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想い人

 エスピラが久々に家に帰ると、またしても壺が飛んできた。


 横の壁にぶつかり、今度は水と華が落ちていく。割れた壺は、タイリーがペッレグリーノを伴ってきた時についでで置いていったお土産のものだ。


「ねえ。身重の妻を置いて遅帰りだなんて、随分と偉くなったものね」


 人前だからか、睨みつけてくるメルアは息子の鳴き声を聞いても一切の注意をそちらに向けてはいない。


「今度は手紙でちゃんと伝えただろ? マルハイマナにも行くことになって、それからマフソレイオに戻って、カリヨの婚姻についても重要な話があるからディファ・マルティーマに寄るって」


 ディファ・マルティーマはアレッシアの植民都市である。

 ジュラメントのいるティバリウス家の家がある半島南部の港湾都市だ。


「あら。前は随分と渋っていたのに今回は紙を使うなんて。そんなに女王の寵愛を受けられたのかしら? セルクラウスの者を差し置いて別の女性にうつつを抜かすなんて良い度胸じゃなくて?」

「そんな関係じゃないと言っただろ」

「うるさい!」


 メルアが投げた布がエスピラに当たった。


 はしたない足音を立てて、メルアが離れて行く。投げられた布を広げれば、赤子のための衣服であった。


(これも、誰かから頂いた物だったかな)


 自分が買った覚えがなく、メルアが買い物についていくことも無いので、恐らく、きっと。


「弁明しなくて大丈夫?」


 ひょっこりと、妹が顔を出してきた。


「疚しいことは何もない」


 エスピラはため息交じりに返すと、ペリースを外した。

 恐る恐ると近づいてきた家内奴隷にマントを渡し、泣いているマシディリの元へ。


「怖がらせてごめんな」


 乳母の腕の中であやされている息子の頭をなでてから、エスピラは左手をマシディリの額に置いた。その上に、口づけを落とす。


 神牛の革手袋越しの口づけ。運命の女神の加護を与える、運命の女神の加護を願う儀式である。主に運命の女神を信奉する『親が自身の子にする』行動である。


「父は、母上のことが嫌いな訳じゃないんだよ」

「むしろ好きすぎるんでしょ?」


 妹の軽口を無視して、エスピラは家の中央、椅子に座る。

 一息つくと、ワインと少し乾いたパン、そして温め直したのであろうスープと白身魚のサラダが出てきた。野菜がやや少な目で、魚が不自然に多い。


「それ、メルアさんが食べなかった魚だよ。メルアさんもお兄ちゃんに負けないくらい白身魚好きなのにね」

「そうか」


 野菜が少な目だと言うことは、メルアは野菜は食べた、と言うことだろう。食欲がない訳では無いらしいと、エスピラは少しばかり安堵した。


「いや、「そうか」じゃなくてさ。メルアさんのところに行った方が良いんじゃないの?」

「疚しいことがあるわけじゃないと言っただろ? 第一、私は娼館にも行ったことが無いんだ。不能だと言われようと何と言われようと」


 エスピラは伸ばしかけた手を置いて、カリヨに少し強めに返した。

 カリヨはどこ吹く風で兄を見ている。


「で? 運命の女神様に誓ってメルアさんとしか経験が無いと言えるの?」


 エスピラの眉間に一瞬皺が寄った。

 視線を逸らし、右手は伸び切らない指のまま何かを叩くかのように小さく上下に動く。


 それから、エスピラは重く鋭く一息吐いた。


「ウェラテヌスのためだ。情も無く、屈辱しかない。良い思い出じゃない。できれば火にくべたい記憶だ」

「あるんじゃん。疚しいこと」

「結婚してからは一度も無い」


 少々声が大きくなったことを自覚して、エスピラは周囲をさっと見回した。

 馴染みの家内奴隷たちは何も言わずに各々リラックスしている。


「そうやって言葉が変わるからメルアさんも不安になるんじゃないの?」


 エスピラはワインを一口飲むと、身を乗り出した。


「私はメルアを優先した。何よりもだ。メルアを、十分大事にしている」


 じゃないと、神官の職務を投げ出したりしない。不確かな情報にも関わらず全力を傾けたりしない。亡命なんて考えたりしない。


「いや、お兄ちゃんがメルアさんのことを周りの人が少し引くくらい好きなのはお兄ちゃんに近い人は皆知ってるんじゃないの? でも、肝心のメルアさんに伝わってないじゃん」

「誰がそんなことを言った?」

「お兄ちゃん、メルアさんへの好意は隠せてないよ」


 エスピラはまたもや息を吐きだすと両手を合わせて顔を再度そむけた。


「カリヨ。婚姻についてだが」

「その話は今じゃなくて良いし、本当にウェラテヌスのためになるなら私は何でも良いよ。逆に、ウェラテヌスのためにならないのなら、どんなに顔が良くても声が良くても性格が良くてもお断りするから。そんな結婚に、塵ほどの価値も無いもの」


 エスピラは今度は鼻から息を吐きだしていく。

 エスピラが何も言わない間に、カリヨが呆れたような目を向けて来た。


「あーあ。でも本当に私が結婚しても大丈夫なのか心配だな」

「お金のことなら」

「そうじゃないってお兄ちゃんも分かってるでしょ? 第一、お金はもうもらったよ」


 エスピラの誤魔化しの言葉をカリヨが途中で切って捨てた。

 エスピラはしばらく上下の歯を強くくっつけてはいたが、やがて力を抜くと吐き出す息と共に立ち上がった。


 椅子も仕舞う。


「後でまた食べに戻る。温かいうちに食べられなくて済まないな」


 エスピラは料理係の奴隷にそう言うと、メルアの寝室へと足を進めた。

 ノックもそこそこに入る。


「何」


 メルアの低い声とエスピラの大好きな匂いが同時にやってきた。


「良いんじゃないの? 貴方は貴方で楽しめば。私は私で男を連れ込んで楽しみますから」

「メルア。私にはそんな関係の者は一人もいない。ああ。今は、だけどな」


 何かを言いかけたメルアを、エスピラは強引に右手で口を塞ぐことで言葉を挟ませない。

 代わりに、右手が噛みつかれた。

 気にせずにベッドの上に押し倒す。


「昔は、まあ、あまり思い出したくないがあるにはあった。だが婚姻前だ。そりゃあ、メルアと関係を持った後ではあったけど、そうじゃないとメルアと婚姻できない可能性もあったんだ。理解してくれ。今更、私は君を手放せない。分かるだろ?」


 答えを求めるべく、エスピラは右手をメルアから外した。

 言葉の代わりに歯がエスピラの首筋に埋まる。


「分からない」


 そう言ってから、メルアがエスピラの左腕に噛みついてきた。


「メルアは、前アレッシアも一門もどうでも良いって言っただろ?」

「ええ。言ったわね」

「私は、ああ、なんだ。間違ってもそんなことは言えないが」


 その、とエスピラは言葉を濁して目を上に逃がしてしまった。


 なんと、紡げば良いのか。このお嬢様に。


 自由恋愛は奴隷の特権である。あるいは、上を目指さない一般市民の特権だ。

 貴族は確実に一門のためになる結婚をするべきであり、それこそが最高の結婚だと言う意識はエスピラにもある。その点、今一番力のあるセルクラウスとの婚姻は凋落したウェラテヌスにとっては願っても無い良縁だったのだ。最高の結婚だったのだ。


 そこに、自身の感情を絡めるとどうなるのか。


 自分が思う分には良い。貫く分には良い。

 だが、相手に伝えるのはどうなのであろうか。

 それは、奴隷と同じ、あるいはセルクラウスにとって屈辱的な平民と同じというモノを抱かせはしないだろうか。しかも相手はセルクラウスの箱入り娘であるメルアだ。所々にセルクラウスの血を感じなくも無いのである。


 そう思うと、完全に止まってしまったのだ。


「あの子、泣き止んだみたいね」


 言葉を受けて、エスピラはメルアに目を戻した。

 どうやら、エスピラの言葉を待ってくれていたらしい。


「寂しいか?」

「まさか。普通は乳母の世話を受けて成長するものでしょう?」

「そうだな。でも、私はマシディリの成長まで見れなくなってしまえば寂しく感じるよ」


 メルアの目に責めるモノが戻ってきた。

 見間違え出なければ、傷ついたような色も浮かんでいる。


「心配するな。私の長子はマシディリ。確実に私の子であるのは、メルアが産んだ子だけ。疑わしい者を産みし者は、彼女にとって愛しき自身の罪の証に殺される運命だと定められているともさ」

「私みたいに?」


 メルアの挑発的な声に、エスピラは優しい口づけで返した。

 ゆっくり。長く。メルアのやわらかい髪を撫でながら。


「夕食の魚。嬉しいよ」


 離れてから、数秒見つめ合って、エスピラは優しい声を出した。


「違う。貴方のためじゃない。食欲が無かっただけ。それだけだから」

「そうか」


 それならば好物を先に食べると言うのはエスピラが一番良く知っているが、温かいものと一緒に胸にしまい込んだ。


「カリヨとも上手くやってくれているようで安心したよ」

「別に。あの子は安全だから用意してあげても良いって思っただけ」


(用意?)


 これまでのことを総括していったつもりだったが、用意とは何のことか。


 些細な引っ掛かりであり、マルハイマナやマフソレイオでのエスピラなら完璧に隠せただろう。


 だが、ここは家で、居るのはメルアだけ。

 引っ掛かり、疑問が顔に出てしまった。


 何の用意だろうか。何をどう用意したのだろうか。思考が、そこで止まる。


「いえ。あの略奪野郎が仮にも父親ならば娘の好みぐらい分かるものでしょう? それなのに気に入らないモノばかり持ってきたものですから。それを処分して、余ったお金を渡しただけです」


 持参金、もとい結婚式にかかる諸費用を、タイリーに強請ねだった衣服を売ることで用意した、と言うことだろう。


 そう言えば晩餐会の折に『持参金も用意できない一門』とフィガロット・ナレティクスに煽られた時に一緒に居たか、とエスピラは思い至った。


「メルア……」

「何。ベロルスの哀れな女がそれはそれは高額で買い取っていったのだから、その余剰金は流石に渡してないのだけど。それで良いでしょう?」


 何かを企んでいるかと思ったか、あるいは媚を売るためか、あるいはもっと別のナニカか。

 それは分からないが、タヴォラドに叩かれたベロルス一門はこれ以上の失態を防ぐために意味の無い出費で口封じに走ったと言うことだろうか。


「苦労をかけたな」


 エスピラはメルアを優しく抱きしめて、後頭部を髪にそって壊れ物を扱うかのように撫でた。

 メルアは抵抗してこない。されるがままになっている。


「別に。エスピラは関係ないから」


 そう返してくることは分かっていた。

 でも、そんな訳がない。

 メルアなりに、ウェラテヌスについて考えてはくれているのだろう。言われたら思うところもあるのだろう。


 早々に第二子まで身籠ってくれたメルアは、間違いなくウェラテヌスに良く貢献した人物だ。誰が、なんと言おうと。


(もしかしたら、私よりも)


 確かに、メルアの功に対して何かしてあげられたかと言えば、何もしてあげられてはいなかったなと、エスピラは思った。


「メルア。明日は、一緒にゆっくりしてくれるか?」

「……別に良いけど」

「ありがとう」


 言って、エスピラはゆっくりとメルアをベッドの上に寝かせた。そのまま頭をなでるが、メルアは嫌な顔一つせず、むしろ顔を寄せてきてくれる。

 その後もメルアが眠るまでエスピラはメルアの頭をなでていたが、不思議と覚えていたはずの空腹は一切感じられなかった。


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