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ウェラテヌス隆盛記  作者: 浅羽 信幸
第十一章
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アイネイエウス・グラム

 小屋の中には男が一人。いや、アイネイエウスが一人。絵具を床に並べ、絵を描いている木の板に色を付けていた。


 真剣な目つきで、色を塗っている。景色が良い所なのに、書いているのは肖像画。此処には居ない人。女性が赤子を抱いている。


 エスピラから見ても綺麗な絵だ。


 ただ、それは芸術的に見て、や画法のあれこれでは無く、写実的であると言う一点に於いてのみの評価である。


 そのように評しながらエスピラは途中で足を止めた。

 アイネイエウスは未だ真剣に絵に向き合っており、時折手を止めかけながらも色を縫っている。


「失礼。今日は来ないものかと思っておりまして、まだ完成していないのです」


 流暢なエリポス語でアイネイエウスが言ってきた。


「どうぞ。お構いなく」


 ハフモニ語で返そうかとも迷い、結局エリポス語で返した。

 アイネイエウスの口に笑みが浮かぶ。かと言って、何かを言ってくるわけでも無く。


 恐らく彼にとって丁度良い所まで筆が進んでからアイネイエウスがエスピラの方を向いた。

 アイネイエウスの目が僅かに大きくなる。


「本当に一人で来られるとは。てっきり、玄関まではあの剣のような男がついてくるとばかり思っておりました」


 シニストラのことだろう。


「指定したのはそちらでしょう?」


 穏やかに言いながら、エスピラはアイネイエウスの傍まで進んだ。

 ぱちり、と爆ぜる火がぬくもりを感じさせてくれる。


「何時もこのような場所で?」


 創作を?


「そうできれば良いのですが。残念ながら、戦場では人が慌ただしく出入りし、何か急報があるたびに人が参ります。画家としては邪魔でしかありませんが、指揮官としては優先的に対処せざるを得ませんから。特に相手があのエスピラ・ウェラテヌスともなれば指揮官がこのような何もない場所に引きこもっていたらありもしない噂しかたちませんよ」


 戦争中とは思えないほど穏やかに。どこか朗らかに。

 困ったなあ、なんて笑いながらもどこか日常的な風景の一部と化して。

 アイネイエウスは、再び筆を動かし始めた。


「私としては、子供の時と同じように何もない部屋、誰もいない場所。必要最低限の物さえない空間こそが気を落ち着け、次への活力となるのですがね。

 心配事があるのか。悩みがあれば何でも話してほしい。私はいつまでも貴方の味方だと母に言われてしまいまして」


『母上』では無く『母』とアイネイエウスが言った。

 もちろん、エスピラと雖もアイネイエウスが普段自分の御母堂をなんて呼んでいるのかなど知らないが。


「良い母君ですね」

「ええ。自慢の母です」


 言ったアイネイエウスが、顔を横に動かした。


 エスピラからは何を見たのか分からなかったので、思い切ってアイネイエウスの鎮座している空間に入る。そうすれば、柱と壁に区切られて先程までは見えなかったが、もう一枚、老齢の域に入っているとも言える女性の絵が見えた。


 黒髪黒目。肌は白い。

 エリポス人だろうか。

 エリポス人ならば、アイネイエウスの母なのだろうか。


「ハフモニ有数の家門であるグラム家とは言え、己が実力で登り詰めた子供が居て母君も喜ばしく思っておられることでしょう」

「そうだと嬉しいですね」


 アイネイエウスが、眉尻を下げて力無く笑った。口角は上がっていない。顔は、エスピラに。


「エスピラ様もご存じの通り、ハフモニ人とエリポス人は長らく敵対してまいりました。その中でハフモニの武の名門グラムがエリポス人を娶るのは大きな進歩だったでしょう」


 マールバラによるメガロバシラスの調略などは、大本を辿ればこの改善によって可能になったと言っても過言では無いのだ。


 エスピラも、その意味は大いに理解できる。


「しかし、父が母の扱いに困ったのも事実です。何せ母はエリポス人。丁重に扱い過ぎては内に軋轢が生まれ、粗雑に扱えば外との摩擦が酷くなる。

 その結果、父は大きな邸宅と希望があればいつでも言ってくれとでも伝えているような財を与えるだけだったのです。母も生来の気質か生き残るためか、父に頼むことは少なかったと聞いております。


 だからこそ、私には何もない部屋が普通でした。


 その部屋がたくさんあることが普通で、そこで過ごすことが普通で。私にとってはそれこそが心地よかったのですが、母にとっては心を痛めるだけのようでした」



 すっかりと笑みは陰りに変わり。それでも、アイネイエウスの筆はまた動き出す。


「そのこと、お伝えしましたか?」


 エスピラはアイネイエウスをやさしく見ながら言う。


「伝えたところで気遣っているだけだと思われるだけでしょう。

 そう判断して、何も言わなかったのですが。今になって思えば、言っておけばよかったと。貴方は自慢の母だと。何も恥じることは無いと伝えるべきだったと後悔しております」


「言いたいことは、生きている内に言っておくべきですよ」


「重みが違いますね」


 無理にと言った風に、アイネイエウスがからからの笑いをあげた。


「貴方も父君を失っている。異母弟や、義兄も」


「どのような方だったのか。異母弟グラウとはどのような顔で笑ったのか。義兄あにはどのような未来を思い描いていたのか。何一つ、思い出せないような関係でしたけどね」


「…………私も、最早父母の顔を良く思い出せません」


「言いたいことを、言えましたか?」


「さあ。今となっては、父母に何を言いたかったのかすらも覚えておりませんから」

「今なら?」

「大きな家と、多くの被庇護者。働き者の奴隷。心を許せる友に道を同じくする仲間。何より美しい妻と可愛い子供たち。さらには優秀な後継者。これ以上私は何を望めばよいのでしょうか? とでも聞くのでしょうかね」


「愛しい妻と愛らしい子は、それだけで全てを満たしてくれますからね」

 と、アイネイエウスが同意しながら筆を下ろした。


 じっくりと、近くの絵を眺めているように見える。


「奥方と娘さんですか?」

「ええ。綺麗でしょう? 娘もきっと今頃はそれはそれは美しく成長していて、ハフモニ中の男の目をくぎ付けにしていると思いますよ?」


 エスピラは、目を上にやった。

 左の口角だけ歪に開けて、視線をアイネイエウスに戻す。


「娘さんは、今、おいくつで?」

「今年で八歳になりました。八歳の娘と言うのは、やはり可愛いものでしたか?」


「ええ。太陽も雲に隠れてしまうのではないかと日々心配するほどに可愛いものですよ。もちろん、今でもですし、チアーラも獅子を猫に変えてしまうほど可愛らしいですよ」

「それはそれは」


 アイネイエウスが絵の方を向いて微笑んだ。どこか力の無いまま、指が絵の赤子に伸びていっている。触れて、優しく撫でて。


「エリポスから帰って来た時、エスピラ様の顔を子供たちは覚えておりましたか?」


「三歳になる年に離れたリングアは三年経っても私を父だと認識してくれておりました。二歳になる年に離れたチアーラは、上の子の様子を見て私が父だと分かったみたいでしたけどね」


「では、私の顔はもう覚えていないのですね」

「母親の態度で分かりますよ。それに、親子なのです。過ごしている内に、しっくりと来ると思います」


「そうだと良いのですが」


 はは、とアイネイエウスの乾いた笑い声が床に落ちていく。その床は、砂粒が転がっていそうであり、掃除もされていない。いや、最低限だけはされているのだろう。だからこそ、此処でアイネイエウスは絵を描いている。きっと、そうだ。


「アグニッシモとスペランツァは、私がエリポスに行っている時に生まれたのですが、今では私をきちんと父親として認識してくれています。心配いりませんよ」


 エスピラも、アイネイエウスから完全に絵画に目を移した。

 心配はいりません。そう言っている口で、きっと、目の前の男を殺すための号令を発するのだと知りつつも。彼の愛する娘の顔を、しっかりと網膜に焼き付ける。


「不思議と、貴方に言われると大丈夫な気がしてしまいます」


 そんなエスピラの心境を知ってから知らずか。

 アイネイエウスが、砕けた笑みを見せてきた。親しい者に向けるような。どこか、マルテレスを思い浮かばせるような。それでいて、彼ならば絶対にしないような哀愁も漂わせて。


 ある種の信頼を向けられているのではと思えるような笑みを。


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