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優秀な劣等感

「クイリッタ様はキンラ様に少しだけ似ているような気がします」


 書類を持ち上げかけて、エスピラは動きを止めた。

 パピルス紙の端を持ちつつディミテラに視線を向ける。


「手段はどうあれ、今になって思えばお爺様はマルハイマナを動かすことが出来ておりました。その上、キンラ様は顔にやけどを負っており、見目の良かったお爺様や叔父上に劣等感を抱いていたのだとも思います。


 それを想うと、マシディリ様は誰からも期待を寄せられております。エスピラ様はもちろんのことですが、カクラティス殿下も高く評価していると聞き及びました。ディファ・マルティーマに居る軍団の皆様も口々に褒めたたえております。ウェラテヌスの政敵だと奴隷の皆様が言っておりますアスピデアウスの人にも認められております。


 弟君でありますリングア様も語学習得速度も目覚ましく、剣の腕では既にクイリッタ様を抜いていると耳にしております。早駆けもリングア様の方が上手いそうです。


 アレッシアの名門であるウェラテヌスの生まれで、必ずやアレッシアの中心になるエスピラ様の子供として生を受けたこと。三食に加えてお菓子まで出ること。書物もいつでも見ることが出来る環境にあること。傷病の治療もすぐに受けられること。


 クイリッタ様は、恵まれた環境に居るのです。


 それに気づかず、劣等感に苛まれ、評判を下げてしまっているのです。クイリッタ様のただ一つの不幸は末っ子として生まれなかったこと。最近はクイリッタ様の乳母に対するあたりもきつくなっておりますので、ますます昔のことがよぎってしまったのです。

 エスピラ様がウェラテヌスの指輪を他のご兄弟にも作ったことも、ユリアンナ様をカクラティス殿下と会わせたことも。理解しつつもずっと文句を言っておりました」


 責めているような口調では無い。

 おおらかで、包み込むような声音にエスピラは思えた。


「私が甘やかして、楽な方法を教えてしまったのかな」


 お礼では無いが、悔恨と謝罪の意を籠めてエスピラは溢した。

 ディミテラが、ゆっくりと首を横に振る。


「例えそうだとしても、クイリッタ様がそれを認めることは無いでしょう。エスピラ様とメルア様に可愛がられながらもマシディリ様は努力を怠らず、さらに兄や姉からも甘やかされていたリングア様に体を使うことだけでなく語学でも抜かれてしまったのです。

 そこまで認めてしまえば、公然と自分の責任を他人に押し付ける人になってしまいますから」


「男の子は難しいな」

「クイリッタ様が殊更面倒くさいだけでしょう。リングア様は、私にとってまさに理想の弟ですから」


 母親の言いなりになっていた子が、成長したなと思いつつ。

 自分の子供たちもどこかに遠征して帰ってきたら大きく変わっているのだろうかと。いや、クイリッタなどは既に大きく変わっていたなと思って。


 エスピラは、書類に左手をかけて目を閉じた。右手で頬から顎にかけて触れ、机に肘をつく。


「もしよろしければ、クイリッタ様につきましては少しだけ私に任せてはいただけませんか? 恩返しがしたいのです。私が生きているのはエスピラ様のおかげ。ビュザノンテンでも、母に殺されたかけた時も。エスピラ様が助けてくださいました。今も、昔よりも良い暮らしをさせてもらっております。その恩を返したいのです」


「恩返しなど考えなくて良い」


 否定の言葉ではあるが、やわらかくエスピラは言った。


 目を開けて、手を下ろす。体の向きはディミテラに。


「だが、息子を任せても良いか?」

「本当のご兄弟のようにとはいきませんが、誠意をもって尽くさせていただきます。クイリッタ様は、本当に不器用な方ですから」


(不器用か)


 おそらく、そう評する者はディミテラだけになるのだろうか、とエスピラは思った。


 エスピラから見たクイリッタは、人によって表情を使い分けられる器用さがある。人に好かれる技術を持ち合わせており、少々努力が苦手。苦手と言うよりも、自分が興味の無いことは本当に頑張れない。そして何よりも、幼き日の我儘で甘えん坊な面が拭い切れていないのだ。


(良き理解者を得られるのは、クイリッタが最初かも知れないな)

 とは、流石に言えないが。少なくとも、ディミテラの前やディミテラの耳に入る可能性が高い人の前では言う訳にはいかないが。


 ただ、エスピラは少しだけ穏やかな気持ちになったのだった。


 それとほぼ同時に、いや、少し遅れて静かながら素早い足音。ほぼ無音の足音。

 書斎の扉が静かに開く。


「エスピラ様」


 入って来たのはやはりソルプレーサ。


 目はディミテラに行き、数瞬の後、ディミテラがエスピラに頭を下げて出て行った。ディミテラのための道を開けた後、ソルプレーサが書斎の中に入ってくる。


「何があった?」


 まさかおやつでリングアとチアーラがもめた、とかでは無いよな。

 などと言う冗談をかますような雰囲気では無く、エスピラは表情を引き締めた。


「戦車競技団の方が来ておりました。緑チームの方です」


 戦車競技団は赤、青、白、黒、緑の五チームが存在している。

 だからと言って特に大きくどうこうと言った話は無いが、マルテレスやグライオが応援しているのは赤のチームで、サジェッツァが応援しているのは青、シニストラは白だ。


 ただし、ソルプレーサやヴィンドは緑を応援している。


「なんでも、クイリッタ様に頼まれて極秘に貸した馬がまだ帰ってこない、とか。上に報告できることでは無いので、正式な形での話では無いことも謝っておりました」


 実際のひそやかな声とは対照的に、エスピラの耳には大きく聞こえたような気がした。

 エスピラは左目を閉じて、右手人差し指の背を軽く噛む。


「日暮れまでは幸いまだ時間があります。第四次トュレムレ補給作戦も滞りなく終わり、マールバラは今はアグリコーラ。危険は」

「日暮れは早いし敵はどこに居るか分からない。クイリッタに何もない保証などどこにもない! 危険などそこら中に転がっている!」


 言ってから、エスピラは後悔した。

 声音が強すぎた、と。叩きつけるようなモノになってしまった、と。


 怒鳴り声を挙げてしまった喉は、確かに痛みも訴えていた。


「それに、事実だとすればクイリッタの行ったことは立派な窃盗だ。然るべき処罰を下すべきだろう。当然、一切の弁護は認めないとも」


 熱い息を荒い息に変えないように気を付けつつ、エスピラは言葉を作り吐き出した。


「極端すぎでは?」

「ウェラテヌスが横暴を許すわけにはいかない」

「仮にクイリッタ様に厳罰が下された場合、最も非難を浴びるのは厩舎係です。次に、戦車競技団そのもの。エスピラ様への非難はさらに後になるかと」


 エスピラの動きが止まった。


「来年の選挙も睨む大事な時期。だからこそ、取れる手段もございますし、自分の子供だからと強く出過ぎるのは却って逆効果だと思います。公平に、公正に。エスピラ様ご自身が訴えつつもエスピラ様が弁護される。それぐらいで良いのでは?」


 息を吐きだしながら、エスピラは左目を右手の人差し指と中指でこすった。親指は痛いくらいに頬骨の横を押している。


「私の説得が上手くなったな」

「気が付けば十年来の付き合いですから。シニストラ様ももう十年になりますけれども、此処にいる者の中では私が一番長いかと」


「私に貴重な水をかけたのは」

「かれこれ七年前のことですね」


 エスピラは親指の位置は変えずに、他の指の位置を変えて口元を隠すようにした。

 薬指で数度、顎のラインを触れるようになぞる。


「クイリッタが居ないとは言っていなかったな。まずはクイリッタを呼んでくれ」

「かしこまりました」


 恭しく頭を下げてソルプレーサが下がって行った。だが、嫌な時間の空きがあって戻ってくる。それが意味するところはただ一つ。


「居なかったか」

「はい」


 エスピラは眉間に寄った皺を指の腹で押しながらゆっくりと掌底を額まで上げていった。


「『クイリッタ』を探せ。探させろ。私も探す」


 立ち上がりながら言うと、ソルプレーサが再び慇懃に頭を下げて出て行った。


(そこまで遠くには行けない、と信じたいが)


 ディファ・マルティーマは壁に囲まれた街。さらに外には防御陣地がある。出て行くのなら、確実に分かるはずなのだ。


(違う。まずはメルアに伝えないと、か)


 探すのも大事だが、まずは妻に報告をと思いつつエスピラは書斎を後にする。ディミテラとの会話の前に読もうとしていた書類の中身は、全く頭に入っていなかった。


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