マシディリ・ウェラテヌス
「マシディリをお気に召してくれたようで嬉しいよ、ソフィア」
エスピラはやさしく撫でるような声で言った。
足も先ほどよりも開いている。
「長子だと思っていたらいきなり姉が現れた。しかも、一国の女王である。だなんて、随分と混乱する状況であれだけのことを述べられるだけでも十分評価に値しますもの。将来のアレッシアの中心人物と言うのも、お父様の買いかぶりでは無いようですね」
ズィミナソフィア四世が陶器のふちを人差し指でなぞった。口は動き続けている。
「ただ、一つダメ出しをさせてもらうのであれば、小麦と鶏の例えは如何なものかしら。その二つで本当に関係ない事柄だと訴えているのは良く分かるのだけど、人によっては少し混乱するのではなくて? やはり、故事を持ち出すのが一番ではありませんか?」
マシディリが閉口し、小さく頭を下げた。
少し大きな衣擦れの音が鳴る。
「お父様も、私を不機嫌にさせてしまえばブレエビ・クエヌレスの件は……。いえ、何でもありません」
ズィミナソフィア四世が言いかけた言葉は、彼女の目がマシディリに行ったことで消えていく。
ズィミナソフィア四世の頬が少しだけ膨らみ、やや上目遣いに睨んできているようであった。
「流石に気づいたか」
エスピラは笑いながらお茶を飲んだ。
「どこまで、お父様の想定の内側なのでしょうか」
「マシディリに本番の空気を経験させてあげたかっただけだよ。まあ、ソフィアがマフソレイオのことをしっかりと考えているかどうかの確証は無かったけど、私の子だからね。
それに、私が暗殺の話を漏らしていないのは本当さ。マシディリはウェラテヌスの帳簿を見られる立場の上、誰よりも詳しい話を私から聞いているんだ。何より、そんな疑惑がある人と護衛を着けずに会うことを許してくれるほど私の軍団の者はやさしくは無いよ。あの件以来、エリポスに居る間はずっと誰かしらが私の近くに居たからねえ」
エスピラの視線が宙に行った。
とは言え、何かをしっかりと捉えるわけでは無く、物体を映さないまま細くなるのみ。
「お父様が渋るようでしたら、ブレエビ・クエヌレス、いえ、シジェロ・トリアヌスがお父様に不利な証言をされた時の対策を使おうと思っていましたのに」
足を投げ出すように少し前に出して、ズィミナソフィア四世が唇を尖らせた。投げ出された足は少々開いている。手は、足の間に。
「気遣ってくれて嬉しいよ、ソフィア」
言えば、ズィミナソフィア四世の唇がますます尖り、視線もマシディリも居ない方向へとやったままだが血色がよくなったようにも見えた。
エスピラは苦笑しながら、お茶に入っているドライフルーツをかき混ぜる。
「ただ、執政官として考えるならば、二割積み増して得られるのは積み回さない方が易く済む提案だ。確かに、その分の人が浮くのは良い。が、約束に頼るかどうかはまた別。
それならば神の末裔たるマフソレイオの王族からブレエビのくじに対する態度への公式見解を述べてくれた方が嬉しかったかな」
「吊り上げとして用意しておき、どこかの条件と入れ替えて十割は貰うと言うことも考えておりました」
「なるほど。それは良いね」
最低限を兵士へ宛てられるはずだった財を全て貰うこととし、交渉ではそれ以上を狙っていく。
第一印象は決まっており、少々自分に甘いエスピラならばと言う考えがあったのかはエスピラには分からない。が、徐々に吊り上げて行って結局は元の条件まで安くする方が心象が良くなると考えてはいたのだろう。
当然、これまでを考えればこの後もエスピラは考えざるを得ないのだが。
「それをやってくれるのは嬉しいが、それはそれとして」
言葉を止めて、エスピラは小さな木箱を取り出した。
ズィミナソフィア四世の前に置き、ぱかり、と開ける。中に入っているのは銀細工の指輪。細い物が二つと、幅の広い、マフソレイオの王族らしい物が一つ。
「この前ユリアンナに弟の世話のお駄賃としてメルアと同じような服をねだられてね。二着となると結構値が張るのだが、ついつい買ってしまったんだよ」
マシディリの目が細くなった。背は少々張りが取れ、あまりエスピラに、と言うかマシディリが人に向けることの無い色をした視線がやってくる。
その視線に気づきつつも、エスピラは話を続けた。どこかメルアを連想させるような視線であるため、少しだけ気分を良くなったが、そのことを言えば機嫌を損ねるのもまた愛妻に似て可愛らしいと思えてしまう。
「ならばマフソレイオからいつも支援してくれているソフィアにも、と思ってね。子供たちにらしいことをしてあげられていないのは自覚しているが、ソフィアに関してはそれにしても、だ。あまり気に入らなくても受け取ってくれると嬉しいな」
ズィミナソフィア四世の目が丸くなり、それから顔が少し綻んだ。
両手で包むように箱を手に取り、音も無く彼女の膝の上に収まる。
「ありがとうございます。お父様。いま、つけてもよろしいでしょうか?」
「構わないよ」
エスピラは無作法だと咎めたりはしないし、ズィミナソフィア四世も差し上げた側が嵌めてやるべきではありませんかとも言わない。
そう言う類の贈り物では無いのだ。
自分の指に三つの指輪全てを嵌めたズィミナソフィアが、両手の指を先々まで伸ばし、裏に表にと眺め始めた。
口が少し開いているのはご愛嬌。目は爛々と輝いており、肩や胸部は少し膨らんでいる。
「カルド島の民を尊重しているように見せかけながら、その実絶対必要な鉄と木材に税をかけるだなんて。しかも、気づきそうな人たちはあらかじめ中枢にいるか、ディファ・マルティーマで高額で雇われることが決まっている。
これも、そんな政策の一環ですか?」
言葉と違い、声は随分と弾んでいるように聞こえた。
目も指輪から離れていない。右手も左手もしげしげと見つめている。金色が主体のマフソレイオの装飾品の中で、異色な銀細工の指輪を見つめている。
「何の見返りも求めて無いよ。強いて言うなら、子供らしく喜びを表現してくれたら嬉しいな」
エスピラも口元を緩め、目じりを下げた。
意識せずとも、視線もやわらかくなる。
「では。ではでは自慢しに行ってまいります!」
言うと、すっくと立ちあがり、風を残してズィミナソフィア四世が退室して行った。
はたはたと残る風が、扉にかけてある布を揺らしている。
「ちなみに、陛下のあの行動には子供らしい一面を将兵にアピールして、警戒を薄めよう、イェステス陛下にあって自分にない無邪気な信頼を得ようとする意図があるかも知れない」
口元も目じりもゆるゆるの状態で言い、エスピラはソファの背もたれに身を預けながらお茶を口にした。
マシディリの口がぱかと小さく開く。
エスピラは、肩を揺らした。
お茶も、机の上に置く。
「かも知れないだけさ、マシディリ。今回は互いに友好的な関係の維持を前提とした話で、敵対する気は全くなかったとはいえ、本番はまた違った緊張があっただろう?」
言いながら、エスピラはドライフルーツの入った皿を持ち上げた。
少し左にずれ、マシディリとの距離を近くする。
「はい。父上や皆さまが普段どれだけ話しやすい空気を作ってくださっているか、染み入るように実感いたしました」
本当は、とまで言って、マシディリの小さな口が止まった。
その続きを聞こうかとも思い、エスピラはやめる。
話したくないのなら聞くべきではない。
そう、思ったからだ。
「マシディリ。心が落ち着かない時は、これを使うと良い」
エスピラは持ち上げていた皿を置いた。陶器も近づけ、それから皿に入っているドライフルーツをつまむ。
「一つずつ数を数えながら、落とす」
実践すれば、高すぎたのかお茶の水滴が机に落ちた。
エスピラはマシディリと顔を見合わせた後、無言で布を取りだして拭う。
「此処までやってしまうと駄目だけど、跳ねる様子をみて占うところもあるからね。ゆっくり落とすこと自体は気にする必要は無いよ。
そして、落ちる様子を見ながら、力を抜いて跳ねる様子だけを見るんだ」
やってみるかい? と、エスピラは皿をマシディリの方に置いた。
マシディリが硬い顔で頷き、真っ直ぐに手を伸ばす。
「そこまで気合を入れなくて良いんだよ」
と言いかけて、口をつぐむ。
マシディリが目一杯ドライフルーツを掴むと、一つずつ落とし始めた。
ぽちゃ、ぽちゃ、と音が鳴るが、水滴は散らない。様々な果実がお茶に浸っていく。
エスピラよりもたくさん入っているはずのお茶が飛び散ることなく、陶器に収まり続けていた。
「エスピラ様」
不意にかけられた声に、エスピラは短剣に触れつつもゆっくりと手を放した。
声の主、ソルプレーサは何も言わない。ただ、マシディリの方に視線をやってからエスピラに対して声の無い溜息を吐くだけ。
「エクラートン救援か襲撃かは分かりませんが、マルテレス様の軍団をかいくぐりハフモニ軍一万が十四番から九番に入りました。将はクノントです」
当然のことながら、この数字が示すのはディファ・マルティーマ近郊では無い。
「どのクノントだ?」
「ハゲの方です」
「ああ。金持ちの方か」
「はい。ピカピカの方です」
大真面目に言うソルプレーサの目は、エスピラから微妙に逸れている。
ちなみに、エスピラはふさふさだ。
「ヴィンドにエクラートンは任せよう。アルモニアは至急食糧の調達を。こっちは、分進合撃でも試してみようか。情報通りなら丁度良い相手だろう?」
エスピラの言葉に、かしこまりましたと慇懃に頭を下げてソルプレーサが下がっていった。
エスピラは顔をマシディリに戻す。真剣な顔で、まだドライフルーツを入れ続けていた。跳ねた後は無い。綺麗に収まっている。
「様々な種類が入っているのに越したことは無いけど、あまり入れると飲むのが大変だぞ?」
エスピラがそう言うと、マシディリは
「入れたからには全て飲んで見せます」
と言って、本来の目的を忘れて一気飲みを敢行したのだった。




