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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第十三章
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高揚と鈍痛

 マシディリは、革手袋に覆われた自分の左手を握って開いた。もう一度握る。

 心臓の音は今でも聞こえるが、緊張はほとんど感じない。むしろ心地良いくらいだ。

 ついでに視界に入っている紫色のペリースは父が使っているモノであり、いつも通り父が見守ってくれているような気がした。


(うん)


 高揚だ。

 今、楽しんでいるしこれからが待ち遠しく感じている。

 何を行うのかを考えればそのような感情は不適であるにも関わらず、自身の心は弾むように滾っているのだ。


 だからこそ、マシディリは机の上に置かれた父と似た髪色のカツラに目をやった。


 全ての音は一気に消える。

 瞼が先よりも落ちたのも知覚した。


 そして、マシディリの目が上に行き、指で自分の母に似た色の髪をつまんでしまう。


 口にして怒られるのはまだ良い。悲しまれるのが辛いのだ。特に、家族想いのユリアンナが弟妹で一番マシディリに懐いたと言えるようになった時期は、その話を理解し始めるであろう頃と一致しているのだから。


「まだ体が成長途中ですので完全に見間違えることはございませんが、背格好ではエスピラ様を良く見てきた私たちでも戸惑うほどのモノがございますよ」


 カリトンが穏やかな声で言ってきた。

 ありがとうございます、とマシディリは丁寧にやさしく頭を下げる。


「指揮官とは、誰よりも情が深く冷淡であり、誰よりも自分に酔いながら自身の決断を疑い、誰よりも利を分配し己の利益に強欲でなくてはならない。


 お爺様がおっしゃっていたと父上からお聞きした言葉です。

 常に相反する感情を持つのは必要なことなのでしょう」


 事実と言われていることを疑うのも、と言う言葉は余計な誤解を招くと思い、口にしなかった。


 実際に目に見えて吐き出したりはしないが、息を吐いてマシディリはまっすぐ前方を見据える。目の前に居並ぶのは歴戦の、現在のアレッシア最高峰の高官たち。父エスピラが見てきた光景に近いはずである。


(いや)


 違うかな、ともマシディリは思った。


 カリトンは父と居る時よりも穏やかな顔に見えなくもない。


 ヴィエレは父が此処に座っている時はまだまだ若くて勢い任せにも見えるような、まさに伸び盛りの若手だったが、今は呼吸も深く見えた。口角にもゆるみに似た余裕があり、肩もしっかりと開いている。

 言い方は悪いが、背伸びをして大人びている様子を出しているようにも思えてしまった。


 何よりの大きな違いは、エスピラにとってのシニストラのような存在がマシディリには居ないことだろうか。


 常に父の背を守ってきたシニストラのような存在がつくのではないかとマシディリは思っていたのだが、実際は用意されていなかったのである。そして、それが期待していないからや命を軽く見ているわけでは無いとマシディリは理解している。


 父のことだから、きっとそう言ったマシディリが全幅の信頼を寄せるべき相手は自分で見つけて欲しい、自分で選んだ人で構わない、そういう人と出会って欲しい。そんなことを思っているのだろうと。


 そして、変わらないようで違うのは第二軍団の軍団長であるグライオでは無いのかとマシディリは思った。


 現在、第二軍団は第一軍団とオプティマの軍団を繋ぐような位置に居り、主に物資の運搬や高速機動のために置いてきた攻城兵器の運び込みを行っている。その指揮をルカッチャーノに任せ、父の片腕とも言えるグライオが第一軍団にきているのだ。


 役目は明白。助言と監視、あるいは採点だ。


 いつも黙っていることが多い男だが、今回はギリギリを見極め、あるいは途中でマシディリと代わることもあるのだろう。


(積極的につけないのはベロルスだからですか?)


 父とグライオに心の中で尋ねるも、当然答えは返ってこない。

 革手袋が音を立てるだけ。


 自分の父親と言われている者の一人にはベロルスの者も居る。だから、グライオは近づいてこないし、エスピラもマシディリに近づけようとしていなかったし、基本的には家にも呼ばなかった。


(ひとまずは、あと)


 ぐ、と目を閉じてマシディリは耳を澄ました。

 少しすれば天幕が開く静かな音が鳴る。すぐにまた布の音がして、ほぼ無い足音が近くまで来て、止まった。


「全員揃いました」


 声の主は先ほどまでは居なかったソルプレーサ。

 先のほぼ無い足音の主でもあるはずだ。


 マシディリは、悟られないように気を付けながら大きな呼吸を行う。


 それから、目と共に口を開いた。


「軍事命令権保有者とは、神と元老院に認められることによって元老院に代わりあらゆる権限を行使する者を指します。父上は、確かに私が父上の代わりとしてこの軍団に立つように言われました。ですが、私は元老院には認められておりません。それでもよろしいのでしょうか?」


「もちろん!」


 真っ先に威勢の良い声を上げたのはヴィエレ。


 フィルムがヴィエレの威勢によってか少し顔をしかめたが、すぐに穏やかな顔で頭を下げてきた。

 ピエトロが礼に従った肯定の返事をくれ、カウヴァッロが抜けた声で「良いんじゃないですか?」と言っている。


 カリトンやグライオあたりは、マシディリ自身が譲る気が無く、ただ推戴される形を取ろうとしているのを見抜いているのだろうか。


 もちろん、マシディリ自身もこの軍団はきっとマシディリの言うことも聞くのだとは理解している。それでも、打てる手は打っておくに越したことはないのだ。


 だからこそ、マシディリはペリースの下から父の動きを真似て少し厚い羊皮紙を取り出した。


「皆様の覚悟、非常に嬉しく思います。ですが、ご安心ください。此処に、父上からの指示書がございますので、私は基本的にこれに従って皆様に指示を出させていただきます」


 確かに羊皮紙に書いてあるのはエスピラの字だ。

 だが、内容は遠征先でどのようなモノを見たのか、弟妹はどれが好きそうか、これなんか似合うんじゃないのかと言った他愛のないモノが大半である。真面目な内容もすでに古い話。エリポスの時の内容である。


「しかし、状況によっては私を始めとする全軍の情報を得られる者の判断で変えることもあるため、確認させていただきました」


 エスピラ様からの指示があるなら安心だな、なんて素直なヴィエレの小声が聞こえた。

 すぐに足を踏まれたのか、ちょっと飛び跳ねて隣にいるフィルムを睨んでいる。その様子を止めたのはソルプレーサの咳払い。冷たい視線を送られ、ヴィエレが姿勢を整えた。フィルムも小さく頭を下げている。


 マシディリはソルプレーサに謝意を伝えるように目を向け、閉じ、それから羊皮紙を机の上に置いた。


「それを踏まえて、大きな方針を共有しておこうかと思っております」


 しゃべりながら、先に羊皮紙から手を離すべきだったかとマシディリは思案した。

 思案の結論はこれはこれで良いと言うモノ。父の言葉にすがりたい子供に見えて悪いことは今のマシディリには無い。



「私の先生の一人でありますアリオバルザネス将軍の優秀さは、私よりも皆様の方が良く知っていると思われます。あの方は、終ぞ父上に決定的な勝利を与えることはございませんでした。

 その秘訣、何を考えていたのかを私も聞いたことがあります。


 先生はこうおっしゃられました。『勝利とは何かを考えていただけだ』と。


 では、今の勝利とは何でしょうか。


 私は、父上は私に経験を積んで欲しいのだと思っております。不世出の奇才マールバラと直接手合わせをするその機会を得ておくべきだと。それこそが父上にとって勝利なのだと。


 そう、私は考えております。籠っているだけで良いのでしたら、父上が動く必要は無く、ただマルテレス様を待ち、戦場を整えればよかっただけなのですから。


 ですから、私は南下してくるマールバラの先行部隊と平野で一戦交えようと思っております」



 どよめきは無く、ただただ受容があるのみ。

 当然だとは理解していても、マシディリは自身の内に驚きを見つけてしまった。


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