父親の役割
「父上! また兄上に勝ちました!」
と、リングアが叫びながら書斎に入って来た。
恭しく頭を下げてディミテラが横に退く。人質としての立場を考えて、だろう。
だが、ディミテラを身近な教師として真似している次女のチアーラも、ディミテラと同じような行動をとって横に退いた。
その愛らしい所作に顔を緩めながらも、エスピラはリングアに再度視線を戻す。
「どちらの兄上に勝ったのかな?」
「もちろんクイリッタの兄上です」
「もちろんでは無いだろう」
エスピラは眉尻を下げ、困ったように言った。
「でも、マシディリの兄上は毎日努力しているので勝てませんよ?」
「そのうち勝てる日だって来るさ」
言いながらエスピラは椅子を動かし、「おいで」とリングアに手招きをした。
リングアが跳ねているかのような軽い足取りで近づいてくる。
「良く頑張ったな」
十分に近づいてきた愛息に手を伸ばし、エスピラは頭を撫でた。
リングアが気持ちよさそうに目を細める。口元は緩み、頬は上がっていた。
「わたしも!」
チアーラが駆け寄ってくる。距離が離れているわけでは無いので、すぐにチアーラがエスピラの足にしがみついた。ぴょんぴょんと跳ね、エスピラに自分の頭を撫でるように急かしてくる。
「チアーラは、今日は何をしていたんだ?」
リングアを撫でながら、エスピラはやさしくチアーラに聞いた。
リングアはリングアでエスピラの手に頭を押し付けるように動いてきている。
「今日は……がんばりました!」
チアーラが無邪気ににっこりと笑う。
「そうか。頑張ったか」
笑って、エスピラはチアーラの頭も撫でた。チアーラがきゃーと騒ぎ、エスピラの足をぱしぱし叩く。
そんなチアーラとは対照的に、リングアの頬は少しばかり膨らんだ。
「チアーラ様はユリアンナ様と私が作法の練習をしている様子をじっと見ており、実践もしておりました。その後は、私にアレッシア語を教えてくださいました」
と、エリポス語でディミテラが言う。
アレッシア語は未だに不慣れだが、来てから二年。全く聞き取れないわけでは無いらしい。恐らく、チアーラの言葉とリングアの態度などを見て状況を把握したのだろう。
「そうか。チアーラは先生か」
エスピラは、アレッシア語で次女に笑いかけた。
「はい!」
チアーラが華のような笑みで肯定する。
「父上! 私も先生役だってできます!」
リングアも身を乗り出してきた。
エスピラの太ももに両手を着いて、顔をずいと出している。
「そうだったな。言語の習得速度には先生方も驚いていたぞ。リングアの将来が楽しみだと」
リングアの表情から不満げな色が一掃された。
少しだけ顎が上がり、にこにことエスピラの手を受け入れている。
「さてさて、では先生。先生方の知恵を絞って今日のおやつを決めてきてもらっても良いかな?」
エスピラは、子供たちの頭から背中に手を動かすと、二人としっかり目を合わせた。
リングアもチアーラも頷いて肯定を示してくれる。やる気も十分の様だ。
「じゃあ、仲良く頼むよ」
「はい」
二人の元気良い返事が、微妙にずれて聞こえながらも三男と次女が一緒に出て行った。
兄であるリングアが何が食べたいかを聞いて、チアーラが思い出しながら口にしている。それをリングアは笑顔で聞いて。その次に自分はどれを食べたいかを言っているように見えた。エスピラの視界から外れる間際の兄妹はどちらも笑顔である。
エスピラは二人が視界から居なくなると、書斎の扉を奴隷に閉めさせ、椅子をもとの位置に戻した。
室内にはエスピラとディミテラのみ。
奴隷の気配は少し遠い。
「クイリッタは君の所に行く言い訳として、良くアレッシア語を教えているだけだと言っているんだが」
それでも、エスピラは声量を少し落とした。
「はい。ぶっきらぼうながらも、絶対に早口にはならず、ゆっくりとアレッシア語で話してくれております。基本はエリポス語を使わないのに、たまに難しい言い回しだけエリポス語でも溢してくれて。もちろん、チアーラ様もチアーラ様で愛嬌たっぷりに教えてくださいますので癒されておりますよ」
「陽が暮れる頃にか?」
「クイリッタ様は、完全に暗くなる前には自分の部屋に帰られております。もしや、エスピラ様はご自身の子を疑っているのですか?」
ディミテラが、言いにくそうに、でもはっきりと言った。
(疑っている、か)
ディミテラの母アグネテは、ディミテラごとエスピラを殺そうとした女だ。しかも、その前はエスピラを篭絡しようとしている。
「そう、だな。何と言い訳を重ねようと、信じ切れていなかったのは事実だ」
ディミテラの目が一瞬だけ少し丸くなった。すぐに元に戻る。取り繕ったと言うよりは納得したや当然のことと思った、が近いだろうか。
「それもこれも私などを想ってのことだと理解しております。こちらこそ、生意気なことを言って申し訳ありませんでした。
クイリッタ様は他の人の前ではまさに名家の令息。あたりの良い言葉と物腰やわらかな雰囲気、そして子供特有のあどけなさを存分に発揮しております。そのような者がぶっきらぼうになるなど、私を信用してくださっていなければ信じられないことでしょう」
落ち着いたのはディミテラの方もだ、とエスピラは思った。
初めて会った晩餐会の時などは、この娘は食事に夢中だったのである。いや、あるいは目の前で繰り広げられていた探り合いから離れようとしていたのか。
どちらにせよ、今の落ち着いた丁寧な話し方などは想像もつかなかったと言っても過言ではないのである。
「君は娘のようなモノだと思っているよ。まあ、扱いは本当の子供たちには劣ってしまうけどね。残念ながら、私はタイリー様のように実の子以外にも実の子のような扱いはできないらしい。
っと、タイリー様と言っても分からないか」
「メルア様の御父上だと聞いております」
「それだけでは無い。私にとっては、父上に等しい存在だったよ。本当に良くしてくれた。私の最大の味方を選べと言われたらタイリー様かマルテレスだろうな」
その上、タイリーはアレッシアをほぼ手中に収めていたのである。
あの頃は、陰口を叩かれることこそあれど足を引っ張られる様なことは無かった。
(父の役割か)
今のエスピラは、残念ながらそこまでのことはできそうにない。
「ディミテラ。アレッシアに於ける人質とはすなわち客人だ。困ったことがあれば遠慮なく言ってくれ。誰に対することでも、何に対することでも。ウェラテヌスの名のもとに面倒を見ているわけだからな」
それでも今だからこそできることもある。エスピラにしかできないこともある。
タイリー・セルクラウスと自身を比べるのを止め、エスピラはディミテラに落ち着いた顔を見せた。
ディミテラが目を閉じて、腰から頭を下げる。
「ありがとうございます。ですが、本当に困ったことはさほどありません。ウェラテヌスの方々は驚くほど自在にエリポス語を操っておりますし、良くしてくださいます。言葉が通じないことを不安に思ったことはありません。
クイリッタ様はアレッシア語ばかり使いますが、それもクイリッタ様なりの思いやりだと私は思っております。あの年齢であれ、最初は夜に男の子が来たことに警戒もしましたが、クイリッタ様もエスピラ様の御子息。無体な真似などすることがありましょうか?
それよりも、私はビュザノンテンで乱暴狼藉の限りを尽くしたエリポス人の方が怖く、野蛮に思えております」
今は亡きキンラと没落したシズマンディイコウスの争い。
そう言えばその過程で既に一度、ディミテラは命を失っても構わないと言うような形で利用されていたなとエスピラは思った。
「良く思っていてくれている所申し訳ないが、結局軍団などどこも同じようなモノだからな。あまり幻想は抱かないでくれないか?」
眉を下げてエスピラは言った。
ディミテラがくすくすと笑う。少しだけ母であるアグネテに似ていたが、全く違う綺麗なモノ。春にせせらぐ小川のような笑み。
「例えそうだとしても、エスピラ様の軍団は規律が徹底されておりました」
「これは今後も気を付けないとな」
エスピラは溜息交じりに、それでいて楽しそうに笑ったのだった。




