トリンクイタ・ディアクロス
ソルプレーサとリャトリーチに見張りをしてもらい、人が居なくなった瞬間にエスピラは剣の平たい柄に足をかけた。一瞬で壁を越え、紐を引っ張って剣を回収する。
侵入した屋内でエスピラは耳を澄まし、人の気配を肌で探った。
人が居る間は陰に隠れ、衣服の乱れを整える。少なく成れば堂々と歩き、建物へ。入ってしまえば奴隷に見られても問題は無い。
ディファ・マルティーマで最も権力を握っているのはエスピラなのだ。
そんな者が不法侵入するなど誰も思わない。堂々と歩いていれば、約束があったと思うのが普通である。
エスピラが書斎にたどり着くまでに四人の奴隷とすれ違い、さらに多くの人に目撃されたが誰からも話しかけられることは無く。
エスピラは、声もかけずに背筋を伸ばして書斎に入った。
そこは最早書斎と言うよりも公演がたくさんある前々日あたりの舞台袖であり、熱心なファンの部屋である。部屋の中は所狭しと散乱しているように見えてその実、建物ごとに構造図や公演予定がまとまっている。その近くには小さな模型。作りかけの物も確認できた。敷物やチームの色に染められた布などの戦車競技場や劇場、あるいは闘技場で売るようなグッズもある。
「何故クイリッタの狂言に付き合ったか、教えてもらっても?」
そして、エスピラはその書斎の主、トリンクイタ・ディアクロスにそう尋ねた。
エスピラの登場に動きを止めはしたが表情を変えていなかった義兄は、此処で初めて困った笑みに顔を変えた。ただし、おおらかさの残る表情である。
「これは、誤魔化さない方が良いのかな?」
声も余裕がある大人そのもの。
「ご自由にどうぞ。先の発言は聞かなかったことにしますから」
ふぅむ、とわざとらしく迷ったフリをした後、トリンクイタは背筋を伸ばした。
座っているのは変わらずであり、エスピラがトリンクイタを見下ろす形になっている。
「一方的な関係ではなく、取引をした、と言うのが正しくてね。うん。父親には話しておくべきなのかな」
エスピラは口を挟まずに眼光でトリンクイタに続きを促した。
「私が支払うのはエスピラ君に対しての少々の背信行為。エスピラ君のおかげで財務官になったり好きなことを仕事にできたりしている以上は心苦しかったけどね。そこは許してくれるとありがたいな。
そしてクイリッタ君が支払ってくれるのは戦車競技団の裏方からの信用だね。それと、エスピラ君からのある種の絶対的な信頼。
おっと。これではクイリッタ君は何も払っていなかったね」
してやられたよ、と笑いながらトリンクイタが自身の後頭部を大きく厚い手で叩いた。
エスピラは何も言わない。
「そんな顔をしないでおくれよ。本当に、エスピラ君とメルア君の子供は優秀過ぎる。
世話係を子供の可愛い頼みで篭絡しつつ、この街で最も軍事力と政治力を持っているエスピラ君に嘘を吐かせたんだ。もちろん、この程度ではエスピラ君は彼を処罰しないだろう。だが、一時的に連絡が取れなくなり、しかも人が動いているのを見れば嘘を吐いた方は不安になる。そこで訪れる処罰無し。無罪放免の一報。
クイリッタ君が約束を守ったようにも見えるし、クイリッタ君に協力するだけで私も噛んでいるかのように錯覚させられる。
それだけでは無いよ。メルア君がこのたくらみを見抜けば、クイリッタ君と私は同罪。特に私は家に近づくだけで睨まれる存在になるわけだ。つまりは、メルア君に絶対に近づけない男。絶対に手を出さないし邪な思いを抱かない存在。抱いたとしても行動に移せない存在。
しかも、クイリッタ君は私の日頃の行動からメルア君に近づかないようにしているのを見抜いていたんだ。危うきに近寄らず、エスピラ君の怒りに触れないようにする私の動きにね。
その意図を見抜いて接してくる九歳の名門の子。
私みたいな端っこの貴族が協力するには十分な理由じゃないかい?」
なるほど、とエスピラは冷たく言った。
トリンクイタが震えるように肩をすくめる。もちろん、顔はやや道化じみたモノだ。
「エスピラ君。マシディリ君は非常に優秀な子だ。必ずや将来のアレッシアをしょって立つ存在だと私も評価しているよ。特に串刺しの森にも眉を顰めるだけで顔を逸らさず、第一次ディファ・マルティーマ防衛戦をしっかりと見続けていた以上、指揮官としても肝が据わった者になるだろうね。本当に楽しみだよ。
メガロバシラスからの友人もマルハイマナからの友人もマシディリ君の聡明さには一目置き、彼の師になれたことを喜んでいたさ。聞けば、マフソレイオの女王も気にかけているらしいじゃないか。本当に素晴らしい。
でもね、エスピラ君。私はクイリッタ君も高くかっているんだよ。
エスピラ君。マシディリ君。正直言って、この二人に続く者は最大の不運だとしか言いようがない。片や蔵を空にし、権力者に頭を下げざるを得なかったような名門を一大派閥を築き上げるまでに盛り返した者。片やその者を継いでも何も不満も無い、むしろ明るい未来を想像させる者。
その子であり、弟であり、何かあった場合には継がねばならないかも知れない立場にあるクイリッタ君に求められる水準は高すぎる。完璧超人を求められているからね。私だったら逃げ出したくもなるさ」
ディアクロスに連なる者には永世元老院議員が居る。
いわば、タイリー・セルクラウスの栄光と同時に一度は絶頂に上り詰めた一門だ。その一門に生まれた才覚豊かな子供がトリンクイタであったならば、実感のある言葉と言うことになるのだろう。
「だからクイリッタ君も逃げ出した。いや、彼の場合は試したのかな。
エスピラ君が探しに来てくれるか、どうか。すぐに見抜いてくれるかどうか。自分のことを分かってくれるのかどうか。
迷惑をかけることで愛を測りたかったと思えば子供のかわいい悪戯だとは思わないかい?」
エスピラは僅かに口角を上げた。目は変えない。
「トリンクイタ様。クイリッタの弁護なら不要です」
「それは、どの意味だい?」
「あらゆる意味で。私は、確かに子供たちと居る時間は短いですがそれでもクイリッタの父親です。そしてクイリッタは私の愛する妻の子供でもあります。私に対してのみ話す弁護など、何の意味も為しません」
トリンクイタの目が大きさそのままに横に移動する。
「そうかい。じゃあ、私の自己弁護でもした方が良いかな」
おどけたように言って、トリンクイタが両手の位置をやや開いた。
「そうだね。何よりも、私はまだ役に立つよ。闘技場も戦車競技場も劇場も浴場も、凡そアレッシア人の娯楽は全て堪能しているからね。利用者目線でどこをどうすれば良いのか。あるいは、建てる側としてどこは譲れないのか。それを私ほど分かっている人はいない。
流石に、これはエスピラ君と雖もまだ盗めてないんじゃないかな。
エスピラ君の何よりも恐ろしい点は学習能力の高さだからね。その内私が居なくとも何とかなりそうだが、今はそうはいかないだろう?
後は、私が居るだけで大分元老院に有利に立てる。ディアクロスの当主は父では無く私。永世元老院議員を抑えているような状態な訳だからね。プレシーモ様はもう誰も自陣に取りたくはないとすれば残りのタイリー様の子供たちは六組。内、タイリー様の愛妻であるアプロウォーネ様の子は三組。此処に二人いれば、タヴォラド様も無下には出来ないんじゃないかな。
これはちょっと脅し染みているからから不安なんだけど、私とクロッチェの仲が最後の弁明かな。私たち夫婦は確かにエスピラ君たちとは違って互いに愛人も居る。でも、夫婦なんだ。そして、メルア君は兄弟姉妹の中ではクロッチェと一番仲が良い。
出来れば、メルア君のためにも私の処分は無いと嬉しいな、なんて」
にこやかな顔を一度も崩すことなくトリンクイタが弁論を終えた。
エスピラも笑みを作って数度頷く。エリポスの最後に良く使った笑みだ。
「役に立つ、と言いましたね。それ以降の言葉は一切要りません。ああ、いえ。永世元老院議員の話やタヴォラド様との関係の話は必要ですがね」
口笛を吹くよりもやや大きく口で丸を作って、トリンクイタがぶんるるると肩を上げていった。
それからひょうきんな様子で額にしわを作っている。
「クイリッタ君は一階の奥の客室に居るよ。念のため途中の部屋に一人だけ置いているけど、基本は誰も近づけないようにしているから、邪魔は入らないんじゃないかな」
「お心遣い感謝します」
トリンクイタに礼を言って、エスピラは書斎を後にした。




