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ウェラテヌスの家

「ちちうえ、おかえりなさいませ」


 たどたどしい言葉遣いで、小さな天使が言った。


「ただいま」


 エスピラは口元を緩めて小さな天使、まだ三歳にもならない息子マシディリに返し、左手で抱きかかえた。後ろで兄の真似をしていた次男クイリッタは右手で抱きかかえる。長女はまだ一歳にも満たないので乳母の腕の中で眠っていた。メルアは見えない。


「家をしっかりと守ってくれて助かったよ」


 エスピラがマシディリに言えば、兄だけが褒められていることが分かったのかクイリッタがエスピラの服を引っ張った。


「クイリッタときょうりょくしました」


 マシディリが舌足らずな声で弟も褒める。


「そうか。クイリッタもありがとうな」


 良く分かっていないが褒められたのは分かったのか、クイリッタが喜びつつもメルアのようにツンとしたフリをしてくる。


「しばらくおりますか?」


 マシディリが聞いてきた。


「暖かくなるまではいるよ」

「もうあたたかいです」


 マシディリが不安そうに言った。


「そうだね。ごめんね。父が悪かったよ」


 エスピラは、マシディリのおでこに口づけを落とした。


 そして、ゆっくりと家の中に入っていく。ようやく取り戻したアレッシア市内にあるウェラテヌスの家だ。まだ所々片付いておらず、掃除の足りない場所もあるが晩餐会を開けるほどには活用できる。


「あたたかい」


 クイリッタが言葉を繰り返してきた。


「うん。暖かいね。しばらくは夜には帰ってくるよ」


 エスピラは二人に返しつつ、家の中を見回した。

 分かってはいたことだが、ここにもいない。きっと、メルアは寝室に籠っているのだろう。


「メルアは?」


 それでも、エスピラは家内奴隷に妻の所在を尋ねた。


「寝室に籠っております」


 家内奴隷が慇懃に応える。

 彼女の言葉はこれで終わらず、口が動き続けた。


「それから、タイリー・セルクラウス様が旦那様を呼んでおりました」


 立場的にはタイリーがエスピラを呼ぶのであっている。

 逆は、近くに用事があったり道中だったり届け物があったりしない限りは望ましくはない。


「帰ってきたばかりだぞ」

 とは言え、つい愚痴を溢したくなる気持ちもあるのだ。


「だからと言って旦那様と奥様を会わせてしまえば、しばらくは出てこられないのはタイリー様も知っておられるかと思います」


 エスピラにも思い当たる節はある。


 二人で風呂に入れば長風呂で、役職の無い時にメルアと一緒に寝れば昼まで起きないこともあった。約束をすっぽかしたことは無いが、客人が来ても寝ていることはある。被庇護者がパンを受け取りに来た時にまだ幼いマシディリが形ばかりの陣頭指揮を執ったこともあったのだ。


「帰ってきたばかりだからな。明日でも許されるだろう」

「そう言うと思っておられたのか、ティミド様が書斎で待っておられます」


 豪華な遣いだ、とは思いつつ。

 義兄にして十歳近く上の者を待たせ続けることは出来ない。


「何か、追加でティミド様に用意しておいてくれ。旅装を解いてから向かう」


 かしこまりました、と頭を下げる奴隷を見てから、エスピラは息子たちを椅子に置く。

 マシディリは大人しくそれに従ったが、クイリッタは不服そうにエスピラの服を引っ張ってきた。


 ごめんね、と言いつつも、エスピラはクイリッタの手を外す。暴れ、叫び始めたクイリッタが椅子から落ちないようにマシディリが苦闘し始めた。


「メルアは何か言ってたか?」


 エスピラは申し訳なく思いつつも話を進める。


「ティミド様にですか? 何もおっしゃってはおりません。それ以前に、お会いにもなっておりません」


 それで良いのかとも思ったが、メルアはティミド様の顔を覚えていないかも知れないと言う結論にエスピラは至った。


 ティミドからメルアはタイリーが用意した晩餐会の場で見て覚えただろうが、逆の可能性は低い。仮に実は覚えている、と言うことがあってもメルアは表には出さないだろう。


(さて、本当にすぐにティミド様のところに行くべきかどうか)


 普通に考えれば何を言っているんだと言う話だろう。


 だが、メルア相手ならば現時点で既に機嫌が崩れている。その上後回しにされたと知ればさらに気分を害するだろう。エスピラとしても、個人的な感情を優先すればメルアに会いに行きたい。タイリーも、きっと許してくれるだろうと言う考えもある。


 しかしながら、ティミドとエスピラは個人的に深い関係があるわけでは無い。その状態で待たせ続けるのは如何なものか。ただ客人を待たせる以上に悪い意味があるのも分かっている。


 エスピラは椅子の上で寝っ転がり始めたクイリッタを見ながら考えてはいたが、クイリッタが落ちそうになったので手を伸ばした。次男を捕まえ、椅子の上に戻す。椅子の上に飽きてきたのか、ただただ駄々をこねたいだけなのか。クイリッタは何度も椅子の上で転がり始めた。


 マシディリが窘めても聞かず、暴れ続けるのみ。

 マシディリも困り始めたのを見て、エスピラはとりあえず責任感の強い息子をこの場から離れさせることにした。


「母上に、父上が会いたがっていたと伝えてきてもらっても良いかい?」


 エスピラが頼めば、マシディリは小さく頷いて、椅子から降りた。

 とたとたとメルアの寝室の方へと向かっていく。


「クイリッタ」


 呼びかけながら、エスピラは次男を抱き上げた。

 旅装はある程度解き終わってはいるが、完全ではない。そんな状態だからか、奴隷からは急かすような視線を感じる。


「あまり我儘言っちゃ駄目だぞ」

「畏れながら、クイリッタ様は旦那様の幼い時に酷似しております」


 カリヨも無事嫁いだため、エスピラの元に戻ってきたエスピラの乳母がそう言った。


「私はどちらかと言えばマシディリと同じような手のかからない子供だっただろ」

「いいえ。エスピラ様が落ち着かれたのは奥様に出会ってから。それに、今のエスピラ様も駄々をこねるような行動をしておられるではないですか」


 馴染みの家内奴隷も乳母の後ろでこくこくと頷いている。


「分かった分かった。すぐにティミド様の元に向かうよ」


 エスピラの乳母へクイリッタを渡そうとするも、クイリッタが嫌がるようにエスピラの服をしっかりと掴んできた。

 渡そうとすると掴む。戻すと緩む。また離すと、しっかりと握ってくる。


「これは困った」

「なにも困りません」


 エスピラの言葉がばっさり切られると、クイリッタのために雇った乳母が近づいてきた。申し訳なさそうにしている彼女の方にクイリッタを伸ばせば、今度は抵抗が生じない。


 嬉しいやら悲しいやら。


 エスピラはクイリッタを乳母に渡すと、服装を整えて書斎へと向かったのだった。


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