家門と個人
代わりに入ってきたのはタイリー。
「貸しとして利用できそうですか?」
皮肉を沈めて、エスピラは早速タイリーに言った。
「ウェラテヌスには申し訳ないが、そうだな。イロリウスは戦いにも強い一門。来年再来年の平民の執政官には口を出さないが、再来年の貴族側の執政官はメントレー。その次が私とペッレグリーノにする予定だ。配置も何もかも、私の思い通りになるだろう」
執政官などは、一応、選挙で決まる。
だが、タイリーが言うならそうなるのだろう。それだけの力がタイリーにはあるし、それがアレッシアのためになるなら投票先も選挙活動も有力者が一致団結する。
「もちろん、君は私の副官だ。このことについても、外壁を固められたのではないかね」
「ウェラテヌスとイロリウスの関係を取り持ってくれたのがセルクラウスだから、と言うことですか?」
「断らせてしまったのがセルクラウスゆえ、お詫びとしてウェラテヌスに便宜を図ると言うことだ」
逆に言えば、ウェラテヌスが断られたと言う話は広まるのだろう。
当然のことと言えば当然のことではあるが、エスピラとしては良い気はしない。
(必要なのは『期待』ではなく『実績』か)
間違いなくエスピラがこれから父祖の築いた栄光に追いつくのならば、誰も断りはしなかったはずである。
そうならなかったのは、エスピラの能力に期待はしていても目についた実績が無いから。他人にあげると言う行為があることは知っているが、それではどこまでがエスピラの力でどこからがエスピラの力では無いのかが分からないから。
ウェラテヌスと結びつくのは賭けになる、と言うことだろう。
神よ、と心の中で呟いて。
エスピラは革手袋に唇を落とした。
(神の好機を活かせなかったのは私の責任か)
もっと詰めていれば、一気にイフェメラとの婚約を進められたかもしれないのだから。
だからこそ、このことをもう振り返るわけにはいかない。失敗した以上は仕方ない。好機は二度とやって来ない。過ぎ去った運命の女神はもう掴めないのだ。
「すぐに椅子を用意します」
運命の女神への謝罪を済ませると、エスピラは立ち上がった。
「良い。メルアは私に長居してほしくは無いだろう?」
「そんなことは」
「隠さずとも良い。息子が泣いているのに、自分の部屋に閉じこもったままと言うのはそういうことだろう?」
「メルアの性格を考えれば特に不思議なことでは無いかと」
「君が言ったのではないか。静かに近づいてマシディリをあやしているメルアを見るのが最近の楽しみだと」
そう言えば闘技場で酒を飲みながら子供をどう教育するのが良いのかを聞いたなと思いつつ。そこで、ちょっと酔った拍子にそんな話もしたなと思いつつ。
「見ていると分かればそれが誰だとしてもメルアはマシディリを放置しますよ」
しかし、そうかと。
母の愛情を存分に受けていると他の者ではマシディリは満足しないのかと、エスピラは目じりを下げた。
「すっかり父親だな」
「いえ。未だに独身気分ですよ」
返して、エスピラは立ち上がった。
「家を空けるの仕方あるまい。アレッシアの支配領域は最早海を越えるのだ。君ほどの人物なら、書斎が温まる暇も無くなろう」
「本当にそうならば、もっとうまく立ち回れたはずですがね」
立ち上がりはしたが、どこかに行くわけでは無く。
タイリーを立たせて自分が座ったままだと言うのが嫌だっただけである。
「イロリウスのことは気にするな。求められた仕事はできる男だが、政治として横と繋がるのは不得手な男だ。縦はうまくいっているのだがな」
タイリーが片目を閉じて声を落とした。
まだ家に居るペッレグリーノに対する配慮だろう。
「波の関係だと言われました」
「なみ? それは、普通と言うことか? それとも揺れる方か?」
「揺れる方です」
なるほどな、と言わんばかりに数度タイリーが頷いた。
「波は大きくなることを恐れてはいけない。むしろ育てる機会を失ってはならん。大丈夫だ。アレッシアには、止めてくれる者はいる。そう言う解釈もあって良いだろうとは思うが、君の見解とは違ったかな」
父とはどうだったのですか、とは、シジェロやトリアヌス一門に迷惑がかかるため、初めから聞くつもりは無い。
そして、タイリーからも何かを匂わせてくることは無かった。タイリー自身も占いで波の関係が出たことがあるとはどこか漂わせつつもウェラテヌスのウの字も出てこない。
「その解釈はしたことが無かったのですが、少なくとも、今は婚約に至れなかったとしても恨むつもりもどうこうするつもりもありませんよ」
「そうか」
「むしろ、私が気になるのは一年前までは消極的だった執政官にタイリー様が乗り気なところでしょうか」
タイリーの顔に変化はない。
いや、あるにはある。そう言ってくれるな、というような裏の無い表情。親しい者に見せるかのような顔。
「ハフモニには勝たねばならない。前回の戦いは長引いて多くの者が疲弊した。その中で勢力をより伸ばしたのはセルクラウスだ。ならばそれを還元するのがアレッシア人のあるべき姿ではないかね」
「ウェラテヌスに『呑まれた』ようにも聞こえますよ」
「ウェラテヌスの献身は誰もが胸を熱くし、同情をするところではあるが、及ばずともアレッシア人ならば誰しも国家のために自身を捧げるモノだ。これは君が良く知っていることだろう?」
「……失礼いたしました」
「それは、何についてかな」
タイリーの瞳に一瞬硬質な光が宿ったように見えた。
だが、ほんの一瞬で泰然自若した顔に戻っている。
(決定的な一瞬だとは、タイリー様も分かっているだろうが)
エスピラの父、オルゴーリョ・ウェラテヌスとタイリー・セルクラウス、もといウェラテヌスとセルクラウスの関係を占ったこと、およびその結果をエスピラが知っていると判断したか。
したとして、確証は無いはずである。
誤魔化せば流すだろう。
「ペッレグリーノ様との会話で主導権を握れたにも関わらず、結果的にペッレグリーノ様の望み通り妹とイフェメラの婚約を結ぶと言う話を無しにしてしまったことです。アレッシアを代表する使節としての交渉では、絶対にしてはいけない失敗でしょう?」
「アレッシアの執政官候補の男だ。並大抵の男ではない。実直な男であっても、一国の王と同等だ」
ディティキの王などとは比べ物にならない、もっと高位の。
「私が交渉すべきはその一国の王です。マフソレイオは、確かに私に好意的ではありますが、そうでない国もすぐそばにございますので」
タイリーの目が細くなった。
「サジェッツァが同盟都市に加えたピオリオーネはアレッシアの執政官よりも格下だとも」
違う話だと理解しているような声である。
「メガロバシラスに大王が居れば一か月もかからずに落ちるような都市国家の話はしておりません。いえ、私でも三か月も要らないでしょう。あそこの防備は、そんなものです。大事なのは、我らアレッシアのための生贄として相応しい地勢。それを悟られない交渉。流石はサジェッツァと言うべき成果ではないですか?」
「今は亡きメガロバシラスの大王ですら征服に時間がかかる国家と渡り合いたいとでも言うのかね」
「いえ。そこは国土が広大過ぎて王がこちらへ来れる状況ではありませんでしたね。戦に慎重な、決して裏切らない将軍が相手になるでしょうか」
東の果ての大国マルハイマナ。
その領土は現王が戦争に強いため急激に広がり、東側では現在もたびたび反乱が起こっていると調べはついている。
「何のために?」
「アレッシアのために」
嘘ではない。
それが全てでは無いだけで。
「そうか」
タイリーがエスピラから視線を切った。
衣服を整えるような仕草をして、書斎の出口へと向かう。
「タヴォラド様にお伝えしてもらっても良いでしょうか。次は準備を整えてから動きますので奪う隙は与えません、と」
タイリーの左目は極限まで細くなったが、右目は対照的に大きくなった。
文字通りベロルスへの訴訟を言っているわけでは無い、というのは存分に伝わっただろう。
言われているほど、エスピラとタヴォラドの仲が悪くないことも。
「ああ。分かった」
タイリーからの返事を聞くと、エスピラはベルを鳴らした。
やってきた奴隷にタイリーの見送りをさせ、代表としてカリヨにも見送ってもらう。
エスピラは机の上に、正確には来客があるまでメモを繰り返していたパピルス紙に手を置いた。
「機を逃したことを後悔している私を、どうかお許しください」
左手の革手袋を軽く握り、エスピラは運命の女神に告白した。
直後に、それ以上の力で右手がパピルス紙を握りつぶす。
「所詮は期待しかもらっていない不甲斐ない兄だ」
そのままパピルス紙を小さく潰して、部屋の隅のごみ入れに投げ捨てた。
書斎を出る。
音もなく息子の寝ている部屋に向かえば、マシディリは泣きはしないものの何とか堪えているような顔でむずがっていた。
息を吐きだすとともに表情を緩めて。
エスピラは、ゆっくりと息子に近づいた。
「お兄ちゃんが抱き上げると泣くんじゃない?」
「そりゃあメルアよりは上手くないが……いや、メルアを呼んできてもらっていいか? マシディリをどうあやせば良いのか教えて欲しいと」
「ん。りょーかい」
カリヨの離れた気配が、一歩だけで止まる。
「私、別に気にしてないから。ウェラテヌスにとってまだそう言う運命じゃなかったんじゃないの? 慌てた結果ウェラテヌスの利が少ないってなったら、怒るけどね」
そう背中越しに投げられて。
カリヨが今度こそ部屋から出ていく気配がしっかりと感じ取れた。




