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義四九(ぎきょうだい)

 風呂場にも聞こえて来た騒がしさにエスピラは指先を強めた。持ち込んでいた短剣に手を触れる。

 水を浴びて錆びても良いようにウェラテヌスの短剣では無い。アフロポリネイオから送られてきた短剣だ。


 隠すようにその短剣を持って、風呂場を出る。

 直後、花瓶が飛んできた。


 エスピラの横の壁に当たり、砕けて落ちる。


「ねえ。なんで一人で入ってるの?」


 次に、不機嫌な妻の声。


(そう言えば、クイリッタも似ていると自分メルアから言っていたな)


 一か月と少し前の、クイリッタの逃亡もどき事件の時に。言い回しは違うが。


「あら。私、何かおかしいこと言った? それとも妻がおぼれても良いって?」


 端正な顔を怒りに染めてメルアが言う。

 後ろに居る家内奴隷は恐怖からか唇を青くし、体の表面積を減らしていた。


「気持ちよさそうに寝ていたからね。起こすのが可哀想だったんだよ」

「ねえ。その気持ちよさそうって言うのは、すぐに起きる程度の眠りに使うことなのかしら?」


(すぐに起きたのか)

 と、エスピラは微笑ましく思った。


 だって、エスピラが寝室から出る前はエスピラに体を向けてぐっすりと寝ていたのだから。起きているのなら、背を向けているくせに。安心しきった顔でエスピラの懐に居たのである。


 服を着せていて良かったな、と揶揄おうかとも思ってエスピラはやめた。


「一緒に入るから機嫌を直してくれないか?」

「誰が機嫌が悪いって? 誰が、貴方と一緒に入りたいと言ったのかしら」


 確かに言ってはいないな、とエスピラの口角が上がる。


「私がメルアといつものように一緒に入りたいと言ったら、駄目か?」

「……貴方が、どうしてもと言うのなら」

「どうしても。何としてでもメルアと一緒に入りなおしたいな」


 すぐに言えば、メルアが顔を顰めつつもゆっくりと一度縦に動かした。

 口元は良く見れば僅かに緩んでいるようにも見える。


「旦那様。本日はフィルフィア様が午後に到着されるとのことでしたが、今から入られますと」

「待たせておいてくれ。メルアの方が大事だ。それに、フィルフィア様も兄ならば弟妹の可愛い我儘ぐらい許してくれるだろう?」


 言いつつ、エスピラはメルアを迎えた。


 メルアが怪我をしないように、先に奴隷に花瓶の破片を片付けてもらう。密着した時にメルアの服が濡れたが、まあいいかとエスピラはさらに抱き寄せた。冬なのもあって、メルアの体温は暖を取るのにも非常に丁度良い。


「それでは、失礼します」


 片付けが終わった奴隷が言った。


「ご苦労。少し休んでいてくれ」


 軽く労って、エスピラは奴隷を見送った。それからメルアの服を脱がし、再び風呂場へ。


 風呂から出たのは奴隷の懸念通り大分時間が経ってから。

 お疲れ気味の愛妻を寝室に寝かせて、それからフィルフィアが待っていると言う報告を受ける。


 それを聞いてから、エスピラは普段通りに準備を重ねて客間に入った。


「遅れて申し訳ありません」


 そして、開口一番に丁寧に腰を曲げる。

 フィルフィアのやや濃い白ワイン色の髪が、少しだけ揺れた。


「セルクラウスが下に見られていると思っても?」


 声音では隠されているが、言葉としては憤りは隠れていなかった。


「セルクラウスの者である妻を大事にしているが故に遅れてしまいました。私自身の準備はフィルフィア様が到着される前に完成する予定だったことを御理解いただければ幸いです」


「そのメルアは?」

「ですから、疲れているのです。妻を大事にしておりますから、疲れてしまったのです」


 それから、エスピラは笑みの質を深めた。黒い方向に深め、にっこりとフィルフィアを直視する。


「間違っても今は会いたいなどと申さないでくださいね。実兄であるトリアンフ様が私の妻に何をしようとしたのか、私は忘れておりませんから。お気を付けを」


 トリアンフ・セルクラウス。

 タイリー・セルクラウスの長男にしてメルアの兄の一人。


 裁判まで起こした後継者争いに敗れ、妹に欲情した者として何者かに罪人同然に殺された。いや、欲情したどころか精力剤や媚薬効果のある物を用意してメルアの元に出向いたのだ。セルクラウスとしても最早最大の恥部だろう。


 そして、トリアンフの政敵にしてタイリーの次男であるタヴォラド・セルクラウスはトリアンフを殺したのはエスピラだと考えている。裁判に負けたのに実力行使で無理矢理メルアを襲おうとして、返り討ちにあったと。


 その考えは半分はあっている。

 だが、殺したのはメルアだ。エスピラは止めなかっただけ。メルアの知的好奇心や欲求を満たさせただけである。


「随分と失礼になりましたね」

「申し訳ございません。遅れたことに関しましては、本当に私にのみ責があります」


 エスピラは慇懃に頭を下げた。

 その間を、ソルプレーサが埋める。


「最高神祇官の血縁者、イロリウスの血縁者。アスピデアウスの一門の者。オピーマと婚姻で繋がった者にテレンティウスの者。これだけの被害が出たアレッシアでの怪死事件でセルクラウスだけが無傷。そうなると、とエリポスで必死に頑張っていた者達が警戒するのは聡明な者ならすぐに分かるかと」


「ソルプレーサ」

 エスピラは冷たく穏やかに言った。


「失礼いたしました」

 被庇護者が丁寧に頭を下げて、再度エスピラの後ろに下がる。


「歓迎されていないのは知っているよ」

 フィルフィアが言う。


「何か、失礼なことを?」


 誰かがしましたか? とも、フィルフィア様がしましたか? ともとれる言葉を選んで。


「いや。私が来年の法務官候補で、任地がディファ・マルティーマになるのはご存じだと思いますが、副官が決まらないのです」


「副官が、決まらない?」

 それは大変だ、と少し深刻そうにエスピラは返した。


 フィルフィアがお茶を飲んでから、口を開く。


「私が誰に打診したのか、ご存じでしょうか?」

「いえ。全く」


 エスピラは小さく首を振る。


「ヴィンド様。ルカッチャーノ様。カリトン様。ピエトロ様。ネーレ様。いずれも、断られてしまいました」


(アルモニアにも打診していただろ?)

 と思いつつも、分かりやすい罠だろうからエスピラは「それは大変だ」と表情だけで返した。ついでに、分かりやすい罠に隠れている他の罠も探す。


「何かご存じでしょうか?」


 フィルフィアが神妙な声を出す。


「さあ。初耳ですので、何とも」

「私は、此処にいる軍団のこれまでを共に経験したわけではありません。だからこそ、軍団と共に歩んできた者に支えて欲しいのです」


「そのお気持ちは十分に分かります。私も、逆の立場ならばそうしていたでしょう」

「それなのに、多くの者がほとんど検討もしなかったのではないかと言うほどの速さで断ってくるのです」


 んー、とエスピラは眉間にしわを寄せた。


「人選が、誤解を招くモノだったのではないでしょうか」


 そして、エスピラも神妙な声を出した。


「私が最初に軍団に欲しいと言ったのはソルプレーサ、シニストラ、アルモニア、イフェメラ、グライオ、カウヴァッロ。この六名の内、グライオは仕方ないとしてもフィルフィア様は残りの誰にも打診をされていないのですよね。

 それはつまり、私に言えないような何かをしたいからこそ私に近しい者を排除したともとれるのではないでしょうか。


 例え真意が違うとしても、タヴォラド様とサジェッツァは近しいと誰もが思っております。そして、その二人が私に私の能力が遺憾なく発揮できる場所を用意してくださったのですが、傍から見れば私を遠くにやって妻を奪おうとしたと見えてしまいます。アスピデアウスの愚か者の所為で、ですがね。


 加えて、フィルフィア様はタヴォラド様に近い人物。タヴォラド様が最も信用している血縁者。妻を奪おうとした者もサジェッツァの血縁者。悪いことに、トリアンフ様もフィルフィア様の血縁者でメルアに欲情していた者。


 悪条件が揃い過ぎているのです。正直、人選を誤ったとしか思えません」


 最後に、駄目押しと言わんばかりの同情しつつ、今後の元老院はどうするべきか、と悩むような表情を作ってエスピラは頷いた。


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