いっていって
「子に罪は無いだろう」
ため息交じりにエスピラは羊皮紙を握りつぶそうとし、やめた。
代わりに短剣を一本取り出し、その鞘に羊皮紙を収める。そして、短剣ごとソルプレーサに渡した。
ソルプレーサが慇懃に短剣を受け取る。
「性的嗜好で言えば、シジェロ様が面会を求めておられました」
エスピラは、書類の山を軽くたたく。
「私は忙しい。土地の受け取りなら、フィルノルド様に言ってくれと伝えてきてはくれないか?」
「処女神の巫女としてのこれまでの功績、占いの腕。二年間ものお役目の延長。それでも処女神の巫女を務め上げた者があれだけの土地をもらうのは前例がありません。アスピデアウスが主流派だった元老院の決定を、エスピラ様が追随する。その形こそが正当性をもたらすのだとおっしゃられるでしょう」
「言いかねないな」
エスピラはため息とともに返した。
「ちなみに、エスピラ様から奪われた第四軍団ですが、解体済みとは言えほとんどがタヴォラド様の影響下にあるそうです。しかも、全員がアレッシアの近くに最低でも仮住まいを持っているとか」
「ギリギリだが、まったく違法は見当たらなかったよ」
それはそれとして圧力を感じるには感じるが。
タヴォラドは、非公式に第四軍団をエスピラの自由にして良いと言っている。
「オプティマ様に与えた二個軍団ですが、一度マルテレス様の軍団と合流してから再編成を行いたいとおっしゃっておられました」
「私は許可すると民会に下ろしておいてくれ。執政官ができるのは最高軍事司令官の任命拒否だけだからな。私がなれるわけじゃない」
「執政官じゃない者がなっているのはおかしいとおっしゃられたのに。これでは、サジェッツァ様にしておいたほうがと言われかねないかと」
「そうして、私の意思が捻じ曲げられるほうが問題だ」
南にエスピラの二個軍団。これは、半島南東部のディファ・マルティーマから南西のメタルポリネイオ付近まで移動してマールバラを見張っている。
さらに、半島南部にはマルテレスの軍団がアグリコーラから下る道に存在しており、山を越えた半島東部、インツィーアやピエタから南に下る場所にオプティマが居る。
この合計六個軍団がマルテレスに対して動く軍団。
これに加え、フィルノルドが提案して配備した一個軍団やそれに満たない軍勢が半島南部には存在している。
代わりに、北方に居るヌンツィオに追加で送った一個軍団はエスピラの決定だ。ただ、アスピデアウスに配慮したモノであり、エスピラにとって都合が良いのは北方に詳しいクエヌレスの当主有力候補であるウルバーニが入っていること。それから、北方諸部族の言葉の通訳としてクイリッタが組み込まれていること。
それを除けば、北は一応フィルノルドの任地となっている。
だが、軍団の配置は基本的にはエスピラの思い通りになっているのだ。
「それから、イフェメラ様から手紙が来ておりました」
「もう受け取ったよ」
半笑いで、エスピラは目を動かす。
その先には大人の拳ほどの厚さがある紙束。イフェメラからの報告書だ。
「フラシの王族を友人にしたらしくてね。その友人の婚約者を取り返し、元通りの国を与えるために西フラシに乗り込みたいらしい。私は許可したよ。闘技大会の喧騒に紛れてね」
「そうでしたか。さすがはイフェメラ様。非常に戦争にお強い」
「含みがあるな」
と、エスピラは笑った。
ソルプレーサは顔を一切変えず、話題を変える。
「北へ送ったアネージモ様が官職的には自分のほうが上だとヌンツィオ様に突っかかったそうです」
「アレッシアの神々と元老院が認めた軍事命令権保有者に対して不当にたてつくとは良い度胸だ、と家族を脅してあるよ」
耳が早いことで、とソルプレーサが言ったので、エスピラは書類を置きながら「君が鍛えてくれた被庇護者たちだからな」と返した。
「しかし、ヌンツィオ様の一個軍団の中核は大敗を喫したインツィーアの生き残り。対してアネージモ様は無能だからと選ばれたようなものですが、それでもアレッシアの最高神祇官。果たして、この現状でシドンが来たらどうなるでしょうか」
(まさか)
「マールバラだって、冬の山は越えなかったぞ」
半島の北にある高峰居並ぶ山脈。
それがあるからこそ、陸路での半島侵略はほぼ不可能だったのであり、だからこそアレッシアにとっては北方諸部族が北の天井だった。
それほどまでに、集団で通り抜けるには厳しいのが北の山脈だ。
アレッシアはほとんど認識していないが、山にも山に住んでいる部族が居る。しかも、好戦的。
マールバラだってプラントゥムからやってくるには一年近い時間をかけていたのだ。
「だからこその奇襲なのでしょう。シドンにとっての不幸はエスピラ様が既に北方諸部族に手を伸ばしていたこと。クイリッタ様がそこに居たこと。どの文字が読めるか分からないからと複数の手紙を出してしまえば、その内数通は通訳であるクイリッタ様の下に行くでしょう」
ソルプレーサが石を取り出した。
彫られているのはエリポス語。要約すると、アレッシア攻撃のための糾合を訴えるものである。
エスピラは、眼光を鋭くして手を伸ばした。空気も引き締めた状態で、自身の軍団を任せているグライオからの手紙を取り出す。
書かれているのはマールバラの行動。ルカッチャーノやカリトンと言った軍団の他の者の見立ても要約して書いてありつつ、自身の意見も少しだけ書いてまとめてある読みやすく短い手紙だ。
「マールバラの予想よりも、ずっと早い山越えか」
物資や人員を計算しようにも、道がわからないからできない。
エスピラにとっては正体不明の強力な将軍がいきなり北方に現れたようなモノである。
「タイリー様と近しい実力を持つペッレグリーノ様と対等に渡り合った将軍です。兵力によっては、ヌンツィオ様はまたしてもおかわいそうなことになるかと」
ヌンツィオ・テレンティウスは実力者だ。
今のアレッシアでも、評価する人によっては軍事に強い者として五本の指に収まるだろう。
ただ、インツィーアでは大敗を喫しているし、北方諸部族もきっちりと抑えているとは言え、功績としての派手さは無い。
「先制攻撃は」
「もう間に合わないでしょう。北方諸部族間での小さな諍いは起こせますが、エスピラ様がわざわざ自身の軍団を動かしてフィルノルド様の任地の近くで軍事行動を起こすなど。流石のエスピラ様でも根回しが追いつきません」
「…………セルクラウスは、気が付いているか?」
「エスピラ様。私としましては、ウェラテヌスの被庇護者が二度も他の家門に後れを取るなど許されないことだと思っております。その一度目が、事実無根だとしても。数が少なかったのだとしても。私はエスピラ様に多大な損害を与えてしまった責を必ず取るつもりでことに当たっております」
エスピラは、空気を少し緩め息を吐いた。
されど、しっかりと真剣な雰囲気は保たれている。
「ヴィンドとネーレは私の失策であり、アレッシアの損失だ」
「だからこそ申し上げているのです。エスピラ様に多大な損害を与えてしまった、と」
「平行線だな」
「そうなるかと」
ふう、と肺を軽くし、エスピラは立ち上がった。
ぱき、と体から音が鳴る。
「マルテレス様に伝令を飛ばしますか?」
ソルプレーサが一歩も動かず体の向きだけを変えて尋ねてきた。
「下手に動かせばマールバラも気が付くだろう。それに、まだ山を下り切ったわけじゃない」
「ヌンツィオ様がやられてから動けば、それこそタイリー様と同じ道を歩まれることになるかと」
「分かっているよ。私だってタイリー様の失敗を繰り返したくはない」
ただし、そうなるとウェラテヌスとしての地盤の多くを失った状態で引き継いでいるエスピラには味方が必要になってくる。
トリンクイタは日和見。
タヴォラドはあっちを行ったり来たり。
ズィミナソフィア四世もカクラティスも外国人。
マルテレスに政治的な影響力はあれども力は無く。永世元老院議員は蜜を共有するが命を懸けてはくれないだろう。
「会うしかないか」
シジェロ・トリアヌス。
元処女神の巫女で、タイリーにとって二人目の妻パーヴィアのように凄腕の占い師の。
今でも神殿に一定の影響力を持つ彼女を無視するわけにはいかなくなってしまったのだ。




