欲しいモノ
廊下を歩く。人も着いては来るが、別にいつも通りと言えばいつも通りである。
部屋の中に入るのがエスピラと二人きりか、王を入れた三人か。
それだけが毎回保たれているのだ。
そして今回も。
奴隷が扉を開けた先では、王が既に顔を赤らめていた。
まだ昼過ぎ。多忙を極める王と言う職が暇になったとは思えない。
「今日は何の日かご存じかしら?」
女王が上機嫌で言う。
王の様子、女王の様子からも慶事のはずだ。机の上に用意されている果物もいつもの食べやすい大きさになっているものだけでなく、色や形を見せるためにそのまま置かれているものもある。酒も多い。
政務を切り上げるほどのもの。
そう言えば、今日は午前中からズィミナソフィア四世に誘われたか。人も、どこか浮ついた雰囲気があった。
そこまで思考して、エスピラは記憶の棚から情報を引っ張り出すことに成功した。
「おめでとうございます。今日は、第一子イェステス様の生誕日でしたね。先ほどまで思い出せなかった非礼をお許しください」
言って、エスピラは慇懃に頭を下げた。
次期国王はこれで十一歳。
共同統治を敷くマフソレイオでは十歳で王を継げる年齢であると言えるため、野心が芽生える頃とも言う。
そう言った血なまぐさい争いを避けるために、盛大な祝いが催されるのが常だ。
「思い出せていただけたのならそれで良いのです」
女王がリンゴ酒の入ったコップをエスピラに手渡してくる。
「一緒に祝いましょう?」
「喜んで」
女王の手が触れる形にはなったが、逆にエスピラは女王の手を包むようにコップを受け取り、少し上げた後、一口飲んだ。
王が大はしゃぎでコップを掲げ、勢い良く飲む。
(今日の言い訳は使節団の皆さんにも祝ってほしかったから長引かせた、とかかな)
顔は笑みで、心は冷めて。
エスピラは女王の言い訳を考えた。
それぐらい悟れ、という意味も込めた質問で、牽制だったのだろう。
「使節の皆にも伝えましょう。これまでにない盛大なモノになると思いますよ」
政治的な意味で。
「アレッシアの未来を担う方々に祝ってくださるとは、嬉しい限りです。これも神の思し召しでしょうか」
女王の思惑通りの癖に。
「機会を無駄にしないのであれば、それ自体が神への最大の感謝の表し方になりますから」
あくまでもエスピラが信奉する運命の女神の教えではあるが、神の末裔を自称するマフソレイオの王族への敬意の表明と取れるようにした言葉である。
「神牛の革手袋をつけたエスピラには、いつまでも神の御加護がありますよ」
「そうだともそうだとも。マフソレイオでも王族ぐらいしか持てない逸品ですからなあ!」
酔っぱらったと十分に分かる大声で王が女王に同調した。
この良い雰囲気を壊す言葉を、エスピラは口にする。
「しかし、一切の進展なく、では使節全員が心からの感謝を述べるのにしこりが残りましょう。これは神への侮蔑へも繋がりかねない危険な行為です」
もちろん、それを防げと言うのが先ほどの革手袋の話なのだろう。
十分に目をかけてやっただろ、と。だからまとめてみせろ、と。
だが、申し訳ないがそこは相容れない。
エスピラはアレッシアの人なのだ。アレッシアのために全てを捧げた父祖を何より誇りに思っているのだ。
賄賂は受け取る。便宜もありがたく頂戴する。
だが、全てはアレッシアに繋がるからこそ。繋がらない行為はしない。
「その言葉自体が祝い事に水を差す、神への侮蔑に等しい行いではないでしょうか?」
エスピラは扉が閉まっていることをさりげなく確認してから、女王の背に手を回した。部屋は明るい。王は酔っぱらっている。女王の背中に目は無い。
「ですから、まずはマフソレイオにとって嬉しいことを持ってきました」
エスピラはエスコートするようにして、机の傍の椅子に女王を座らせた。
自身は扉の方の椅子に座る。
「アレッシアは今回の戦争でハフモニを滅ぼすようなことはしません。ハフモニは力を大幅に失った状態で存続します」
アレッシアが勝てばの話ではあるが、自身の国が負ける前提で戦争に進む者は普通はいない。
「これは戦局にも依るのですが、基本的にはハフモニはプラントゥムを失い、船の保有及び軍隊の保持を制限した状態で本土にぽつりと残る形になるでしょう。軍隊の数としては二千ほど。元々傭兵に頼るかの国には十分でしょう。尤も、その傭兵を賄うお金があるかは語るべくもありませんが」
ハフモニとマフソレイオは、遠くはあるが地続きだ。
ハフモニを落とした後、アレッシアがマルハイマナと手を組んだ場合、マフソレイオは挟み撃ちに遭う。それに、ハフモニに近い諸島はプラントゥム方面に行くのに中継地として優秀なのだ。他の島々に関してもアレッシアの思い通りになりかねないのだ。アレッシアが完全に手中にしてしまえば、マフソレイオの交易を脅かすことだってできてしまう。
パワーバランスが崩れてしまうのだ。
「監視の目はどれほどかしら」
ハフモニの兵団は制限されるが、『傭兵頼み』である以上は『どこか』が資金を援助すれば万を超える兵を集めることだってできてしまう。多国籍軍を扱うノウハウは蓄積がまばらだがアレッシアよりは溜まっているのだ。
「それは時の執政官次第ですね。私の持つ諜報組織はまだ成長途上。私の見極めもまだ終わっておりませんが、戦いが始まるまでにはほとんど完成し、戦いの最中に精錬されるでしょう」
心配はいりませんよ、とエスピラは慈しむように女王に対して言った。
「アレッシアは先の戦争で情報の大切さを痛感したのでは無かったのかしら」
「それでもアレッシアの基本戦術は数で圧倒して正面から打ち破る。これに尽きます。最も尊敬を得る勝ち方が搦手を駆使せずに正面から相手を屈服させることですから。国民性までは簡単には変わりませんよ」
女王の顔に納得の色が浮かぶ。
王も気分を害していないのか、真剣にエスピラの話に耳を傾け、ふんふんと時折酒を飲みながら頷いていた。
「どれだけアレッシアが圧勝しようともハフモニは滅びません。その点はご安心を」
言いながら、エスピラは一枚の羊皮紙を取り出し、文字が見えない状態のまま机の上に置いた。手は、羊皮紙に乗せたまま。
「それと、先の戦争でアレッシアが痛感したのは情報の大切さだけではありません。海軍力も同様に必要に迫られ、今や世界有数の海軍国家にもなりました」
と言っても並みよりマシレベルの航海技術にあとは数で押し潰すようなやり方ではあるが。
「一から何かを作るとなるとそれにかかる費用は莫大なモノになります。何せ、模倣と試行錯誤の連続ですから。その中でウェラテヌスは家を傾けた」
ここで、エスピラは羊皮紙から手を放した。
丸まっていた紙が、解放されたことによって膨らむ。
「おしゃべりが過ぎましたね。どうぞ。ウェラテヌスからマフソレイオへの贈り物です。もちろん、舵取りをする者以外にはこの書物については御内密に。写したもの、必要な部分のみを抜粋したものは国家体制のために幾人かに見せることを止めは致しませんが」
女王が手を伸ばし、羊皮紙を開いた。
目が動き、そして止まる。
「これは、アレッシア語かしら」
「ええ。父が記したものをそのまま持ってきていますので。エリポス語に翻訳するのであれば、少々お時間と紙の都合をお願いしたいのですが……。おそらく、使節の待てる時間と近いモノになりかねません」
乱暴に直訳すると、内容の確認できないモノを待つ間に態度を決めろ、ということである。
女王の瑠璃紺がエスピラの顔を映した。エスピラも顔を逸らさず、じっと見つめ返す。王に動きはない。
「『両陛下』ではなく『舵取りをする者』。それがエスピラ個人の望みかしら」
言葉の途中で声が僅かに跳ね、女王の眉が数秒歪んだ。
今は戻っているが、心なしか顔色が悪くなっている。
「失礼な態度をとっているのは承知の上です。脅すような真似であることも申し訳なく思います。ですが、こちらは父祖の蓄積を差し出しているのです。アレッシア人としてはこれ以上ない敬意の表明でもあるとご理解ください」
女王が眉間に皺を盛大に寄せた後、ため息を吐いた。
「娘を呼んできてもらってもよろしいかしら。あの子にエリポス語で読み上げてもらいましょう」
「仰せのままに」
言って、エスピラは席を立った。
歩いてきた廊下を一人で遡り、未だに一人で本を読んでいるズィミナソフィア四世の元へ。
「エスピラ!」
足音で分かったのか、元気よくズィミナソフィア四世が振り返った。
エスピラは複雑そうに笑い、腰をかがめて高さを合わせる。
「早かったですね」
その様子に困惑したらしい。
まだ顔芸は得意ではなさそうな少女は、戸惑いの色を声と顔から隠すことができていなかった。
「ええ。女王陛下から貴方様に頼みごとがあるのですが、当の女王陛下の体調もすぐれないようなのです。女王陛下に貴方様の元気を分けてあげてはもらえませんか?」
深刻そうに言ったエスピラに、僅か六歳の時期女王は「任せてください」と責任感と不安の入り混じった顔で返答したのだった。




