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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第十五章
569/1593

その手から滑り落ちたもの

 アリオバルザネス、逃亡。


 それは、アスピデアウスが主導した策では無いのは確かであった。だが、想定内であることもまた確かであろう。


 少なくとも、慌ててディファ・マルティーマに駆け付けたエスピラはそう認識していた。


(『誰もに誤解されようとも、家族が、そしてエスピラ様は祖国への私の忠誠心を理解されている。それだけで十分私は報われているのです』、か)


 やはり、昨年の発言は失言だったか、と思いつつ。

 それが無くともメガロバシラスのために立ち上がっていたよ、と自ら否定しつつ。


 エスピラは、部屋に顔色の悪いカリトンが入って来たことを認識すると、置手紙を閉じた。


「見つかりませんでしたか」

「申し訳ありません」


 カリトンが謝ってくる。

 エスピラは手でその謝罪を受け、かつ気にするなと告げた。


 エスピラの下に情報が届いて、エスピラが駆け付ける。それだけの時間があればもう遠くに行っている可能性が高いのだ。


 裏をかいて隠れている可能性も否定しきれないが、捜索範囲を徒に増やし続けることはできないのである。


「水際で怪しい船を捕まえることは出来たのですが、いずれにもアリオバルザネス将軍は乗っておりませんでした。しかし、その全てにメガロバシラスの者が」


 カリトンが一歩近づいてきて言う。


「罠か」


 気を引き付けるための。


 怪しければ、そこに人が集まる。捕えればどうしてもそこに人が多く割かれる。調べるとなれば、時間も食われる。

 そうしている間に本命は逃げる。良くある手と言えばそれまでだが、良くあると言うことは効果的であるとも言えるのだ。


「船の所有者、物資の出どころ、怪しい人影。全てを加味すると、ロンドヴィーゴ様が怪しくなるのですが、ティバリウス邸は、エスピラ様の」


 こちらもアレッシアから駆け付けて、捜査指揮を執り始めたピエトロが言い淀んだ。


「構わないさ。徹底的に調べ上げてくれ」


 とは言え、利用された末端に過ぎないとは全員が理解している。


 権力を失ったはずのロンドヴィーゴに近づいた者が居て、なおかつメガロバシラスを憂うメガロバシラスの高官との繋がりがある者の存在があるのだ。そして、その者はアリオバルザネスに勝つ手段も持ち合わせている。それだけの力がありながら、メガロバシラス戦争で腕を振るうことが現実的では無い存在。


(…………私、か)


 条件に、一致するのは。


 メガロバシラスとの戦争がこのまま推移するのが不都合なのはエスピラも同じ。

 メガロバシラスを憂う者の筆頭である宰相メンアートルとも繋がりがある。

 ティバリウス邸を利用できると思われていてもおかしくは無い。

 ロンドヴィーゴを切り捨てても痛くもなんとも無い。

 アリオバルザネスに勝ったと誤解している者も居る。


 疑いに首をかしげることができる点と言えば、エスピラからロンドヴィーゴに接触するとなると、カリヨも使えない以上かなり迂遠なモノになると言うことぐらいだ。


「私も標的か」

「状況的には、元老院からすれば最も怪しい人物でしょう」


 ピエトロが言いづらそうに肯定した。

 カリトンの表情がますます沈む。


「逃走する前まで、父上は兄上の下におりました」


 そんな重い間に、スペランツァがとことこと入って来た。

 アグニッシモ、ヴィルフェットと共にアリオバルザネス将軍の下で講義を受けるためにディファ・マルティーマに滞在していたのである。


「その後、帰ってきてからも面会やまた遊びに来たカクラティス殿下と会っておられます。いずれも船を使わなければ即座の指示は出せない距離。証人を集めれば良いのではありませんか? アスピデアウスも、ニベヌレスや叔母上を標的とした裁判で下手に父上に噛みつけば大きく威信を下げることになると身に染みて分かっているはずです。


 しかも、父上を苦しめた先生がメガロバシラスに渡りました。


 此処で下手につつき、最悪父上が蜂起されればどうなるでしょう。


 エリポスに渡っている二個軍団は餓え殺しにあいます。プラントゥムの軍団は動けないでしょう。良くて傍観。下手をすれば父上の味方。テュッレニアに居るジャンパオロ様は父上の味方で、アグリコーラ、ディファ・マルティーマとアレッシアは囲まれております。


 戦争、いえ、政争どころではありません。

 その首が、壁に叩きつけられるのも現実味を帯びてくるでしょう」


 ピエトロとカリトンの顔がスペランツァに向いた。

 ずっと黙っていたシニストラは、流石はエスピラ様のご子息、と褒めている。スペランツァは、鼻を膨らませて「むふー」と返していた。


 そのスペランツァの顔が、またエスピラに戻ってくる。


「私たちのことなら心配なさらずとも大丈夫です。ヴィルフェットが居る、即ちニベヌレスまで巻き込むことになるのを誰が望むのでしょうか。筋の通った説明がなされた後、ほつれた糸を無理に引っ張るような真似をしてしまえば、アスピデアウス以外の建国五門は皆敵対するのです。いえ。結婚式の様子を見ていれば、義姉上とパラティゾ様を抑えることも可能な以上、今のアスピデアウスは用無しにもなります。

 それが分からないサジェッツァ様では無いでしょう」


「わざわざ囲まれる形にしたのもサジェッツァだしな」


 その気になれば蜂起できる状況を作ることで、逆に蜂起させにくくさせる。エスピラの感情的に、あるいは周囲に余裕を与えて。


 それぐらい、考えての行動だろう。


「カリトン様」

「はい」


「当日の詳しい説明ができて、なおかつ私が全幅の信頼を寄せているのはカリトン様をおいて他におりません。お頼みしてもよろしいでしょうか」

「お任せください」


 カリトンが頭を下げた。

 エスピラの首がまた少し動く。しかし、対象者に視線を投げはしない。


「シニストラ」

「はい」


「サジリッオ様に弁護の依頼を。常日頃の言動こそふざけているが、あの方ならばうまいことサジェッツァやサルトゥーラ、フィルノルド様にエスヴァンネ様の事情を巻き込めるはずだ」

「かしこまりました」


 シニストラが返事をして、一歩離れた。奴隷を呼んで、すぐに言伝を任せている。


「父上、先生の御家族は残っておりますので、処刑されてはいかがでしょうか。その死体を城門に吊るせば、疑いも晴れるのではありませんか?」

「駄目だスペランツァ」


 息子の提案を、エスピラは少しの威圧をつけてすぐさま否定した。

 スペランツァの腕が体の横にぴったりとつく。指もしっかりと伸び切っていた。顔は変わらない。


「あの者らはウェラテヌスの人質だ。ウェラテヌスが責任をもって面倒を見るべき存在だ。それに、死んでしまえばアリオバルザネス将軍は全ての恨みをアレッシアにぶつけてくる。無事に生きていれば、恩義が浮かぶこともあるかも知れないだろう?


 害することは絶対に許さない。

 不当な扱いも然り。


 私が生きている内は、あの者達の安全を保障するつもりだ。


 例え、そのことを理解してアリオバルザネス将軍が家族を置いて行ったのだとしてもな」


(だとすれば、死ぬ気、か)


 連れ帰るよりも、此処に残りエスピラの庇護下にある方が安全だとアリオバルザネスが考えたのだとすれば。

 それは、自分の道に剣が埋まっていることを理解していると言うこと。あるいは、終点が見えてしまったのか。


「アイネイエウスも、そうだったよ」


「でしたら、ますます家族は捨てた方が良いのでは」

「黙れスペランツァ。ウェラテヌスの責任と言う言葉が聞こえなかったのか?」


 息を、短く吸う音が聞こえた。


「エスピラ様。まだ、子供です」


 ピエトロがスペランツァとエスピラの間に手を伸ばした。

 カリトンも首を振っている。

 スペランツァは、顔を白くして俯いていた。唇も真っ青である。


「悪かった」


 エスピラは、謝るとかがんだ。空気も柔和なモノに切り替える。


「ごめんよ」


 そして、愛息を抱き上げる。ゆっくり、やさしく背を叩く。


 少しすると、スペランツァが少し、ぴく、ぴく、と震え出した。

 泣いているのを我慢しているような。涙はこぼさないように堪えているような揺れだ。


「私はもう怒ってないよ」


 やさしく、父としての顔全開で言いつつ、シニストラ以外の者を下げさせる。

 カリトンもピエトロも、静かに部屋の外に出て行った。


「怖かったよな。悪かった。父が大人げなかったよ」

「べ、っつに。こわっ、く、あり、ませっ、んでした」


(そう言えば、本気で怒ったのは初めてかも知れないな)


 一緒に遊びもする。教育方針も定める。食事も一緒にすることだってある。

 が、基本的な教育は乳母に任せていた側面もあるのだ。


 ふざけて飛びついても軽くしか怒らなかった父親が、いきなり他の国の頭すら恫喝する雰囲気で怒ってくれば、それは怖い。ただひたすらに怖いはずである。


「本当に、私は悪い親だ」


 僅かでも、十歳になって叱られただけで泣くなんてと思ってしまったことも含めて。


 自分の駄目さ加減を、エスピラは自戒したのだった。


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