一万四千
「良い知らせだ」
と、エスピラはパピルス紙を叩いた。
目の前で行われている攻撃は、一切の成果を挙げていない。ただひたすらに数多の巨石が外壁を越えて降り注ぎ、門を砕くように破城槌が打ち付けられているが、パンテレーアは士気高く粘っているのだ。普通ならば指揮官が余裕綽々で良い状況ではないのである。
「フラシの決着でもつきましたか?」
言ったのはヴィンド。
三年前のディファ・マルティーマ防衛戦で皇太子を討つ手柄を立てた部隊の指揮官でもある。
「ああ。可哀想に。息子を失って意気消沈したまま死んだかの王は、最後の最後に後継者を自分の息子に決めたが。先王の弟が王位を奪い、先王の息子の婚約者も奪いとったらしい。しかも、現王も中々にしたたかな男だ」
エスピラは、ヴィンドにも手紙を渡した。
ヴィンドが素早く読み進める。ずっとエスピラの傍に控えていたシニストラは、手紙に見向きもしなかった。
「エクラートンの前王を思い出しますね」
アレッシアの足元を見て、ハフモニに鞍替えし、そして傀儡となり処分された王を。
「まあ、流石に要求を吹っかけすぎてはいないけどな。大方、傭兵としてフラシ騎兵を供出して外貨を稼ぐよりも自分の基盤を脅かす唯一の男をこの手で殺したい、と言ったところだろうな」
「どちらに着かれますか?」
「どっちにつきたい?」
エスピラは、にやりと笑いながら聞いた。
「どちらにも着かないのが良いでしょう。そのためにフラシの皇太子を討ったのですから」
「そうだな。私もそう思うよ。やっと実ったんだからな」
マールバラの統率力を削ぐために弟グラウを討つ。
フラシ騎兵の供出を止めるためにフラシの皇太子も討つ。あわよくば、ハフモニの北方に拠点を築くためにも。皇太子と精鋭を殺せると言う事実と、『皇太子が居れば王にはなれなかった二人』を唆すために。
「最高のタイミングで実ったものだ」
優勢ではあるが、劣勢の戦場を見ながらエスピラは言った。
いや、逆かも知れない。劣勢でありながら優勢な戦場、でも正しいのだ。
「プラントゥムの騎兵をアイネイエウスは使えない。フラシ騎兵はこれ以上手に入らない。味方はバラバラ。補充できる歩兵は粗悪。もう一度、調略を仕掛けますか?」
「もう少し後で良い。その方が、双方に効果がある」
「なるほど」
納得した様子のヴィンドがパンテレーアに目をやった。
「この場は任せる」
横に並んだヴィンドに、エスピラは言った。
「お任せください。必ずや、アイネイエウスを戦場に引っ張り出すための策を進行させます」
「心配はしていないよ。君も、もちろんルカッチャーノもね」
今はスーペル・タルキウスの副官をしているルカッチャーノもエスピラの元に居た高官だ。
そして、勝利の鍵でもある。
スーペルの下でまとまっていた軍団を、エスピラのために動かし、連結点を欠点にさせない。その上、自己判断で防衛網を作り、各個撃破を避ける。絶対にそれを避けながら、なおかつ遠くの軍団と有機的に動かないといけないのだ。
その役目は、血筋でスーペル・タルキウスの軍団から認められ、自己判断に対する軍律が厳しいアレッシアに於いても自己判断で動けることを証明したルカッチャーノが適任だと、エスピラは思っている。
「一部の高官を集めてくれ。スカウリーアに移動する」
パンテレーアの北方にして良港のある都市、スカウリーア。
この街もまた、アレッシアを裏切った街だ。
「アイネイエウスを引っ張り出すためとはいえ、少々危険な賭け、となるのでしょうか」
高官を集めた会議の終了後に、エスピラの天幕で展望を述べたのはネーレ。
パンテレーアでの攻撃に於いて総指揮を執ったと言っても過言では無い人物だ。本気で落としにかかっていると見せかけながらも本当に死者無く、怪我を負った者も白のオーラで一時間後には皆回復している。
そんな、完璧な戦いを彼が演出した。
「賭けだとは思います。ですが、父上ではない方が情報収集された状態での戦闘と同程度の危険性だと考えて良いのではないでしょうか」
声音も包み込むような、柔軟に受け止めるようなモノでマシディリが言った。
最近はエスピラの軍団の者だけになると積極的に発言を促されているためか、今日は先に意見を言ったようだ。
もちろん、マシディリが消極的な訳ではない。遠慮している所を、無理矢理エスピラが言わせているに近いのだ。
誤解が無いように言っておくと、エスピラは子供たちには基本甘い。ちゃんとフォローも入れている。その上、マシディリの意見は非常に優秀なのだ。エスピラとて、聞かない手は無いと言う事情もある。
「確かにほとんど敵を見失わずにいられるのは相当な強み、いえ、最大とも言える強みではありますが、端と端では距離がありすぎます。特に、私たちは高速機動を行いますのでその距離は非常に大きくなりますよ」
ネーレがマシディリに視線を合わせながら言った。腰もあってはいないが合わせているような雰囲気である。
「アイネイエウスの兵数は一万四千。父上は一万三千。マルテレス様は二万。スーペル様は砦に籠っている八千。ヴィンド様は中間地点に居りますので、攻め寄せれば自ら包囲されに来ている形になります。ですので、アイネイエウスは積極攻勢には出てこない、と思ったのです」
堂々とマシディリが言い切った。
エスピラと共同の天幕で勝手にエスピラの酒を漁っていたマルテレスが笑う。馬鹿にしたものではなく、心底楽しそうな笑いだ。
「アイネイエウスの下に集まった兵は四万、と言う報告がそのエスピラの情報網から上がっているぞ?」
声も、うきうき。
例えマルテレスのことを知らなくても、返答を楽しみにしていると良く分かるだろう。
「それは武器を持った人の数です。その中でアイネイエウスの指示に従う者はまずはアイネイエウスの兵一万の内七千。それから、フィフィット、トランテ、グノートらの合計七千。これくらいでしょう。
他は、恐らく物資をばらまけば略奪に走り、女子供を見ればそちらに群がります。攻めろと言えば一気呵成に駆け下って参りますが、止まれと言われても止まりません。
そのような者たちを、慎重な戦いを続けているアイネイエウスが今、使うでしょうか。
使うとなればマルテレス様に対して使ったように、配下の諸将に各々の負けを認めさせてからか、あるいは全軍突撃が必要な場面。手足の如く動かすことなど不可能です」
「その全軍突撃は何で無いんだ?」
マルテレスの目は、完全に無邪気な子供のそれである。
「マルテレス様にははじき返されております。今と同じ、二万の兵で。戦場から追い出すことには成功いたしましたが、それはアイネイエウスがまだ回り込ませるだけの兵の余裕があったから。今回は会戦に時間をかければマルテレス様に援軍がやってくる状況です。
加えまして、アイネイエウスは陣地に籠るスーペル様にはついぞ攻撃を仕掛けませんでした。それなのに、今、背後を取られかねない状況で仕掛け、偽装撤退を行ってからの再度の突撃ができるでしょうか。無理だと思います。離間工作は、常に進んでおりますから。
ハフモニの軍団の中心は傭兵。そして傭兵は集団としてみればハフモニへの忠誠心が厚いわけではありませんし、故郷があります。エリポスや、マフソレイオ、マルハイマナ。全て、父上の影響下です。
そして、その父上はエリポスの技術者を集め、半島内の技術者を保護し、最先端の兵器を数多持っております。防御陣地ではマールバラをも退けました。父上が居ない状況でも、マールバラは未だにディファ・マルティーマにたどり着けておりません。
確かに私でもこの軍団を各個撃破する好機に恵まれたのなら一番に父上を狙います。アリオバルザネス将軍や亡きハイダラ将軍、果ては遠い昔の大王もそうするでしょう。しかし、出来るかは別です。
父上と寝食を共にしている兵は異常と言えましょう。戦場において、そんな異常者に立ち向かうのは勇気あるもの。指揮官に絶対の忠誠を誓っているもの。すなわち、一万四千。
死ぬまでに一人は殺す一万三千を殺して父上にたどり着くために、自分に忠実な全ての兵を失えば、結局は負け。私なら、まだ行動を起こしません。起こせません」
「だからこそ、兵の分散をしても危険はそこまで跳ね上がらないってか」
面白いなあ、と笑いながらマルテレスが酒を煽った。




