九番目の子となる四女
最愛の人の匂いがする。久しぶりの、ちゃんとした匂いだ。
ただし、その彼女は幕の向こう。白い絹の幕が部屋を横断し、直接は見えないようになっている。寝台の横に備えられた椅子がエスピラが座るべき場所か。
ただ、他の物も少なく、メルアの傍にも紙が積まれているような影を浮かべている机があるだけである。
「ありがとうメルア。メルアが無事で本当に良かった」
子供たちも奴隷も完全に下げているからこそ、エスピラは本当に心からの声を出した。
メルアからの返事が無いのを不安に思いつつも、椅子に座る。硬い。やわらかいはずなのに、かなり硬く感じられる。
エスピラは、静かにされど大きく息を吸い込んだ。吐き出す時も体を動かさないようにしつつゆっくりと大きく。
目はメルアに固定される。視線も徐々にやわらかくなった。
そんな視界の下に、メルアの手が現れた。
「見ないで」
そうは言っているが、手は布に戻って行かない。
「分かったよ」
エスピラは答えつつ、妻の手を握った。
汗ばんでいる。細く、そしていつもよりも肌にも疲れが見えた。
「感触も忘れて」
「はいはい」
忘れないだろうな、と思いつつ。
愛妻に関することなのだ。エスピラが、容易に忘れることができる訳が無い。
そのことをメルアがきちんと分かっているかは分からないが、エスピラに今の自分を認識してほしくないと思っている割にはしっかりと手を握り返してきた。ぎゅ、と。やや強く。珍しいことに、縋るような色のある強さで。
いや、縋るような、はエスピラの主観だろうか。
思うところがあるからこそ、メルアにそれを重ねているからだろうか。
「…………九番目の子が、四女となる女の子、ね」
そんな思考をしていると、メルアがエスピラが思ったようなことを呟いた。
子の順番が違う。
そもそも、母親も同一だ。
トリアンフのような屑とマシディリは全く違う。ユリアンナはプレシーモのようなへまはしない。確かにタヴォラド様と比べればクイリッタは厳しい戦いになるかも知れないが、そもそも才能の使いどころが違う。リングアにコルドーニのような野心はない。
そのような言葉は、思い浮かびつつも喉まですら上がってこなかった。腹の底にあり、水泡のようにすぐに消えていくのみ。
「すぐに、調べさせるよ。処女神の神殿の神官にはある程度話は通してあるからね。理由は、なんとでも。マシディリには悪いけど、マシディリの結婚式に向けて知っておいた方が客をもてなすのに役立つから、が一番の理由になるかな。料理にも反映させられるしね」
本来なら生まれた子のオーラの色を調べるのはもっと後になってのことだ。
赤子の内に調べるなど、そうそうあることでは無い。
「……そう」
そこから、また少し静寂があり
「子供たちは?」
とメルアの質問が続いた。
「生まれたばかりだから遠巻きにな、とは告げてあるよ。触れないように、とも。念のためユリアンナには私のオーラを良く流し込んで置いたけどね」
どこまで効果があるかは分からないが、一番触りそうな長女に防護を施しておくに越したことはない。
ぐ、とエスピラの手が握りつぶされんばかりに握りしめられた。
もちろん、力の主はメルアだ。だが、いかんせん力は足りていない。
「自分の意思に因らない罪は、重いの。私はあの子にそんな思いをさせたくないから」
そして、メルアの手が小刻みに震え出した。
「大丈夫だ。そんなことはさせないよ」
エスピラはおだやかでやさしい声を心掛けた。
メルアの手も両手で握り、ゆったりとオーラを流し込む。感知できるかは分からない。否。できない可能性の方が高いだろう。他の者には露見したことは無いのだから。
「病気では、ないのだけど」
メルアのやや不機嫌そうな声が聞こえてきた。ただし、口角がゆがんでそうな声でもある。
感知が出来たのは、流石と言うしかないだろう。
「そうだね」
言って、エスピラはオーラを弱めた。メルアの手が強くなる。
やめろとは言っていない。そう言うことだ。
「ねえ」
「ん?」
「私、まだ……、エスピラと、いたい」
最後は、本当に消え入りそうな声で。
静かで物の少ない部屋だからこそ聞こえたような声だ。
「忘れて」
だが、次の声ははっきりとしたものだった。
メルアの手はそのままだが、体はそっぽを向いたのが分かる。産後で辛いだろうに、エスピラに背を向けたらしい。
「分かったよ」
「……そう」
「でも、私がメルアと一緒に居たいから、しばらくはこのままで良いかい?」
「そう」
好きにすれば、との呟きが姿勢を変えないメルアからやってきた。
やさしい笑みを深めながら、エスピラは流し込むオーラを増やす。まるで、子守唄を歌うように。おだやかに。そよ風のように。あたたかな春の陽ざしのように。
「ねえ」
「ん?」
「本当に居るつもり?」
「ああ」
「うそ」
「まさか」
「あら。気づけばいつも遠くにいるのに?」
「メルアといるために、さ」
「そう」
「そうさ」
「そう」
「ああ」
「うそ」
「嘘じゃない」
「七本」
「全て破棄したよ」
「ユリアンナが、でしょう?」
「どのみち応えるつもりは無かったよ」
「そう」
「そうさ」
「貴方は人気者だものね」
「愛しているのはメルアだけだよ」
そう、と言ったメルアの最後の声は、少し間延びしていて。
「おやすみ、メルア」
エスピラがやさしい声音で告げれば、布の向こうの影がこくりとゆっくり落ちるように頷いたのだった。




