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セルクラウス邸

「ねえ」

「ん?」

「いつまでこうしているつもり?」


 不機嫌そうな声を出しながら、メルアが自身の腰をしっかりと掴んでいるエスピラの左手を見た。


「メルアが嫌がるまで、かな」

「嫌よ」


 そうかい、と思いながらもエスピラは手を退けなかった。メルアからきつい眼光が送られてくる。それでも離したら離したですぐに不機嫌になることが分かっているので、エスピラは自分が楽しい方を取った。


「家からここまでずっとこうだったろ?」

「あら。貴方より私の方が長く住んでいる家から、私より貴方の方が長い時間を過ごした家までの間は良くても今は嫌よ」


「記憶が無いだけで、私だってそれなりの期間ウェラテヌス邸で過ごしていたさ」

「四年も貴方が居ない期間があれば、十分に逆転できたと思うのだけど。誰かの所為で私はずっと家の中だったのだし」


「悪かったって」


 足音は耳に入っていたが、エスピラは気にせずにメルアに顔を寄せた。

 頬をくっつける前に軽く噛まれる。歯形は多分つかない程度の力だ。


 少しだけ甘んじて受け入れてから、離れる。だが、離れた直後にメルアの右手が背中に食い込み、鎖骨を噛まれた。


 痛い。

 が、エスピラの好きな匂いもする。


「悪かったって」


 言いながら、エスピラは右手をメルアの後頭部に伸ばした。

 んん、と後ろから咳払いの音がする。


「親族の情事は見ていて気持ちの良いモノでは無い。君達が望むのなら、部屋ぐらい用意できる。何なら、会談は明日にしても私は構わないが」


 この家の今の主、タヴォラド・セルクラウスが低い声でそう言った。


「じゃあ出て行けば?」


 エスピラから離れたメルアが言う。

 下唇は唾液に濡れていて、場違いながらも少し煽情的ですらあった。


「此処は私の書斎だが」


「あら。私が服を脱いだらどうするの? あの気持ち悪い出来損ないのケダモノ(トリアンフ)みたいに兄上も鼻息を荒くして、顔を伸ばすのかしら」

「メルア」


 エスピラが諫めるも、親子ほどに年の離れた兄妹は数秒の間視線をぶつけ合った。


 先に視線を切ったのはタヴォラド。氷のような表情で静かに書斎の奥、自身の机に向かい、座る。


 メルアもそんな兄を睨みながらもエスピラにくっつくようにソファに収まった。


「近いな」

「なら離れれば?」


「私と君達の距離では無い。君達の距離だ」

「あら。普段は海を隔てていますから。私には良く分からないくらい離れているの。これくらいで普通の夫婦になるとは思わない?」


「責めているわけでは無い」


 タヴォラドが一切表情を変えず涼やかな顔で言った。


 タイミングを計りかねているような奴隷がおずおずとやってくる。

 エスピラ、メルア、タヴォラドの順でお茶を置き、ドライフルーツはタヴォラドの前に置いた。


 タヴォラドがドライフルーツをつまみ、お茶に入れる。


「こうして面と向かって会うのは十一年前のメルアのお披露目の晩餐会以来か。全然変わっていないな」


「あら。どういう意味かしら」


「いや。母上も美容には気を遣われていたなと思ってね。母上もいつまでも若々しかった。特に畑仕事をした後には日焼けに気を付け、手入れを入念に行っていたよ。出産の時には疲れ果てた顔を父上に見せたくなかったとも聞いている」


 タヴォラドの目が懐かしんでいるかのように細くなった。


「知らない人の話をされても困るのだけど。それとも、ウェラテヌスの妻が畑仕事もしない落第者だとでも?」


 タヴォラドの感慨など無視して、鼻で笑うようにメルアが言った。

 タヴォラドの目が戻ってくる。


「兄弟の中で一番面影があると思ったまでだ。ただ、母上は非常に快活な方で良く笑っていたが、君については笑った話など聞いたことが無い」

「見せる必要があって?」


(寝ている時ならば私が見ようと思えば見られるけどな)

 と思いつつも、エスピラはドライフルーツをお茶に落とした。愛しい妻の可愛い寝顔は心の奥に仕舞い、表情には一切出さない。


「無いな。私も、良く笑顔が足りないと言われる。だが、そこが良いと言ってくれる女性も多い。メルアならば分かるだろう?」

「ねえ。あの男黙らせてよ」


 メルアが唐突にエスピラに振って来た。


「そう言う意味では無い。君はメルアのそう言うところも受け止めているのだろうと言っただけだ」


 タヴォラドもエスピラに言ってくる。


「タヴォラド様。元老院で話すように話せば良かっただけかと思います」

「私はいつも通りだ」


 タヴォラドがお茶を口にした。

 口に持っていった動きに比べて、口元にある時間がやけに長い。


「不器用なあたりは似た者兄妹ではないですか」


 言った直後に、エスピラの左腕に激痛が走った。


 一瞬歪んだ顔を整えて横を見れば、メルアが爪を立てるように握りつぶしてきている。ただし、力はどんどん抜けていっている。腕の硬さや震えを見れば真剣に握っているのだろうが、メルアに維持し続けるだけの力は無いのだ。


「不器用な者が政治を司れるわけはない」


 そして、タヴォラドも遺憾の意を示してきた。


「素直にメルアと会話をしたかったと言えば良かったじゃないですか。トリアンフの所為で話しにくかったとか、私がフィルフィア様にトリアンフのことを持ち出した所為でどう話しかければ良いか分からなかったとか。そう言えばメルアももっと素直に応じてくれたと思いますよ」


「ねえ。貴方が私を守るのは当然でしょう? それなのになんであの気持ち悪い男の話を出して牽制しただけで私が喜ぶと思っているの?」


 そこまで言っていない。


 が、なるほど。メルアは少しは喜んでくれていたらしい。


「妹に何を遠慮することがあると言うのだ」


 タヴォラドも氷のような声の中に否定を入れて来た。


「私はカリヨに遠慮もありますよ。可愛い姪の話はあまりできなかったりとかですけどね」

「ヴィンド・ニベヌレスとジュラメント・ティバリウスか」


 エスピラの妹、カリヨ・ウェラテヌス・ティベリはジュラメントの妻だ。

 だが、ヴィンドの愛人でもあり、二人の間には子供が居る。


 確かに、此処だけを抜き取ればアレッシアではさほど珍しいことでは無い。マルテレスもマフソレイオで見つけた娼婦との間に子供を設けているのだ。子供はいないが、タヴォラドもサジェッツァも愛人は居る。タヴォラドは現在は三人。顔ぶれは、五年前と同じ女性は一人だけ。後の二人は新しい愛人で、三人の古い愛人との関係は終わっていると報告が入っている。


「ええ。少しばかり扱いに困ってしまいましてね」


 カリヨとしては元々ジュラメントをウェラテヌスの役に立つ人物とは思っていなかったらしい。その場しのぎにはなるが、それだけ。だから子供も一人だけで良く、娘であったことは嬉しかったらしいのだ。


 将来は、エスピラの子供をその子と結婚させ、ティバリウスの基盤を根こそぎウェラテヌスの物にする算段だとも、エスピラは知っている。ソルプレーサもあたりをつけていた。


「扱いに困るのはそれだけでは無いだろう。君は至る所に問題を抱えているはずだ。

 ディファ・マルティーマの防御陣地。マールバラ対策としては素晴らしく、間違いなく今のアレッシアで最も堅い場所だ。とは言え、堅すぎる。マルテレスでも抜けない上に、仮に元老院との長期戦になれば負けるのは君じゃない。アレッシアだ。共通の敵がいる今は必要だが、戦後は確実に解体を要求されるだろうな。


 軍団もそうだ。エリポス以来の兵一万三千は精強無比だ。だが、期間が長すぎる。君に忠実過ぎる。臨時給金や武具防具の修理の優遇なども含め君の私兵だと揶揄する輩も多い。


 メガロバシラスとマルハイマナを抑えるのに使ったエリポス諸都市も君を通じてアレッシアへの干渉を積極的にしてくるだろう。今は君が防いでいるが、君を外国に阿る売国奴だと言う輩もいる。


 このままでは、サジェッツァが権力掌握のために中枢に入れた者達に攻撃されるぞ。彼らにとって君は最大の脅威だからな。


 例え家柄や経験、実績があっても無能ならば首を切る。代わりに無名で実績が少なくとも有能であれば実力を発揮する機会を与える。


 そんな者が権力を握ってしまえば二度とはちみつを舐められないと知っている程度には有能な連中だからな」


「へえ。まるで、エスピラよりフィルフィアの兄上の方が優秀だとでも言いたげね。しかも見抜いているのに動かないだなんて。いやね。貧乏な家門は。結婚は一門同士の結びつきだと言うのに全く役立たずの家門とばかり婚姻関係を結んでいるじゃない」


 タヴォラドの警告に対して、エスピラが何かを言う前にメルアがそう返した。

 ウェラテヌスへの苦言に見えて、タヴォラドを挑発する言葉を。エスピラよりも素早く。セルクラウスを貶める言葉を。


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