ウェラテヌスの隆盛とは
マシディリは、ピエトロが机に額を向けている隙に口元に手を当てる。ぐ、と手を使って緩んだ表情を何とか引き締めた。しかし、引き締めれば沈めておきたかった不安も首をもたげる。それも、何とか表面からは押さえつけた。
「ピエトロ様が欲するものは分かりました」
マシディリの声の後、ピエトロの頭が上がった。
だが、マシディリ自身が話を続ける。
「しかし、財務官ともなれば私が自分で判断し、力を発揮しなければならない時もあるでしょう。ですが、私は何も知らない若輩者。果たして財務官が務まるのか、不安でならないのです」
ピエトロの目が一段深くなった。
呼吸はそのまま。背筋も伸びたまま。ただ、大きな瞳孔はしっかりとマシディリを吸い込んでいるようである。
「私はエスピラ様の考える序列の中では低いでしょうが、力の限りお支えいたします。グライオ様とアルモニア様も元老院議員選挙に出て、エスピラ様の影響力の保持に努める予定となっております。カリトン様もおそらく担ぎ出されるでしょう。何も、心配はいりません。民会にもファリチェ様が居られます。我らでエスピラ様と言う像を作り上げるのです」
マシディリは目を閉じた。
いやいや、マシディリ様。そこまで重く考える必要は無いですよ。マシディリ様は優秀なんですから。困ってくれるぐらいがこちらもエスピラ様に目をかけていただいた甲斐があると言うか。なあ。アビィティロ。何か言えよ。
と、ヴィエレがまくし立てていた。
くすり、と浮かびかけた笑みを一度鎮める。
次に父が酒宴に使うような笑みを意識し、真似しながら目を開いた。
目の前ではヴィエレがピエトロの頬に指をうめている。ピエトロはやはり反応していない。
が、そんなことができるくらいには二人の間には信頼関係があるのだろう。
素で笑いかけた顔を引っ込めかけて、そのままにした。
ヴィエレも嬉しそうに笑い返してくれる。
マシディリは、一度頭を下げ、もう一度、笑みを引っ込めないままピエトロを見た。
「かしこまりました。力の限り務めあげようとおもいます。ですが、初めてのことで至らぬところも多いでしょう。私も自分で考えて動きますが、どうか、ご助力の程お願いいたします」
頭を下げた。渡したのは闘争の権利。
ただし、担ぎ上げるには重いぞとも釘を刺して。
「良くご決断してくださいました。エスピラ様の被庇護者も喜びましょう。軍団の者も喜びましょう。エスピラ様は未だに健在だと、これで知らしめることができるのですから」
ピエトロが返してきたのも釘だろう。
(しかし、そうですか)
ウェラテヌスと等号で結ばれるのはエスピラ。
父のみがウェラテヌスであり、他の者はウェラテヌスを名乗ったところで空虚なモノ。血筋しかない、何の意味も無い言葉の羅列。
なるほど。
父は財も無く実績も無く人もいない状況から、見事にウェラテヌスと言う家門を立て直した。アレッシア有数の、三本の指に数えられる家門にまで持ち上げた。
だが、それはあくまでも父上の力だ。
エスピラが居なければ、ウェラテヌスは弱小と同じ。
奇しくも、メントレーしかいないと言われたニベヌレスと同じこと。ニベヌレスはその後にヴィンドが出てきて盛り返したが、今はその影をまた薄くしている。
これは、父が望んでいることだろうか。
否。望んでいるはずが無い。
(ウェラテヌスの隆盛は、父の活躍だけでは成り立たない)
ウェラテヌスが再び建国五門としての力をつける。二度と沈まなくなる。家門として信頼される。
そのために必要なのは、マシディリを始めとする子供の代の活躍。そして、その子、エスピラにとって孫にあたる人物の活躍。
そのための第一歩が、マシディリの若手の財務官就任だとしたら?
父ですら二十一歳での就任だった。そもそも、父の時は最も若くて十八歳。ところが、戦争の影響で成人年齢が十五歳になった。その影響で財務官を始めとする官位の最年少は十六。成人年齢が引き下げられない限り、これを下回ることはできない。
そして、エスピラと言う巨石が退けられたことによりマシディリに出番が回ってきたのだとしたら。それを分かっていたのだとしたら。
(ウェラテヌスの隆盛を託されたのは、私たちですか? 父上)
心の中の問いかけもそこそこに、ピエトロと簡単に選挙までの時間を詰める。日程や計画を詰め、それからピエトロを送り出した。また来ると。軍団が解散になればもっと自由に来れるようになるからとの話を受けながら、見送った。
「今日は表情が忙しかったですね」
と、夜になってピラストロが言う。
「難しく考える必要はありません。何事もやってみることです。エスピラ様は、挑戦しての失敗には寛容ですから」
アビィティロが年長者らしくおおらかに言ってきた。
分かってないなあ、とピラストロが指を振る。
「ピエトロ様はマシディリ様がエスピラ様のお子であると疑いなく言ったんだぞ? 確かに言い方はきつかったけど、どちらかと言えばエスピラ様に甘やかされていることを危惧してじゃないかな。まあ、どちらにせよ、エスピラ様の子だとあの人は微塵も疑ってない」
「当然のことだろ」
と、アビィティロが眉間に皺を寄せ、眉を高くして言った。
きちんとマシディリから全てを反らし、ピラストロだけに凄んでいる。
「ほうら。ほらほら。アビィティロはずっとエスピラ様の傍にいたから知らないんだろうけど、未だにうるさい奴もいるんだぜ? マシディリ様の実の父親はエスピラ様じゃないって、不義の子だってうるさい馬鹿の多いこと多いこと」
「そんな者いな……それほど多くない。マシディリ様はエスピラ様の実の子だ」
アビィティロが短剣を掴んだ。
ピラストロが慌ててマシディリの背中に隠れる。笑いながら、マシディリはアビィティロに落ち着くように言った。両手をゆっくり動かして、ピラストロも私のことを想ってくださっているのです、とフォローする。
「私も、この剣で虚偽の話を嬉々として話す人としておかしい者を成敗するために柄を握ったにすぎません」
アビィティロが清々と言いながら短剣から手を放した。
ピラストロがひょこ、とマシディリの背中から出てくる。
「私にとっては二人とも大事な兄貴分です。喧嘩はやめてくださいね」
マシディリは穏やかに言った。
アビィティロがそのようなことを言っていただき光栄ではございますが、私にとってはマシディリ様は庇護者。支えるべき存在であり尽くすべき存在であります、と言ってくる。
ピラストロは弟分に宥められる兄貴分ってのも格好がつきませんね、と笑っていた。
マシディリは感謝しつつもその笑みが作り物であるとの自覚が深くなってしまう。
(ウェラテヌスとは即ち父上。この二人も、結局は)
いや、失礼だ。
そう振り払おうとしても、液体のようにくっついたままになる。振るだけでは払いきれない。必ず残り、そこから広がっていく。
越えるべき存在としての父。
引き継ぐ存在としての父。
それが、これほどまでに恐怖の対象だったとは。底なし沼であり、寸分の先を見ることも許さない闇だったとは。
これまで思ってもいなかったモノを知覚させられ、マシディリは嫌な渇きを覚えたのだった。




