任地に、父が
「マシディリ様」
被庇護者であるレグラーレに呼ばれ、マシディリは収穫作業の手を止めた。
妹と同い年であるレグラーレの顔には少々の焦りが見て取れる。走って来たのか、汗もかいているようだ。
「少し外します」
マシディリは、現地の言葉で一緒に収穫作業をしていた者たちに告げた。作業者は礼と共に、されどやや親し気に返事をくれる。それを背に、マシディリは畑の中を通している道に出た。アビィティロが渡してきてくれた剣を腰に。マシディリだけを働かせることに抵抗のあるピラストロらはそのまま畑に残す。
「こちらです」
そう言って、マシディリにもあまり配慮していない速さでレグラーレが移動する。
そうなると、何があったのかはかなり絞られた。その予想の範囲内の、紫色のペリースが遠くに見える。近くではしゃいでいるのはフィチリタだろうか。畑から出たところの硬い地面に絹の布が張られていることから、母も来ているのだろう。
「父上」
どの言語を選ぶべきかの迷いは一瞬だけ。
マシディリは、現地の言葉で呼びかけた。父に何かを話し続けていた男の顔色が変わる。マシディリを見て、エスピラを見て。慌てて頭を下げていた。
(もうそこまで心を捕えていたのですか)
少しの暗雲は、晴天によって見えなくなる。
「気にするな。私がそうしてくれと頼んだんだ」
そして、エスピラが現地の言葉で頭を下げた者を手ずから起こしていた。へへ、と現地の者はかなりへりくだった笑みを見せている。
「父上は気にされませんよ」
マシディリも落ち着いたやさしい声で現地の者を下げさせた。
しかし、父の護衛らしいシニストラのかしこまった挨拶がマシディリへ向けられたことによって現地の者の顔色はますます悪くなる。
「本当に大丈夫ですから」
言いつつ、アビィティロに視線を送る。アビィティロが通訳の者を伴って現地の者に近づいて行った。
「父上。一言下されば迎えの者をよこしましたのに」
「悪いね。でも、息子の仕事ぶりを見たいと思う気持ちは、マシディリにもその内分かるよ」
あにうえー、と舌ったらずなアレッシア語でフィチリタが駆けよってくる。手には、この畑で育てていたニンニクが握られていた。
手伝ったの、と。父上の畑でも頑張ってるのよ、とフィチリタが胸を張っている。マシディリはそんな妹の頭を撫で、褒めた。フィチリタの顔がますます得意げに赤らむ。
「フィチリタも天才だぞ。畑のことは何でも分かる」
エスピラが朗らかに笑った。
「すごいね」
「すごいでしょ。この畑はね、良いよ!」
何が良いのかは言ってくれなかったが、可愛い妹が「私のお墨付き!」と言ったのでそれで良いことにした。
「フィチリタ。母上にも見せておいで」
「はーい」
と、素直にフィチリタが父の言葉に従う。
小さい手に大きいニンニクを握りしめ、ずぼ、ずぼ、ずぼ、と土を行くフィチリタの後をメクウリオがついて行く。父の軍団の軍団長補佐経験者とは言え、ディファ・マルティーマに居るはずの男だ。わざわざ連れてきたのには、何か意味があるはずである。
「すっかり信奉者だな。見慣れぬ異邦人扱いされているのかと思えば、優秀な同盟者、いや、指導者と言ったところかな」
フィチリタをとろけた笑みで見送りながら、エスピラが言ってきた。
「父上のおかげです」
「私は何もしていないさ」
「いえ。父上がたくさんの書物を用意してくださり、多くの賢人を集めてくださったからこそです。そして得られた知識を、現地の者を否定しないように気を付けながら伝えていく。否定の言葉を最低限にして、協力していく。今年は天候にも恵まれましたからうまく行ったのです」
「それはマシディリの願いをアレッシアの神々が聞き入れてくれたに過ぎないさ」
「父上が用意してくださった土台が無ければ為しえませんでした」
「マシディリが勤勉だからこそだよ」
此処までにしよう、とエスピラがマシディリの前に右手を出して振ってきた。
フィチリタは無事に少し硬い道まで出られたようである。迎え入れ先である母は、奴隷から濡れた布を貰っていた。手ずからフィチリタの手を拭くつもりなのだろう。
誰もが知っての通り、メルアはあまり汚れる場に出てこない。畑仕事もしない。基本的にはずっと家の中にいるのだ。その点はべルティーナとの関係に不安な点でもある。
だが、同時に子供たちは自分たちがどれだけ汚れていようとも母が嫌な顔せずに出迎えてくれることも知っている。いつも不機嫌そうな顔だから、と言うのは抜きにして、自身が汚れることなど気にせずに出迎えてくれるのだ。
「私が言えたことじゃないが、新婚なのにすぐに任地に戻って良かったのか? まあ、この様子を見れば戻ったからこそとも思えるが、新婚の期間は短いぞ?」
片側の口角を上げながら、楽しむようにエスピラが言ってきた。
対照的にマシディリの表情は引き締まる。
「そのことなのですが、父上」
マシディリの声と表情にか、エスピラの纏う空気も引き締まった。
「アスピデアウスは、私たちが、いえ、私が想定するよりもずっと昔からウェラテヌスと敵対することを考えていたのかも知れません」
瞬間に、父よりもシニストラの空気の方が引き締まった。エスピラは、不動。空気はやや戻ったか。
「何故、そう思った?」
「べルティーナ様が。べルティーナが、父上と母上を理想の夫婦に挙げ、大分心酔している様子でした。また、べルティーナが生まれた瞬間から私に嫁がせようとアスピデアウスは考えていたようです」
後者は言わない方が良かったか、ともマシディリは思った。
当然のことではあるのだ。反論はマシディリでも容易に準備できる。例えば、嫡男パラティゾをエスピラに預けたこと。友だけでは無く、深い関係を築こうともしていた。そう言えるのである。
「まあ、私とメルアはアレッシア人の参考にはならないが、そこまで悪い関係でも無いだろ?」
「その通りだと思います。私も、妻も、エスピラ様とメルア様を参考にさせていただいている部分も多くございます」
エスピラの言葉にシニストラがすぐに同意した。
マシディリは思わず論ずるための言葉を取り落してしまう。
「マシディリの言いたいことも分かる。べルティーナ自身もウェラテヌスのことを良く調べて来ているのだろうしな。だが、どちらかと言えば肩の力を抜くのが苦手だから、じゃないかな」
お前に似て、とエスピラが悪戯っぽく笑った。
マシディリは、先に落とした言葉を拾い上げるのをやめる。
「似ているのは、周りからの評価、見たい私達にすぎません」
そうだな、と駄々っ子を受け流すような声でエスピラが笑った。そんな意図があるかは判別がつかない。
「やり方は大きく違うだろうな。例えば、べルティーナならば部族一つ壊滅させたことをきっちり報告してくる。真面目だからな」
父にそんな意図は無かった。
全ては、この短剣を突き出すための見せかけに、陽動に過ぎない。
そう頭は答えをはじき出しつつも手足は固まってしまった。本気の父に縫い付けられてしまっている。圧倒的な経験の差を、まざまざと見せつけられてしまっているのだ。
「冗談だよ、マシディリ。『君』の報告通り、アレッシアの畑となり得る土地に押し寄せてきた賊を追い払ったに過ぎない。あくまでも自己防衛。軍事出動まではいっていないさ。だろう?」
澄んだ空気が、季節外れの冷たさを運んでくる。
空は青く、高い。いっそ青すぎるほどに。
「『エスピラ様』の言う通りです」
「旧式のスコルピオ。投石具。赤や黒に偏ったオーラ使い。マールバラも、音と光でかく乱したそうだね。昨年も、敵を引きずり込んで用意した対人兵器で一網打尽にしたとか。おかげで、敵対を続けた部族が孤立したらしいね」
意味するところは証拠が揃っている旨。
「……お褒め頂き、光栄です」
マシディリができるのは額面通りに受け取って受け流すこと。
「自身に忠実な百人の私兵は、疑われる対象にもなる」
「私兵ではございません。あくまでもアレッシアのために戦う同志。もう一つ付け加えさせていただくのでしたら、私の任は最初の接触でもあります。不幸な行き違いなどあってはなりません。そうなれば、信頼のおける者で固めるのは当然の帰結では無いでしょうか」
「たまたま武力に優れていたと?」
「私の父上は家族に過剰なほどの愛を注ぐようなお方。そうなるのもまた仕方の無いことかと思います。守りたい者には守れるほどの者をつけるのは良くあることです。
身を、美味しいからと言って熟れたりんごや食べる直前のチーズで包みますか?
いいえ。鎧を身に纏うはずです。
仲間を守るためには布切れ一枚で足りますか?
いいえ。盾を準備するはずです。
同じこと。父上も、私を守るために立派な方々を用意してくださったに過ぎないのです」
にやり、とエスピラが笑った。
「見事だ、マシディリ」
マシディリの頭に父の手が乗っかった。ぐわんぐわんと撫でまわされる。
どうやら、試験には合格したらしい。




