役目
「ですから、私は寂しいなど思っていません」
相変わらず下を向いたまま、クイリッタが言う。
「そうだったな」
エスピラは笑って、クイリッタに回していた手を外した。
朗らかな雰囲気のまま、ソファにもたれかかる。
「自分の力を試しただけだ。そうだろう? クイリッタ。最小限の人で多くの人を別の方向に誘導する。しかもやり方はマシディリでもユリアンナでもリングアでもできない方法で。メルアが居なければ、もう少し上手く行っていたかもな」
そうなった場合はもっと怒っていたけどね、ともエスピラは言う。
クイリッタの肩が僅かに反応し、表情が渋くなった。
「母上は嫌いか?」
決して怒っているとは勘違いされないように、寄り添うような声を心掛けてエスピラは聞いた。
「別に、嫌いでは、ありませんが……」
歯切れ悪くクイリッタが言う。
「メルアが叱っても説得力が無いのか? とは言え、メルアは女性だからな。戦場に立つことは無い。その中で自分の身を守る術は持っている。だが、クイリッタが剣術をさぼってしまえば自分を守るための技術を持たずに成長してしまう。それを危惧したんだよ」
「説得力が無いのはそれだけではありません。母上のセルクラウスも力のある貴族。その上、現在唯一のウェテリの尊称を持っているのです。それがあれでは、父上の申していた責任など全く心に響かないとは思いませんか?」
今度の言葉もクイリッタはエスピラを見ずに言っていた。
だが、顎は元の位置に戻り、顔はしっかりと前を見ている。
(どうするかな)
正直な話、エスピラとしてもメルアはある意味貴族らしくないと思っている。立場については認識しており、奴隷や平民に対する態度は貴族的とも言えるが、エスピラの前でアレッシアもセルクラウスもどうでも良いと言い切っているのだ。
それを子供には伝えたくなかったし、伝えることなどできはしない。
「マシディリに対する心無い噂を知っているか?」
結果、エスピラが選んだ話題は半ばタブーと化している話。
エスピラから振ってきたことにクイリッタも驚いているのか、久方ぶりにエスピラにその顔を正面から見せてくれた。
「管理委員の時に、幾度か耳打ちをされたことがあります。その、本当は父上の子では無いと言う」
「そうだ」
エスピラはまた左手を回し、クイリッタを引き寄せた。
クイリッタも大人しくエスピラの腕に収まる。
「濡れた木を燃やすような噂だ。正直、とても馬鹿々々しい話だと私は思っている。
だが、メルアが男を良く家に招いていたのも事実だ。関係を持っていなくても、そう見えてしまうモノだろう? メルアにはメルアの意図があって行っていたことだが、それがマシディリを苦しめることにも繋がってしまっている。
メルアはそれを悪く思っているからこそ、クイリッタから見てマシディリだけやけに優遇しているように見えるんだろうな。それがメルアなりの責任の取り方なのさ」
不器用だろう? とエスピラはクイリッタに笑いかけた。
クイリッタは困った顔をしている。
エスピラは、そんな息子の頭を乱雑に撫でた。クイリッタの髪がまたもや乱れる。
「マシディリは私の息子だ。私のことを良く知る者たちがマシディリが私に似ていると言うのだから間違いない。あ、いや、これでは私が私を褒めているようにも聞こえるな」
しまったしまった、と笑いながら、エスピラはクイリッタから目を切って後頭部を人差し指でかいた。
「勤勉でないと数多の言語を習得することなどできません。それに、父上が仕事をし過ぎているとは私も耳にしたことがあります。そこを見れば、父上と兄上は良く似ているのではないでしょうか」
憮然とクイリッタが言う。
「私が喜ぶと思って言ったか?」
冗談めかしてエスピラは言った。
「半分」
と、クイリッタが呟く。
「正直だな」
エスピラは、笑って続けた。
「嬉しいよ、クイリッタ。マシディリは必ずやウェラテヌスの当主として活躍させなければならない人材だ。失敗すれば、それは父の最大の失敗になる。それだけお前の兄は凄すぎる存在なんだ。
でも、だからこそマシディリにはできないことがある。マシディリは、きっと立派にウェラテヌスの誇りを継いでくれるさ。カリヨや私の父上のようにね。
だが、それだけでは上手く行かないこともある。私のように時に媚びへつらうような動きは出来ないんだ。それが最善の場面でも、マシディリは遠回りをしなくてはいけない」
「私なら誇りを捨てられると?」
クイリッタの声が暗くなった。
「そうじゃない。私と同じように堪えられる、と言ったのさ。堪えて、弱った瞬間に突き殺す。あるいは取り込む。ウェラテヌスの名に誇りを持ちながら、アレッシア人らしくなくとも利を獲ることが出来る。クイリッタ。きっと、それはクイリッタが一番うまい」
ユリアンナよりも、きっとリングアよりも。
「自分の好きなこと、得意なことと求められていることの間に役目がある。好きなことと求められていることが完全に一致すればそれに越したことは無いが、難しいこともあるだろう?
クイリッタ。だからまずは、自分が好きなことを見つけてくれ。
父や母上がクイリッタの将来に向けて何かできるとすれば、それからになってしまう。それまでは今までのように他の兄弟を優先しているようにも見えてしまうかもな」
とは言え、勝手に色々持ち込むかもしれないけどね、とエスピラは笑った。
クイリッタは口を閉じている。
「剣術が苦手なら最低限で良い。最低限身を守れれば、後は誰かに頼れば良いのさ。父だって、シニストラに頼っている。純粋な力比べになれば、父は簡単に負けてしまうからね。
馬術は、もう少し頑張ろうか。騎兵にならざるを得なかった時につまらない所で死んで欲しくはないと理解してくれ。
詩作は良いと思ったんだけど、嫌いならやらなくても良いよ。父もとやかく言えるほどの腕は無い。これもシニストラに頼っていたな。
戦術も戦略もどうせ一人で全部は無理だ。だが、ウェラテヌスである以上は上に立った時に悪手ばかりを選ばないように鍛える必要はある。まあ、これは経験だからゆっくりで良い」
クイリッタの目がエスピラの元に来て、ゆっくりと斜め下に移動した。
ややあってから、口が開かれる。
「詩作は頑張ってみます。嫌いではありませんから。戦術と戦略は、もう少し話を聞いてみようと思います。ただ、馬術はできれば時間を変えてください。兄上ともリングアとも競わずにやりたいのです」
「わかった。クイリッタのために新しく時間を調整しよう。剣術に関してはステッラやレコリウスに頼んでいるから厳しいかも知れないが、奴隷ならばもう少し融通が利く。無理だったら新しい人を雇っても良い」
少しの試し。自分のために父はどこまでやってくれるのかと言うのが入っているような言葉に、エスピラは即答でその我儘を認めた。
「それから、トリンクイタ様の下で芸術や娯楽についても学んでみたいと思っています」
「私からも一言添えて置くが、クイリッタからも頼む方が良いだろうな」
その希望も、エスピラは認めた。
クイリッタが小さく頷いて、「ありがとうございます」とこぼれてくる。
「どういたしまして」
言って、エスピラはクイリッタの頭を撫でるとソファから立ち上がった。
クイリッタもエスピラに続いてソファから立ち上がる。
「ただ、今日は此処からが大変だぞ、クイリッタ」
クイリッタが小さく頭を傾げかけ、それから顔を暗くした。
「大丈夫だ。母上は調子が悪いからね。叱られはしないよ」
クイリッタの顔が少し明るくなる。
「でも、迷惑をかけた人たちには謝りに行かないとね。厩舎係に被庇護者の皆さんに、戦車競技団にシニストラとかのクイリッタを心配してくれた人。たくさんいるな」
少し明るくなったクイリッタの顔が、次はひきつった。
「こればかりは自分の責任でもあるよ、クイリッタ。それだけのことをしでかしたんだ。ウェラテヌスかどうか以前に、人としてけじめはつけないと」
クイリッタの顔がどんどん下に向く。
「……はい」
そして、地面に落ちていく声でクイリッタが返事をした。
「じゃあ、まずはトリンクイタ様に謝りに行かないとね。もちろん、父も同罪だから一緒に行くよ」
さあ、行こうか、とエスピラは息子の手を取り、部屋を出たのだった。




