副官として
書斎にエスピラが入ると、ティミドは椅子に座ることなく立ったまま書物を眺めていた。
「お待たせいたしました」
エスピラが声をかけると、ティミドの肩が大きく動く。
「いえ。こちらこそ帰ってくる日だと言うのにすみません。妹も大変楽しみにしていたでしょうに、本当にすみません」
来年、一番目の月になれば確かに官職的にはエスピラの方が上になる。
だが、現状では財務官経験回数でも年齢でもティミドの方が上なのだ。
この低頭具合には、流石にエスピラとて不安になるところがない訳では無い。
「構いませんよ」
言いながら、エスピラはリンゴのはちみつ漬けの入った皿に目を落とした。
ティミドへのおもてなしとして出された品であろうが、たいして減ってはいない。
「お口に合いませんでしたか?」
「いえ、すみません。家の主人がいつ帰ってくるかも定かではない中で一人食べ続けるのは気が引けたものでして……」
とは言っているものの、これが一皿目だと言うことはエスピラとて把握している。
だが、気が引けるのであればそうはさせないのももてなす側の仕事。折角奴隷が作ってくれたものを無駄にするわけにもいかないのだ。
「確かに、一人では気が引けてしまいますね」
エスピラはそう言うと、書斎に置いてあるハンドベルを鳴らした。
すぐさま来た奴隷に、自身もティミドと同じものを頼み、ついでにマシディリとクイリッタにもより甘口のものを出してもらうように頼む。
「そのようなお気遣いまでしていただかなくても」
「私が食べたかっただけですから」
「お腹がすいている中」
エスピラは革手袋をはめたままの左手を横に大きく動かしてティミドの言葉を封じた。
「食べたくなっただけですよ」
そうして、ゆっくりとエスピラが来客用の椅子に座ろうとすると、ティミドが慌ててエスピラの側にやってきた。
家の主なのだから、主の方に座ってください、と言うことである。
いえいえ、いやいや、と何度かの譲り合いをしている内に奴隷がリンゴのはちみつ漬けを持ってきてしまったので、エスピラは主の方の席に着いた。
(初めから着く気だったと言えばそれまでだが)
こういうのは形式が大事なのである。何度も譲ったと言う事実が重要なのだ。
「それで、今日はどのようなご用件でしょうか」
エスピラは言ってからリンゴに手を伸ばした。
ティミドにも勧めつつ、あくまで硬くならずに話し合おうと言うことである。
「はい。まずは、来年度、父上の軍に従軍する財務官に就任することになりましたので、ご挨拶をと思いまして。あ、でもまだ決まったわけではありません。すみません。父上の任命で決まる副官とは違いまして、財務官は選挙ですから、どうなるかは一応、まだ分かりませんでして。私では心細いとなる可能性も」
「自信を持ってください。ティミド様は過去二回ともしっかりと責務を果たされているではないですか」
エスピラは思わず腰を浮かせて、ティミドをなだめた。
実力は、ある。
大手柄をあげることはなかったが、失敗もほとんど無いのがティミド・セルクラウスと言う男だ。
惜しむらくはその自信の無さ。トリアンフあたりの膨らみ過ぎている自信と混ぜ合わせて戻せば丁度良いかも知れないと言うのに。
(そもそも、兄弟間での争いを見ているからこそのこの性格なのか?)
となれば、自身の兄弟間で争いが無いように早期に子供の才を見抜かなければならないな、とエスピラは思った。
今のところ、マシディリは良い兄である。
だが、才覚はてんで分からない。ない訳はないと信じてはいる。
(よしんばなかったとしても、か)
兄弟をまとめ上げる、あるいは兄弟の仲を取り持つことができればそれだけでウェラテヌスを継ぐのに相応しいのかもしれない。
避妊をすれば、メルアは露骨に機嫌が悪くなる。噛み痕が酷くなるのだ。
するかしないかが分からなくても、家に山羊の膀胱を見ただけで荒れるのだ。そんな調子だからもちろん女性側のことなんてすることは無い。
緑のオーラや白のオーラで乳幼児の死亡率が他国と比べて低いとはいえ、出産は命懸けの大事業。加えてウェラテヌスは子供は三人で後は国のためにお金を使えと言うような家系である。
それらを鑑みればもう、と思うのだが、きっと、メルアとの間に子供が増える確信がエスピラにはあった。
エスピラとて男なのだ。娼館に行かないとはいえ性欲はきちんとある。
それが誰に向かうのかと言えば、一人しかいない訳で。
(マシディリは苦労するなあ)
とどこか他人事に思いながら、エスピラはティミドの少しどもった形式通りの挨拶を自身の内の思考に没頭することで全て聞き流したのだった。
「そして、此処からが父上からの伝言なのですが」
という言葉が聞こえ、ようやく子供たちについての思考からその場、来年についての思考にエスピラは切り替えた。
「数名、官位や軍団内での立場は分かりませんがエスピラ様の希望を聞きたいと。副官として、ある程度動かしやすい者たちを軍団内に持って欲しいとのことです。父上に与えられるのは二個軍団ですので、その四分の一、五千ほどの軍勢をいざと言う時に率いてもらう、とのことでした」
「多いですね」
副官として七か月前に監督した騎兵は左翼騎兵約千だ。いきなりその五倍、しかもいざと言う時はエスピラがそこの頭と言うことになる。
「多い、ですか? 副官としてならば二万の兵を預かるわけですから、むしろ少ないかと……。いえ。すみません。訓練等を含めれば、もっと多くなりますね。本当にすみません」
訓練の監督も私か、とは思いつつ、副官だからそうだろうなとエスピラは半ば諦めた。
集団の確認、集団を軍団へと変える訓練、進軍先関係諸市との連絡。船の確保。戸籍の確認。吉凶の占い。兵糧、武器の確認、手入れ。道中における兵糧確保の手順。それから群がってくる者たちからの挨拶。
忙しくなってくるから起こるメルアのいじけ。クイリッタの駄々。一番我慢しそうな来年三歳になるマシディリのフォロー。
やることは多いのだ。
「それで、誰がよろしいです、か?」
申し訳なさそうにティミドが聞いてきた。
気持ちを切り替えて、エスピラはティミドを見据える。
「マルテレス・オピーマを、できれば兵を指揮することもある立場で」
「その平民の名前は挙がるだろうと、父上も言っておりました」
あれだけ挙げ続ければな、とエスピラとて思う。
「マルテレスは折角護民官にまでしたのです。一騎打ちに強く平民に人気のある彼が兵を率いた時にどうなるのか。知っておくのはアレッシアのためになるでしょう」
「アスピデアウスも一門で似たような声明を出しそうですね」
少しばかり余計な一言な気もするが、ティミドが真面目な顔をしてメモを取っているのでエスピラは何も言わなかった。
「後はソルプレーサ。ソルプレーサ・ラビヌリを。彼はどの立場でも構いません」
「被庇護者に加えてまでもかっているあの人ですね」
同じ名前の人がいる可能性があるからこその確認だろうが、もうちょっと言い方をとは思わなくもない。
「ガスパール・クインクスも呼ばねばなりませんね」
「ソルプレーサ様の元庇護者ですからね。ですが、あまり、積極的ではないと」
「とはいえ、ソルプレーサより上に就けなければならないでしょう」
自分でもらっといて言うのも憚られるが、エスピラにとってガスパールと言う男はあまり魅力を感じない。
ソルプレーサと言う才を簡単に手放したのだ。
少なくとも、エスピラの目指す未来とは違うものを追っている可能性が高いだろう。
(この考えが失礼だったと謝る日を楽しみにはしていますけどね)
ガスパールがソルプレーサを手放して得たこの好機を利用して。運命の女神に愛されるかのように才を示すことを、エスピラは望んでもいる。
「以上でしょうか?」
ティミドが、申し訳なさそうに聞いてきた。




