初夜 ー若い二人ー
「マシディリ様も御存知の通り、仲の良さこそが私がお義父様とお義母様を理想とした最大の理由です。遠くに居ても互いを案じる。想い続けると言うのはそうできることではありません。
やり方は確かによろしくありませんでしたが、お義母様はお義父様が気づくと分かっていてお義父様の不在時に浮名を流しました。ですが、結局のところ彼らはウェラテヌス邸の敷地に一歩も足を踏み入れることができていないはずです」
(確かに)
噂はマシディリも聞いていた。奴隷から、大人から。
だが、母と噂の人物が一緒に居るところは一度も見たことが無い。それどころか、父が遠くエリポスに居るにも関わらず、全員が死亡したのだ。
恐らく、母のオーラによって。
むしろ、そのオーラがあるからこそ母は自由に行動が出来ている。何かあるよりも殺して生じる不利益の方が良いと考えられるからでもあるだろうが。
「お義父様が書かれていた伝記にも、お義母様への恋文が混ざっているようにも私には思えました」
そうですか? と言う思いが顔に出てしまっていたのか。
べルティーナが「父上も書き写した後、文字がすり切れるのでは無いかと言うほどに読んでいたのです」と続けている。
「勘違いしないでくださいね。あくまでも、それはお義父様とお義母様の形だと理解しております。お義父様がお義母様を誰にも見せたくない、独占したいと思っているのは普段の行動から分かります。お義母様がそれを望まれているのも、家から全く出ないことなどから分かります。
お義母様がお義父様に他の女が近づくことを許せないのも、実姉に短剣を振りかざした事件に代表されるように誰もが知っております。お義父様が時には暗殺未遂を起こされるほどの憎悪に変わってしまうような拒絶をしたり、闘鶏を用いて神の真意を問うような真似をしたりしながらもお義母様の心に応えているのも知っております。
そのような、互いの思いがかみ合うような夫婦になりたいと思っているのです。
マシディリ様から見たお義父様とお義母様は、そのようには映っておりませんか?」
「互いの我儘がかみ合っているのは分かりますが」
と、どうしてもマシディリの歯切れは悪くなる。
「私には、父上から母上への愛情は行き過ぎたモノに感じてしまいます。ウェラテヌスの利益だけを考えるのであれば、シジェロ様からの求婚を受けるべきでした」
マシディリは、聞き耳をたてながら言った。
周囲の喧騒は変わらず。気配も無い。父や母の性格を考えれば本当に誰も近づけないようにしていそうでもあるが、同時に誰かを近くに置いていてもおかしくは無い。
「ですが、マシディリ様は今の結果に満足しておられるのではありませんか?」
「何故、そう思ったのですか?」
「『だけを』とわざわざつけていたからです」
意識的にせよ、無意識的にせよ、と言うことらしい。
「子供の前でも、くっつきすぎだと思います。この前も、母上を膝に抱えた状態で父上は夢うつつのご様子でした」
「でしたら、子供たちの前では私が気を付けます」
「子供たちの」
前では? と言い切る前に、マシディリは何とか言葉をちぎった。
が、十分に察せてしまったらしい。べルティーナの顔が紅潮し、髪の隙間から僅かに見える耳も赤くなっている。
沈黙。
のち、互いの動きが一致した。してしまった。
コップを持ち、水を一気に飲む。下ろす時も被ってしまう。
「これからは一緒に、いえ、父上は別荘に居ることが多くなりますが、べルティーナもウェテリの名を戴くことになる訳ですから。徐々に想像との差異も見えてくるでしょう。その時に、また詳しく詰めましょうか。
今はまず、互いを理解すること、でしょうかね。
良き婚姻、長きにわたる両家門の繋がりとなるためにも良い夫婦関係の構築は不可欠です。互いの我儘がかみ合うことも、尊重しあうことも、互いを知らねば始まりません。
そうですね。文通、から始めてみませんか?
今年の内は、私は任地に行かねばなりませんから。その間にも、互いのことを知るために手紙を書くのです。幸いなことにウェラテヌスは一番紙に困らない家門ですから。
如何でしょうか。
時間は、まだたくさんありますから」
始まりは早口で、徐々に落ち着いて。
これまでも数度だけ手紙のやり取りはしてきた。
だから、今回はもっと頻繁に。
そう言う意図のある言葉であり、通じるはずだと思えるくらいにはべルティーナを知っているつもりだ。
「それは構いませんが、子供の前での話は今すぐにでも詰めておいた方がよろしいのでは無いでしょうか」
初夜、とは即ちそういうことをする日だ。
加えて、アレッシアには子供を作る義務がある。夫婦関係が円満だと内外に示すためにも子の存在は便利なのだ。
それこそ、今では不仲で有名な叔母カリヨ・ウェラテヌス・ティベリと叔父ジュラメント・ティバリウスの間にもすぐにルーチェ・ティベリウスが生まれたように。
ただ、マシディリにとっては「子供たちの前」はまだ先の話。すぐに詰めるべき話題では無い。
ぐ、とコップを強く握る。冷たさも十全に感じてから、マシディリは手に力を抜いた。代わりに目に強い意志が宿る。
コップは、脇に。
「初夜の、務めは果たします。それで授かればそれは天命と言うモノだと受け入れましょう。
ですが、私は、まだ子を作るつもりはありません」
べルティーナの表情は変わらなかった。
ただし、意思ではどうしようも無い部分。目の黒い場所にのみ動きがある。
「お続けください」
先ほどよりぬくもりの消えた声がマシディリの鼓膜を揺らした。
マシディリも、退くわけにはいかない。
「この婚姻は、長く続ける必要があります。しかし、出産とは命がけの行い。しかも母体が若すぎると危険も大きくなってしまいます。べルティーナ様はまだ十四。とても。とても。仮にユリアンナが結婚したとして、すぐに子を授かってしまえば私は心配でたまらなくなってしまうでしょう。
それに、母上が私を産んだのは母上が二十一の時です。そこから、実に八回九人の出産を無事にこなしました。やはり、それぐらい待った方が良いと思うのです」
会話の最中に閉じていたべルティーナの両の目の内、右目だけが開いた。
「生まれた時が、と言うことは、子を宿すまでにあと六年もございます。結婚して六年も子が出来ない夫婦が、どのように言われるかは御存知ですよね?」
足と腕を組んでいそうな雰囲気だ。
「父上と母上は理解してくださると思います。パラティゾ様も説得できるでしょう。ですが、私には残りのアスピデアウスを説得させる力はございません。申し訳ありませんが、私では総ての悪意からべルティーナを守れないのです。そして、そうと知りつつも提案させていただきました」
ただ、マシディリもその雰囲気を真っ向から受けて言い放った。
一歩も引いていない。むしろ、強引さを少なくしてはいるが押し込んでいる。
べルティーナの両目が開き、ため息がこぼれる。
「私のことは良いのです。
兄上と私の年齢差は実に十四。その間に居る二人の姉も結局十は離れております。お義父様とお義母様のように度々生まれている訳でも無いのです。ウェラテヌスと結婚させるために作られた子。売られるための子などと揶揄されてまいりました。
ですが、それでも私はアスピデアウスの娘です。
血だけの繋がりの者達などよりも、ずっとずっと、私は誇り高く生きるつもりです。生きてきたつもりです。
繋げるのはこの矜持。失ってはいけないのは家門の誇り。
血の繋がりだけでどうこう言う者達など、私を知らずに私達を批判する者達の言葉などに私は耳を貸したりいたしません。
悪意から守れずとも結構。
貴方はウェラテヌスを受け継ぐもの。私もアスピデアウスの娘。
アレッシアの貴族として、建国五門として互いに独立した立派な人格でしょう?
ですから、私はマシディリ様がその批判も受け止められるかだけが知りたかったのです。
最も、杞憂だったようですけれど」
強いな、と言うのがマシディリの正直な感想であった。
とても、先ほどまで緊張していた人と同じに思え無い。いや、マシディリは緊張に気づくのが遅れたのだ。ある意味、こういった演技などは上手なのかもしれない。
「不安でしたら、宣言してきましょうか?」
ただし、マシディリは大真面目に踵を返してしまった。
「お待ちなさい!」
べルティーナの声が響く。
振り返れば、あ、とべルティーナが手で口元を覆っていた。
「……お待ちください。口から言葉を出す時は、慎重にしないといけません。言った言葉はもう戻ってこないのですから」
「なれないのでしたら、いつも通りの言葉遣いでも」
「大丈夫です」
食い気味で言ってきたべルティーナに、マシディリは体を向けて案じる笑みを僅かににじませた。べルティーナの頬が膨らむように顎が少し上がる。顔も横に。
「問題ありません」
が、雰囲気がもとに戻る。
真剣なものに近いように思えた。紅潮も無い。頬の膨らみも、また。
「それより、子供をしばらく作らない理由は、それだけですか?」
「ああ、と。まだ、私に親になる心構えができていないと言うのもありますが……」
言いながらも、べルティーナの顔を観察する。
どうやら、納得はしてくれていないようだ。
(何を求めているのでしょうか)
答え、と言うのは分かっているのだが。
「いえ。良いのです。それならそれで構いません。それよりも、今は初夜はきちんと済ませましょう。そのために来たのに、此処まで押してしまいましたから」
べルティーナが淡々と言った。いや、どこか『貴方の所為ですよ』と言っているようにも聞こえる。しかも、手に力も入っていないし、足の力も抜けているようだ。完全に余裕の態度。こちらはまったく問題なかったと強がっている。
むっく、とマシディリの中に悪戯心が立ち上がる。
その心に従い、マシディリはべルティーナに近づいた。細い肩に手を置き、一気に、されどゆっくりと気遣いながら寝台に押し倒す。
「緊ちょ……う……」
していたのはどなたですか? などと揶揄しようと思ったのも一瞬で。
真っ赤になって完全に固まったべルティーナを見れば、マシディリもすぐに固まってしまった。
心臓もうるさくなる。喉もカラカラに。口が開けないほどに。手も動かない。呼吸は、どうやって行っていたっけ? そも、体はどう動かすのか。
最早顔の逸らし方も分からず、互いに見つめあい続けた。
べルティーナは赤い。マシディリも顔が熱い。
ど、と言う笑い声が、遠くから聞こえた。
マシディリも何とか再起動する。
「で、では、失礼、します」
言って、顔を近づけたが先に鼻と鼻が思いっきりぶつかる。
衝撃で起動したらしいべルティーナがマシディリの首の後ろに手を回してきた。べルティーナが動く。
が、今度は歯と歯が思いっきりぶつかった。
「あでっ」
「べっ」
互いに変な声が漏れ。
ひとしきり痛みに耐えた後でまた互いの目が合う。
それから、どちらともなく笑いだしたのであった。




