。味方の命を奪う鎌になる。
だからこそやっている側面もあるのだ。
「新兵じゃないのに明らかに壊れやすい安物を使っていた場合はその限りじゃないけどな」
一回目は良いとしても、戦場経験のある者が簡単に壊れる武器を持ってくればエスピラも許しはしない。
「かしこまりました」
エスピラはカタフラクトの鎧の一部を職人に返した。
出来栄えに満足した、という証に「よくやってくれた」と声をかけてエスピラの前に置かれたチーズのかかっているビワを職人にも差し出す。職人は喜んで二つつまみ、満足げに呑み込んだ。
「こっちはどうだ?」
エスピラは職人の腹にビワが収まったのを確認し、カナロイアの王子、カクラティスから贈られたウーツ鋼(ダマスカス鋼)でできた剣を机の上に置いた。鞘から抜き取れば、木目のような独特の紋様が露わになる。
「そちらは、手掛かりすらつかめていない状況です」
「そうか」
落胆は、少ない。
ウーツ鋼でできた剣は鋭い切れ味が落ちず、そしてしなやかなであり、見た目も良い。
剣としてこれ以上ない物なのだ。
だが、エリポスでもほとんど製造されておらず、カナロイアなどの操船技術の優れた国家やマルハイマナのような巨大な陸路を持つ国家が保有しているのみ。
もしもアレッシアで作ることができたのなら、アレッシアの強化につながるのではないかと思っただけである。
「綺麗な剣ですね」
途切れた会話を見てなのか、シジェロがそう言った。
「ええ。綺麗な上に、性能も一級品です」
エスピラは剣を持ち上げた。
職人の目も剣に行く。
「ただ、アレッシアの神々の目に着かないところの剣かもしれません。神々の御加護を得られるかどうかは不安なところがありますので、フォチューナ神の神殿にしばらく預けようかと思っております」
『ご加護を得られるかどうか不安なところが』のあたりで手を伸ばし始めていたシジェロが、慌てて手を引いた。顔は少し赤い。
「すみません。皆さんには良くしていただいていると言うのに」
言うべきじゃなかったなと思いつつ、エスピラはシジェロに頭を下げた。
「いえ。エスピラ様の信奉する神を考えれば当然のことです。こちらこそ、早とちりをしてしまい、申し訳ありません」
シジェロも優雅な動作で頭を下げてくる。
その様子を見てどう思ったのか。
職人が荷物を纏めて口を開いた瞬間に、扉がノックされた。
エスピラは職人を見る。職人は大事な話ではございませんとばかりに目を伏せた。
どうぞ、と言う前に扉の向こうで動く気配がする。
「タイリー・セルクラウス様が参られました」
何かがあった時のために時間を空けるが、訪れたのは最上位の人であったためエスピラの返事は待つつもりは無かったらしい。
アレッシアの礼儀としては全く間違ってはいないので、エスピラは椅子から立ち上がった。
片掛けマントは外してあるため、それ以外の身なりを整える。
その時間を待つような間があってから、扉が開いた。
最初に見えた侍女がゆったりとよけ、はちみつ入りのチーズに似た髪色のタイリーがエスピラの目に入る。
「お疲れ様です」
深くお辞儀をしてから、エスピラは先ほどまで座っていた席の前から避けた。
空いたスペースにタイリーが入る。
「忙しいのは君も同じだろう。何。随分と手際が良いとは思っているがね。流石はウェラテヌスの者だ」
君を息子にできて誇らしいよ、とタイリーがやわらかく続けた。
「父祖に恥じぬ働きと評価していただけるのならば、これ以上光栄なことはありません」
「ああ。若すぎると批判していた者も居たが、今はすっかりと黙ってしまったよ」
「タイリー様のおかげです」
「いや。私は何もしていないさ。君の力だよ」
タイリーはこう言うものの、エスピラはタイリーのおかげだと言うスタンスを崩す気は無い。
育ててくれた、というのもあるが、今回は妨害工作が一切されていないのだ。どの集団でも大きくなれば一定数は発生しそうなものだが、今回に限ってはタイリーが睨みを効かせてくれているのだろうと思っている。
「さて。早速で悪いが、占いの準備へと入ってもらって良いかな。それから」
タイリーの言葉の前者はシジェロに。後者は言葉を切って職人に目を向けた。
職人が頭を下げて、部屋から出ていく。
「では、私も一度身を清めて参ります」
職人の足音が消えてから、シジェロが恭しく頭を下げた。
「ああ。頼む」
タイリーが言ってからシジェロが頭を上げ、退室していった。
「さて、これで君と二人っきりになった訳だ」
そう言って、エスピラは椅子に深く腰掛けた。




