攻められているのは
「十一年前にタヴォラド様がマールバラ対策に築かれていた防衛線の接収と改造は間に合うと思います」
シドンが半島に入る。
その知らせを秘密裏に届けていた今年の護民官の一人であるファリチェがウェラテヌス邸の書斎でそう報告してくれた。
「ですが、テュッレニアの態度が些か、硬くなっております」
言いにくそうにしながらも、ファリチェが続ける。
「そもそも、テュッレニアはアレッシアよりも北方諸部族の攻撃を受けてきた土地です。北方諸部族に対する反感はアレッシア以上でしょう。アレッシアが北方諸部族に味方する可能性があるのなら、と言うのが住民の本音のようです」
「マールバラも北方諸部族を連れたからこそ最初のテュッレニアで作戦にほころびが出たからなあ」
仕方が無いよ、と言外に告げて。
半島をアレッシアの支配から解放する。マールバラはそう宣言したのに、最初の、半島北部の大都市テュッレニアでしくじったのだ。しかも、挑発と褒美がてらで略奪まで行っている。
マールバラの半島の都市国家の多くを裏切らせる作戦は、この段階で躓いたと言えるだろう。
「ジャンパオロの基盤はあるんだけどなあ」
ジャンパオロはナレティクスの傍流だったため、アレッシアから離れてテュッレニアで生まれ育ったのだ。
被庇護者や顔なじみはテュッレニアに多く存在しており、今のナレティクスの中核に近い。
「それを使って奪ったところで、後々問題が起きるだけ。ナレティクスが浮くだけか」
エスピラは、グライオからの手紙を取り出しながら嘆いた。
ナレティクスが浮くだけだとしても、ジャンパオロは「それがアレッシアのためになるならば」と実行してしまう。
そんな見解が刻まれているし、エスピラも同じ意見だ。
「シドンはどこに居るのでしょうか?」
「まだ降りてきてはいないみたいだな」
ファリチェに応えながらエスピラはクイリッタからの手紙をファリチェの前に置いた。
書かれているのは北方諸部族の仲間割れの話。
マールバラの子を持つと言い張っている部族と、それを良く思わない部族。
良く思わない部族を使ってシドンの正確な位置を割り出しつつ、別の部族はアレッシアに近づけさせる。
完全にアレッシアになびかなくても良い。
ハフモニにつく側だとしても、シドンにつきたいと願うものとマールバラにつきたいと願うもの。そうして分かれてくれれば、ハフモニ側の意図とは異なってくる。
何よりも、ハフモニが勝った後の世界で主導権を握ろうと思えばマールバラの子が居る部族は有利になる。
そこを防ぐためにもシドンとさっさと接触したいと思った部族が勝手にシドンの居場所を探り当ててくれるし、これを機に完全に見限って少しでも生き残る確率を上げようと考える部族も出てくる。
エスピラは、グライオがトュレムレに囚われる原因の一つとなったメタルポリネイオを許したのだ。
アスピデアウスやフィルノルドが出てくる前に。あるいはエスピラがやってきた時に降伏したいと願う者も一定数存在する。
「シドンがどこに居るのかを掴めていないのは、マールバラも同じみたいだけどね」
エスピラは短く強く息を吐いた。
「エスピラ様が配備したわけではありませんが、アスピデアウス側の軍団をつり出し、壊滅させる。単純ですがエスピラ様を南方に誘い出す良い手ですね。そうでなくとも、軍団を分割せざるを得ませんし」
ファリチェが地図を見ながら指でたどった。
「軍団を分割してしまえば、こちらから攻撃を仕掛けるのは本当の決定機のみ。オプティマ様は自身の軍団を掌握している最中。マールバラは、たった一度の勝利で警戒するべき対象をマルテレスだけにしたわけだ」
そのための勝利をいとも簡単にもぎ取るのは普通はできないことではあるのだが。
「南方のマールバラは一万五千。これが全兵力でしょうが、マールバラは最初の三年で十五万を超えるアレッシア人を葬っております。油断はできませんね」
言い終わったファリチェの口元が引き締まった。
「古来より、人数よりも誰を失ったのかの方が影響が大きいよ、ファリチェ」
「申し訳ございませんっ」
ファリチェが、慌てて頭を下げてきた。
エスピラは、「こちらこそすまないね。責めているつもりじゃなかったんだ」と少しだけ慌てたようにして返す。
「マールバラも、もう完全に自分の思い通りに軍団を動かせるわけではないが、兵の質は一級品。そう思っていた方が良いだろうね。此処からも勝負だよ。追い詰められた者と言うのは、また変わってくるものさ」
どうやって半島から追い出すか。
ひとまず、今は許した半島南部の諸都市から兵を徴収し、都市を守らせてマールバラへの補給を断つ作戦を展開しつつある。そのためにも各指揮官には前に出てほしくは無いのだ。
「もうカルド島からアルモニアを引き上げさせるか」
エスピラは、左目を少しだけいつもより薄くした。
「時期尚早かと」
すぐに否定してきたのはソルプレーサ。
「ハフモニ残党と親ハフモニ派、アイネイエウスによって逃げ出した犯罪者がまだ生きております。確かに今引き上げても現状での問題は少ないですが、将来的な安定のためには今こそ大事にするべきかと」
「それもそうだな」
と、エスピラは息を吐きながら手を止めた。
視線の先は山積みの書類。羊皮紙、パピルス紙、木の皮、粘土板、石。
平民側の執政官の機能を著しく落としたがための弊害が積み重なっているのである。
「少し休憩されますか?」
ソルプレーサが言う。
「いや」
「少し、休憩された方がよろしいでしょう」
否定すれば、ソルプレーサが語気を強くしてきた。
もう一回否定すればさらに強くなるのだろう。
「分かったよ」
エスピラは右手を適当に振る。
ソルプレーサが慇懃に頭を下げ、二歩下がった。
(まったく)
手をつき、立ち上がる。くらり、と。ぐわん、と。一瞬、視界が安定しなくなった。景色も見えなくなる。ソルプレーサが「エスピラ様は何でもご自身でやろうとしすぎなのです」と言ったのは聞こえたが、動けずに止まってしまった。
が、本当に一瞬で、すぐに視界がもとに戻った。平衡感覚もしっかりとしている。足に地面を感じ取れる。
「エスピラ様?」
シニストラの不安げな声が鼓膜を揺らし、ソルプレーサの引き締まった顔やファリチェの焦ったような表情ももう確認できた。
「ただのちょっとした立ち眩みだよ。座っている時間が長かったからね」
手で制し、笑いかける。
「ご無理はなさいませんように」
と、ソルプレーサが言えば、彼の言葉に合わせてファリチェが頭を下げた。
「近くまでお供いたします」
シニストラが硬い声で言う。
「私の家だぞ?」
「何かあってからでは遅すぎますので」
硬い声のまま、強い視線でシニストラが意思を貫く。
これは譲らないな、とエスピラは苦笑して、シニストラの申し出を認めた。
そのシニストラは、本当にエスピラの寝室の近くまでついてくる。その近くで、「多分メルアは寝ていると思うんだ」と言えば、少しせわしなく頭を下げて離れていった。
そんなシニストラの背を見送ってから、エスピラは寝室の扉を開ける。
寝台の上に寝ていたのは三人。
一番端、入り口側に寝ているのはエスピラと同じ栗毛の双子の兄アグニッシモだ。両足は今にも寝台の外に出そうになっており、左手は寝台からはみ出している。右手は寝台の逆方向にダイナミックに伸びていた。
そんなアグニッシモのお腹を押さえるようにして寝台の上に留めているのはメルアの手。
そのメルアを挟んで、メルアと同じ白ワインに似た髪色の双子の弟スペランツァが寝ている。ただし、こちらは頭の向きが二人と逆。しかも、右足がメルアの脇腹に埋まっており、メルアは苦しそうに顔を歪めて寝ていた。
「元気だなあ」
ふふ、とつい笑みが漏れて。
エスピラは、静かに三人に近づいた。




