カナロイア
「壮観だな」
潮風に目を細め、エスピラは誰にと言うことなく呟いた。
目の前の海には二十五艘ばかりの船団。いずれにも立派な衝角がついており、規律正しく威風堂々と洋上演習を繰り返している。
五段櫂船の乗組員は四百名を超えるため、エスピラの眼下の海には単純計算でも一万人以上の人がいることになる。司令官の乗る船として七段櫂船も三艘あるため、確実にそれ以上の人がいるのだろう。
「カナロイアがエリポスでも一目置かれ続ける要因であり、同時に王権の失墜の象徴だよ」
短い黒髪を風に遊ばせながら、カナロイアの王子、カクラティスがエスピラの横に並んできた。生まれたばかりのカクラティスの幼い息子は、彼と同じく黒髪黒目の顔立ちがはっきりとした妃が抱きかかえている。
「五段櫂船を一艘動かすのに三百人の漕ぎ手が必要。流石に、王侯貴族だけで賄い続けられる数では無いか」
その上、海戦は陸戦ほど個人の武勇がモノを言う世界ではない。
貴族などが武器を揃え、小競り合いなどで一騎打ちをして士気を上げ、名を上げる世界では無いのだ。個人の武勇に自信がある者もその他の者とほぼ同じことしかできないのである。
その結果、エリポスでも随一の都市国家であったカナロイアは王や貴族の力が落ち、市民の力が強くなった。政治に民意が多く反映されるようになってしまった。
「これを見ても陸戦主体に切り替えたいと言ったら、君は笑うかい?」
カクラティスがエスピラの横に並んでくる。
柑橘系の香りを風がエスピラの鼻に運んできた。
「他国民として言わせてもらえれば、賢い選択とは思えないな」
「私の現状を理解してくれた友としては?」
カナロイア国内では王族の力は落ち、国外との関係では『人質』という言葉は使わないものの時折王族の子弟をメガロバシラスに遊学させなければならない。実質的な従属に近い関係にまで貶められているのだ。
メガロバシラスの大王たちに初めに立ち向かった国家として。
「陸上戦力が整うまで民が暴れなければ成功する可能性もあるが、どちらに着くかは見極めないといけないだろうな。メガロバシラスとアレッシアはその内戦いになる。そのためにメガロバシラスは金と船を蓄え続けているからな。
カナロイアの海軍戦力はメガロバシラスにとっても大きいだろうよ。海戦をほとんど経験していないメガロバシラスにとって海に出ればカナロイア海軍は主力も主力だ。ただ、指揮官はメガロバシラスの無知無経験な者になりかねないがな」
「多分にアレッシアとしても見方が入っているね」
カクラティスが小さく笑った。馬鹿にしているものではない。当然のことだと言うようなものである。
「実際にアレッシア騎兵の左翼指揮の副官となって北方諸部族と戦った君から見て、宰相殿に着いて回って見たメガロバシラスの兵はどうだった?」
今年の執政官、メントレー・ニベヌレスに任命されて、エスピラは北方諸部族との戦いに年齢からすれば異例の高官で参加した。その上、メガロバシラスへの遊学中はメガロバシラスの兵団を見る機会にも恵まれたのである。
エスピラ以上に両国の軍団の差の現状について詳しい者はそうそういないだろう。
「密集隊形は攻め込むための隊形じゃない。金床にすべき陣形だ。強力な騎兵と精強な歩兵、馬についていける軽装歩兵があって最も威力を発揮する。だが、分裂後のメガロバシラスは重装歩兵と騎兵だけにしか力を入れていない。栄光あるエリポスの覇権国家は最早過去の話だ」
軍団の兵種が偏ったのには、メガロバシラスの市民だけでは全兵種を用意できないと言う事情もある。
「その過去の国家に四十年前アレッシアは蹂躙されかけたらしいじゃないか。勝ったのは一度だけ」
「その一度でメガロバシラスは撤退したけどな。最初の戦いで馬を驚かせ騎兵を封じることぐらいしかできない戦象、地形を選ばないと力を発揮しない密集隊形、アレッシア重装歩兵に削られる精強歩兵と軽装歩兵。派手で時間と金のかかる騎兵と重装歩兵の回復にしか努めていなかったツケを払っているとも言えるか」
「で、アレッシアは?」
誤魔化されなかったか、とエスピラは思った。
積極的に自国の陣容を語る者は普通はいないだろう。
(そのために軍事演習を先に見せてきた、とも言えるか)
眼下で繰り広げられている船団の動きは、海上に設置した的に向かって船に乗せられる大きさの投石機を発射する段階になっている。命中率は上々。
「主導権を握り、平地での決戦を避ければ九割方アレッシアが勝つ」
騎兵も密集隊形も本来の力を発揮できない地形になれば、とも言える。
「アレッシアの基本陣形は地形を選ばないからな。平地でしっかりと組まれた密集陣形を打ち破るのは厳しいとは思うが、一人一人の殺意はアレッシアの方が高い。アレッシアはどの戦いでも降参すれば奴隷、負けても奴隷。しかも兵なら鉱山奴隷にされやすく、奴隷にならずとも残酷に処刑されることもある。気を抜いて良い戦いなど無いからな」
対してエリポスの戦争においてどの国家も密集隊形を組める重装歩兵は重要なのだ。
捕虜にしたところで殺すことは無く、鉱山奴隷として潰すことも無い。自軍に加えるだけだ。
「地形さえわかればアレッシアが勝つと、来年の副官殿は思っている訳ですか」
「副官殿はやめてくれ」
至極真面目な声ではあったが、カクラティスなりの揶揄いも入っているのではないかとエスピラは思った。
「事実なんだから良いじゃないか。アレッシアの最高指導者であるタイリー・セルクラウスからの指名なんだろう?」
アレッシアの最高指導者は執政官、今年ならばメントレーである。
だが、そんなことはカクラティスも知っているだろう。
執政官でもなく法務官でもなく、それどころか官職が政治的な権威の無い最高神祇官でもアレッシアを動かせるのはタイリー・セルクラウス。それがエリポス圏に位置する国家の認識。そう言うことだろうとは遊学中に何度か耳にしている。
「過分な指名だ」
「過分かなあ。外交でマフソレイオとマルハイマナからの協力を取りつけ、メガロバシラスの動きを鈍らせているだろ。戦いでも北方諸部族を叩いた時に左翼騎兵のナンバーツーだった。内政も去年の護民官であるマルテレス・オピーマを助け、今年も護民官アルモニア・インフィアネを助けている。確かに抜擢だけど、面白そうな気はするけどね」
「戦時中で無ければな」
「ピオリオーネ、かい?」
マールバラが動き出したと言う報告が入ったのはエスピラがメガロバシラスに立つ直前。かれこれ、六か月前だ。釣り餌であるピオリオーネが包囲されたと報告が入ったのはその二週間後らしい。形ばかりの抗議としてマールバラに使節が行き、話にならないとサジェッツァらがハフモニ本国に行ったのはさらに一か月も後になってから。
結果はもちろん決裂。
冬の間は軍事行動ができないと言ってアレッシアが軍事行動を起こさないうちに、つい先日、エスピラの帰還を促す手紙にピオリオーネが陥落したと言う知らせが入った。
後は本格的にハフモニに使節を送り、宣戦を布告するだけ。
ハフモニがアレッシアの盟友を攻め落とした。条約違反を犯したとして。
そんな国家の大事にエスピラを副官に指名し、初動で過ちを犯せばタイリーの立場も怪しくなる可能性があるのだ。
「早めのご祝儀と思えば良いんじゃないかい? ウェラテヌスは二人男子が居れば子供をもう作らなかったりもすると聞いているよ」
何も口には出さずにいたエスピラに、カクラティスがそう言ってきた。
「家門同士の関係と個人の関係を絡めることがあっても、国家の大事と関わらせる人では無いと私は知っているからな」
「なら、なおのことエスピラの実力を評価したと言うことじゃないか」
返す言葉を探して見当たらず。
エスピラは、口角を僅かに上げた。




